ニワトリの鳴き声
司馬遼太郎が『竜馬が行く』で、耳が遠くなった年寄りがその自覚がなく、こう嘆いていたという例をあげている。
「昔のニワトリはもっと大きな声で鳴いたものだ。何なんだ、最近のやつらは!」
これが笑い事でないのがわれわれの業界である。
「最近の生徒はきかねえんだよ、寝てばっかりいる」
「この学校の生徒はだめ、進学校とは違う。やる気がない!」
意欲関心を評価する
意欲・関心など評価はできない。私がここで書くのは、この自明な事実ではない。この自明な事実を、自明でなくさせるシステムを書こうと思うのだ。このシステムは、ある行為をもって崩壊する。それは生徒がこう、全員問うことだ。
「僕の・私の意欲関心は何点ですか?」
もちろん、この質問が発せられないから持続させることができるのが、意欲関心を成績評価するというシステムなのだ。テストあり、提出物あり、そして、学校の先生お得意の授業態度、意欲関心を総合評価する。もちろん、その心は
「適当などんぶり勘定」
と
「依らしむべし、知らしむべからず」
この二つをあわせた「恭順=従順度」を計るというものなのだ。これは、くわしくいえないが、高度成長モデルとしては機能したのだった。
バカ教師と有能教師のやる気
このシステムは、もうひとつこういうシステムがないことによって成立している。それは、教員の能力差が存在しないという前提だ。
「あの先生は説明が下手だし、わかりにくいし、おもしろくないし」
とりあえず、自分を棚に上げておくが、こういう悪評が高い教師が僕の所属する学校にいる。これでも、何年か生徒の授業評価の集計をやっているとわかるのだ。わかりやすいという評価、興味関心がわくという評価が5段階で「平均1点代とか、2点代前半」という人がいるのだ。そして、その教師がこう職員室で豪語しているのだ。
「しょうがねえよ、生徒は!きいてねえ」
これが、有能と無能の格差が存在するというのであれば、こうはいかないはずである。現在、教員の教授能力は客観的には測定し(でき)ないのです。
しかし、こういう事態が表面化したらどうだろうか。複数の教員を同一時間に並べて、選択可能である。ある一定の時間の受講期間に限って、渡りがありである。そして、最終的にいずれかを選択する。視聴ビデオもある。受講生のレベルに応じた感想が公開されている。評価も閲覧できる。
意欲関心が評価から削除されないわけ
ロシアがソビエトの計画経済から市場化したとき、よくいわれていたのが、何がよいのか、わからない、ということだった。君はここに住んでいるからこのスーパーマーケットへいけ、といわれれば、比較もできない、大体、何がよいかもわからない。こうして、小学校中学校とやってきて、さあ、いきなり、〈選択〉せよなる。これが私の勤務する単位制高校の現状だ。しかし、単位制高校が機能をフル回転したとき、意欲と関心はすくなくとも、
「しょうがねえ!こいつら」
という対象ではなくなる。
同一時間に複数の日本史が存在する。選択してよい。その複数の中には予備校も参入している。生徒をとりあうのだ。その取り合いに負ければ、その分の給料はない。
このとき、興味関心は評価の対象から喚起するのが当然の対象に変貌する。細かいニーズ、いったい歴史に興味を持つとはどういうことなのか?
先ほどの教員だが、私にこう豪語していた。
「生徒の興味関心なんてばらばらでこっちではどうにもならない。大体、基礎学力もねえやつらに、興味も関心もねえ」
最初のニワトリじいさんの話をここにひこう。耳が遠いことに気が付かなくてすむシステムがあるのだ。そして、気が付かざるを得ないシステムが存在する。そして、気が付かなくてすむという前提が崩れたとき、現在の評価基準としての意欲と関心は評価の対象から自然消滅せざるを得なくなる。
もちろん、能力の高低は存在する。興味や関心のばらつきは存在する。その上で、次の段階になったときに、いかに到達させるかという問題が浮上するのだ。現在存在するのは、素直な恭順を示せない不満分子を排除する機制というのが、この興味関心の機能なのだ。そして、それは、くりかえすが封建的な機能という意味での差の隠蔽をシステム原理にするところから発しているということだ。こういうと市場原理万能というパブロフの犬がおり、生徒を甘やかすという議論が噴出するのだ。何が何でも苦渋に顔を歪めてでも素直を求めるエトスである。経済学は功利主義を原則にし、効用理論をもってその評価を下す。その側に立つなら、
「どうして、勉強するのが楽しくなくてはいけないのだ。なんで、デキの悪い人間は苦しまねば、勉強に入っていけないときめつけるのだ」
小生は、必ずしも効用理論の側で思考してこなかったのだが、ここは反論がない。
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