京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

新熊野神社

2020年02月20日 07時38分00秒 | 日記
 泉涌寺雲龍院の拝観後、東大路通を北へ。新熊野(いまくまの)神社へと来ました。


新熊野神社は平安時代末期の永暦元年(1160)、後白河上皇により創建された神社です。
院は天皇の位をわずか3年で退位され、その後上皇として34年にわたって院政を行いました。

その際のお住まいが蓮華王院(三十三間堂)東向かいの法住寺です。
その法住寺の鎮守寺が平清盛が造営寄進した蓮華王院で、鎮守社として紀州熊野から勧請されたのが新熊野神社です。
神仏習合が色濃く表されています。





東大路からよく見える大楠は紀州熊野から運ばれた苗木を院がお手植えされた楠で樹齢は900年と言われています。

先程も"神仏習合"と書きましたが、飛鳥時代に仏教が日本に伝来し、やがて日本古来の神々と習合し、一体として祀られるようになりました。

弘法大師空海が高野山に金剛峰寺を開かれた際にも当地の神々を祀る鎮守社を創建しています。

後白河法皇の神仏習合の考えでは、熊野牟須美大神(那智勝浦退社)は千手千眼観音、速玉之男神(熊野速玉大社)は薬師瑠璃光如来、家津美御子大神(熊野本宮大社)は阿弥陀如来が仏教での本地仏と考えておられたようです。







本殿左右には御神木の梛(なぎ)の木が、御神鳥は三本足の鳥として知られる八咫烏(やたがらす)で本殿の屋根瓦にも見られます。
授与して頂いた御朱印の"新熊野神社"の文字も八咫烏で構成されています。





後白河上皇は鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇が急死された事で偶然にも皇位に就かれ、保元・平治の乱をを切り抜け"天下の大天狗"と酷評されながらも34年もの長きにわたり院政を敷かれた手腕は凄いものがあります。
また、34回も熊野参詣をされたり、今様を愛好し"梁塵秘抄"を撰したり文化面では貢献された方でした。
平家による南都焼き討ち後には、東大寺の復興に積極性に取り組まれました。

今思えば、不評だった大河ドラマ「平清盛」も良く出来た大河だったと思います。

世界文化遺産 二条城②

2020年02月19日 07時32分00秒 | 日記
 老中の間の障壁画を鑑賞した後、本丸の南にある梅林に向かいます。





唐門は平成25年(2013)の修復工事で檜皮が葺き替えられ、彫刻の色彩も蘇り往時の姿はこのように豪華絢爛だったんですね。





駒札にあるように二条城には南門はありませんでした。大正天皇の大礼の際の饗宴がここ二条城で行われ、その際、大正天皇の入城口として造られた門です。





あまりメジャーな観梅スポットではないですが天守台や西南隅櫓を背景に見応えがあります。





次に本丸へと向かいます。







かって天守台には伏見城から移築された5層の天守閣があり、滅多に御所から出る事が許されない後水尾天皇の行幸の際には、ここからの眺めを大層気に入られ2度にわたって天守に昇られたと伝わります。



本丸御殿には京都御苑今出川御門のすぐ南にあった旧桂宮御殿が移築されています。

しかし耐震をはじめ大規模な改修工事が行われていて今は素屋根に覆われて宮家の雅を見る事はできません。
工事完了後には是非とも公開して欲しいものです。







この奥には非公開の西門があり、幕末には幕府軍が鳥羽伏見の戦いでの惨敗の報に接した将軍慶喜はこの西門から退城し、海路、江戸に向かいました。





北大手門。
東大手門が改修工事の際はこちらからの入城でした。

徳川家の栄枯盛衰を見てきた二条城、まだまだ語り尽くせない魅力ある城です。









世界文化遺産 二条城①

2020年02月18日 13時30分00秒 | 日記
 2月14日は二条城を訪れました。新聞で梅の開花状況を見て開花が進んでいるのと、京都検定の合格証で入城が無料になるのもありますね。




いつものように地下鉄二条城前で下車し、地上へ。お気に入りの東南隅櫓を見ながら東大手門から入城します。


東大手門は最近、改修を終え一段と華やかさと威圧感が増しました。
東大手門が最も豪華で威厳に満ちているのは、東にある御所に対して徳川家の権力と財力を見せつけている様に感じます。



