ヘボのアルバム (続編)

四季折々の戯言を・・・
そこから何が読めて来るか?

     『 凄い、環境適応能力・・・② 』

2015-11-09 15:03:19 | 日記

             


スズメバチ族が学習能力に長けていることは先に述べた・・・
多くに蜂狂は極々当たり前に先人からの伝承を受け「スガレ追ひ」等の遊びをしているが此処に目を付けた御仁は凄い!と思う!!!
電灯文化の勉強に強かった個安藤登美夫さん:中小ドクちゃんは何処でどういう文献を読み勉強されたか聞き漏らしたが何でも江戸時代辺りから信州の山男たちが遊んでいたらしい!
確かその文献の一部をコピーして貰った記憶があるが管理不十分は老い耄れ爺、何処かに仕舞い込んで簡単には見付けられなんでいる・・・
どういうヒントからこの遊び術を展開させて行ったか知りたい所であるが、、多分、多くの先人達のトライ・アンド・エラーの繰り返しで今日のレベルに到達したのだろうと推測する。

yがこの遊びを親父さんから教わったが、親父はyより30歳先輩だ。
或る時、「親父さん、スガレ追いひは誰じゃら教わったか?」と聞いた事があった。親父さんの親父、詰まり、爺様という事になる。 父は末子だったので多分爺様が40~50歳の頃生まれたと思われる。 それは長女の子が老い耄れ爺の父より4~5歳年上だったので草推測できる。 先人達の家族は皆そうだった!!!
依って元情報の主は更に40~50年先から知っていた事になる・・・
八ヶ岳山麓の農家の先輩餓鬼共はこのスガレ追いひをして遊んでいたらしい! 逆算すると今から大まか200年前の事になる・・・
多く人達はこの「スガレ追ひ術」、信州伊那が発祥の地だと言っているが何となく嘘話でもないらしい?

これが口伝えに近隣諸国、甲州、東濃、飛騨、三河辺りへと広がって行ったのだろう?
そしてこの術、その基本は100年前と殆ど変っていない!!!
親父からの教え、
  餌:ゲーロ(赤蛙、殿様蛙)
  紙縒り:脱脂綿を捩って飛ばす時点に捻る。
  探巣:①追い掛け
     ②透かし
  花火:皆自家製で、硫黄・硝石・カイロ炭で捩って造っていた。稀に、セルロイドや導火線を使う御仁も居た・・・
  飼い蜂:遣る事は遣っていたが今程盛んではなかった。 巣の数が馬鹿多く飼い蜂をする程のメリットが無かった・・・山に出掛けると何時でも何処でもメッチャ取れた!!!
      それでもお盆になると飼い蜂を蜜柑箱に入れたり、家の傾斜土手に活けて飼っていた。
  蜂の子缶詰め:諏訪の特産で信州・茅野に缶詰め工場があった。
  市場の様子:諏訪の市場では毎年蜂の子の市が発ち、毎日、競りが行われていた。そして、上諏訪の八百屋さんでは蜂の子の生が売られていた・・・
yがまだ幼かった凡そ、70~80年前の話である・・・
こういう点を鑑みると今の技術とそう大きくは変わっていない!!! 唯違うのは、野生の生息が激減、否超激減したと言う事だ!!!

畑のジャガイモを掘りながら土だらけの、また、鼻糞穿りの真っ黒な手で真綿や脱脂綿を捩り、小さな紙縒りを作り、この先端を赤ゲーロの脚の筋肉、マッチ棒サイズに練り込みジスガリ(ヘボ)の後ろから持たせる手法は原則今も変わらない!
脱脂綿や真綿の紙縒りは直ぐに喰い切られる!という弱点を持っていた・・・
尺取り虫運び方法は父から教わった秘伝でもある!!!これが何故出来るのか?不思議で不思議でならなかった!!!そして、ジスガリ達は、何回でも何回でも餌の所に戻って来る記憶の芸が神秘に感じられていた・・・また、飛行道を形成し此処を通い道と称して透かしの大ヒントにしていた事を今でも忘れる事が出来ない!
これ等は非常に重要な情報で後々のスガレ追ひ術に使われて行く習性の数々でもあった・・・

コメント
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