高校公民Blog

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学力を問うな!――履修と修得

2009-07-28 05:54:12 | 学校の呪術

履修と修得

 私の実感では、高校ぐらいになると、親も成績の中味にあまり興味をもたなくなります。通知表を見て、自分の子供のテストを見て、何でこの成績がついたのか、と苦情をいただくなどということはなくなります。ま、めったにありませんね。
 ところで、学校の専門用語に「履修」と「修得」ということばがあります。私は親御さんに、まあ、このくらいは理解してくださいと、申し上げるのですが、保険の説明同様、年に三度程度のことなので、みなさん、そのつど、言葉の意味をお尋ねになるのです。
 で、そのおさらいのようなことをまず、申し上げます。
ある科目の授業が、年間35週、たとえば週に2時間の授業があるとします。そして、一年間授業に出て、成績が出たとします。
 「履修」とは、その際に「授業に出席する」ということです。学校は、ある一定の授業数出席しないと、その科目の履修認定、つまり、授業に出たとは見なさないとしています。その数値が「全授業数の3分の2以上」なのです。したがって、欠席が「3分の1+1以上」になると、年間一度も授業にでなかったと見なされることになります。ということは授業に出なかったのだから、成績も付かない、つまり、もう一度来年履修してください、ということになるのです。
 それに対して、「修得」とは、文字通り学習の成果が身についたか、ということです。ここをしっかり理解してください。学習の成果を最終的には「5」段階でつけ、そのうちの「1」については、普通高校では「未修得」としています。
 現在の高校の卒業要件は、「必履修科目」を履修した上で、「74単位以上の修得」をすること、となっています。
 おわかりいただけたでしょうか?このことを踏まえて、これからの議論をお聞きいただきたいのです。

出席点だけなら犬でもできる

 
成績は通常、学期ごとの評価が10段階で、学年が5段階でつけられます(これ「修得です!」)。さて、そのときに、学校の先生のお得意の修得の評価対象に「出席」と「授業態度」があります。じつはこれは考えれば考えるほど謎なのです。ちょっとあなたに聞きますよ。
  「出席」を「修得」として評価するってどういうことですか?
 あなたはご自分の10段階の成績で「出席」がどのくらいを占めるかご存知ですか?
 大体、出席するって何の能力なの?健康に学校へ来ることができるかという能力?足があるかどうか、という能力?歩けるかという能力?教室を識別できるかどうかという能力?だったら犬でもできるよねえ。3歳児でもできるよねえ。大体、その能力と僕の科目の「現代社会」の能力はどう関係があるの? 10段階でも5段階でもよいのです。修得したという能力の中に「出席」があるということは何なのでしょうか?現在は〈絶対評価〉ですよねえ、では、私は、どのくらい出席点は到達したのですか?
 くどいようですが、大体、あなたは自分の成績のなかで出席はどのくらいのウエイトを占めているかご存知?
先生に聞いたことがある?
ここまで問うたとき、生徒は沈黙するのです。
私がここで書くのはこの「沈黙」の意味です。

意欲と授業態度

 実はここまでの文章を読んだだけでむかむかしている先生がかなりいるはずです。イライラ、むかむかしているのです。特に、頭が体育会系の先生はもうダメでしょうね。
「出席は何の能力か?」ときくと、それは「意欲」だとかならず言う方がいます。
「意欲」はでは測定できるのでしょうか?
 では、その問いを伏せて仮に測定できたとして、「出席」すれば「意欲」が測定できたことになるのでしょうか?
 大体、寝ている生徒がいますよね、それって出席してても出席したことにならないのでしょうか?「意欲」がないわけでしょ?
 では、聞いているフリはしているのだけれど実質「寝ている」人はどうなるのです? 「目をあけて寝る」 生徒さんにはこういう器用なことができる人がいっぱいいます。目はあけているけど寝ている。聞いちゃあいねえ、という人です。目を空けて寝ている人と目を閉じて寝ている人の識別はできるのですか?大体、数学のような科目は人によっては小学校の段階でもう、さっぱりわかっていない人がいます。そういう人は小学校いらい授業中の先生の言語は「サンスクリット語」と同じです。「目は空けているけど聞いてもさっぱり」なのです。寝ている人と同じじゃないですか?理解できて寝ている人と比べて御覧なさい。大体このふたりの区別を外見でできるのでしょうか?そこにどのような「意欲」の差がみいだされるのです。そして、それはどのように数値化できるのです。

「あーーーーーーーーーーーー、うるせえ!!!!」

 誰ですか?今の声?
 さて、話を転換しましょう。
 授業態度は点数にできるのでしょうか?
 みなさん聞いて御覧なさい、先生方に?「あの人、ひじをついてきいてますよね、何点ですか?」
「今日の僕の授業態度点は何点ですか?」
 これを全員が発して御覧なさい。

採点不可能

です。

問題はそこにはない

 実際のことを言いますよ。授業態度など成績に入れることは不可能です。私にはできません。いや、合理的に説明できない。
 いえ、実は、問題はそこにはありません。問題はそこではありません。最大の問題は 生徒が

「私の授業態度点は何点ですか?」

という問いが発せられない(「発しない」ではない!) ところにあるのです。
 ここを考え違いしてはいけません。
 ここに日本の教育の、マインドコントロールの究極の到達点があるのです。生徒は自分からこの問いを発しないのではありません。発することが「できない」のです。ここに日本の教育のツボがあります。評価される人間に基準を絶対に問わせないように教育すること、これが日本の教育のマインドコントロールとして全力を込めて行っている究極の到達なのです。そして、もっとすごいことは「評価される人間に基準を絶対に問わせないように教育」していることを実は教育している人も気づいていないというところにあるのです。これを私たちは「伝統主義」(マックス・ウェーバー)と呼びたいと思います。そのことの意味も、合理的な根拠も溶解してしまい、無意識と化した究極のエトスがここに存在するのです。

授業態度と出席が崩壊するとき

 「授業態度」と「出席」は全員が自分の成績の中でどのくらいの配分になっているのかを〈問いただした〉ときに崩壊します。
 なぜなら、説明できないからです。いや、この問いは現実的ではありません。実際は

「何?出席点?つべこべ言うな!全部出ればいいんだ。そんなことは気にするな!」

とこの問いそのものを全力で打ち消されることでしょう。
 なぜか?
 出席点など測定不可能であり、授業態度など点数化できないからです。出席点は能力ではありません。授業態度も能力ではありません。そういう問いを発することが授業態度点を落とす(!)のです。

「つべこべ言わない能力」

実はこれが出席点と授業態度点の正体なのです。孔子はそれを「忠」とも「孝」ともいいました


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