まず向かったのは収蔵庫展示室です。
今回は式台にある老中の間3室の花鳥図のオリジナルが公開されています。

二条城では文化財保護を目的にオリジナルの障壁画は収蔵庫で保管し、部屋には順次模写の画と入れる作業が進行中です。
新しい絵は制作された当時を忠実に再現しされていますが築城から400年を過ぎた二の丸御殿には新し過ぎて不釣り合いに感じます。(100年もすれば建物に馴染んで来るのでしょうが、、、)

寛永年間に改築された際、二条城の全ての障壁画は若き狩野探幽率いる狩野派の絵師たちの筆によりますが、実際にだれがどの絵や部分を担当したのかは判明していないそうです。
当然ですが障壁画には落成款識は入っていませんので絵師を特定することはできません。

狩野派の絵師にも得意、不得意なモチーフはあるでしょうから約3600面もの障壁画、、、完全分業制で制作されたようです。


上の絵の真ん中が老中の間です。下の大広間の障壁画とは随分と雰囲気が違います。

老中の間は一の間から三の間まで四季をテーマにした花鳥図が描かれ、遠侍の間や大広間のダイナミックで威厳に満ちた障壁画に比べ落ち着いた雰囲気の絵になっています。



学者により探幽自身の筆によるとか狩野興以、京狩野の祖・山楽を主張され想像をかき立てられますね。



次に梅園へと向かいます。




車折神社

2020年02月17日 08時53分00秒 | 日記
 車折神社は嵐山にある古社で祭神は平安時代後期の儒学者清原頼業です。



清原頼業は有能な官僚で特に和漢と政治の実務に堪能で時の摂政関白を務めた九条兼実から政治の諮問を受けるほどです。

一族には三十六歌仙のひとり清原元輔、その娘清少納言がいます。







平安時代に後嵯峨天皇が嵐山に御遊幸の際、この地で牛車の轅(ながえ)が折れたので「車折大明神」の神号を賜り「正一位」の位を贈られた事から以降、「車折神社」と呼ばれるようになりました。





境内には桜の木が多く植わり桜の名所として人気のある神社です。
この冬の暖冬の影響でしょうか?社務所前の桜が早くも数輪咲いていました。







境内の梅も例年よりも早く、枝垂れ梅も開花が進んでいます。







車折神社には多くの末社摂社がお祀りされていますがやはり、芸能神社には多くの人がお参りされます。
知っている芸能人の名前を見つけるのも楽しみのひとつです。









毎年5月の第3日曜日に行われる三船祭は車折神社のお祭りのひとつで、平安王朝の優雅な船遊びが再現されます。
境内には鷁首船(げきすせん)、龍頭船の船首が置かれています。















無鄰菴 在釜

2020年02月16日 08時20分00秒 | 日記
 2月11日は、15時から無鄰菴で「松栄堂x無鄰菴 庭でサロン-香-」の講座に参加しました。



昨年にも3回お香の講座を受講しているのでまた、いい香りのお香が聞きたくなり参加しました。
今回も沈香が主だったので白檀など違う香も聞きたかったのが正直な感想です。

受講経験により講座の内容も変えて頂けたら、より深くお香の世界を楽しめると思います。



講座が終わり主屋一階で呈茶を頂きました。無鄰菴では毎週火曜日には在釜の日をされていますが今回初めて参加しました。
後ろには、俵屋宗達筆の国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」の高精細複製が置かれています。大日本印刷さんが製作された複製ですが本物と見分けがつかないくらい精巧です。
本物は東京の静嘉堂文庫が所蔵されています。





無鄰菴の名勝庭園を眺めながらお薄を頂く贅沢を楽しませて頂きました。
正客と次客だけのお点前だと思っていましたがちゃんと皆さんの分もお点前をされます。
楽しいひとときでした。





久しぶりにゆっくりと庭園を周りました。
もみじなどの樹が落葉している庭は隅々まで見え、他の季節には見えなかった景物まで鑑賞できるのも冬の庭園の楽しみのひとつです。

苑路の飛石の打ち方ひとつを見ても植治の工夫を感じます。









苑路を進むに従って見えなかった池泉や洲浜が現れ、さらに奥の沢飛び石を渡る時には水が落ちる音が聞こえ、視線を上げると三段の滝が目に入ります。
第三章まで楽しめる庭園ですね。









洋館も見学し、無鄰菴を後にしました。