いつ管理職試験がなされるのか
静岡県では管理職任用試験は非公開です。今回はこの件のモンタージュの謎解きをしましょう。このまえ、ユニオンという組合の新聞にこのような記事が載っていたのです。記事の内容はユニオン幹部が県の高校教育課と交渉した内容を伝えているのです。(高校ユニオンニュース2005.11.20、なお、引用内のユニは「高校ユニオン」、高校は高校教育課)
「管理職任用について
ユニ:管理職選考について、評価制度の問題もあるので透明性を持たせて欲し い。評価者の信頼につながる。いつ、どこで、どのような試験が行われているのか、行われた結果がどのように判断されているのか。
高校:服務も含めてオープンにということと思うが問題、日程等どこまで対応できるか分からないが、そういう方向で考えている。
ユニ:評価制度が始まる時であり、評価が最終的には給与にリンクされてくる。信頼性を担保するために必要である。
高校:透明性を確保することが重要である。」
どんなに当たり前でも確認しましょう。ユニオンがこう問うていますね。
「いつ、どこで、どのような試験が行われているのか、行われた結果がどのように判断されているのか」
おかしいとはおもいませんか?ためしに、みなさん、ここでご自分でお考えになって欲しいんです。ここまでで、どういう人間が管理職になっているか?って。
比較の対象としての大学入試
まず、確認します。
「管理職試験が非公開で、いつ、どこでおこなわれ、どのような判定基準なのか、ということが不明確だ、ということが問題である」
ということは当然です。というか、それが問題の中心ではないように私には思えるのです。このことをいくら騒いでもこの問題の解決にはならないのではないか。
ところで、こういう仮定をしてみたらどうでしょうか。もし、東京大学を目指している学生に、こういう設定をしてみるのです。
「入学試験は非公開で、いつ、どこでおこなわれ、どのような判定基準なのか、ということは不明である」
普通、こういう設定をしたら、一番平穏な学生でさえ、東京大学に問い合わせますね。
いつ試験は行われるのか?
何の科目が試験として問われているのか?
では、なぜ、問い合わせるのでしょうか?理由は簡単です。東京大学は受験準備なしで入れないからです。最大に重要な事項は何ですか?
「いつ行われているのか?」
「どのような事が問われているのか?」
じゃないですか?つづいて、競争倍率はどのくらいなのか?合否の基準はどのようなところにあるのか?などが問いたくなりませんか。それは、何が何でも受かりたいからです。何が何でも受かりたいならば、この程度のことを問い合わせ、もし、非公開だといったら怒りませんか?なぜ、怒るのか?準備ができないからです。
つまり、です。こういう設定をしても、怒りもなく、問い合わせもしない、という人間が実は管理職になっているということです。このことの意味を考えなければいけません。
少なくとも、この時点でこういうことがわかりませんか。このことに対して、公的な苦情も質問も問い合わせもないとすると、受験者は、受験準備の必要をみとめてないという仮説です。受験準備をしたいとおもうならば、非公開の現実を「おかしい」とする声があがり、問題となるはずです。しかし、静岡県でそのようなことが問題になったなどということは聞いたことがありません。受験者も、それから合否を判定する任命権者も、事前の公開をみとめていない受験制度とは何か。
なぜ、受験者はその要求をしないのか?
なぜ、任命権者は、その能力を測定するために、試験日を公開しなくても、問題をあらかじめまったく明かさなくてもよい、と考えるのでしょうか?
無意志という意志
私が問題にしたいのは、こういう設定で、怒りもなく、抗議もしない、という世界の住人はどのような人間か、これを当然と受けとめている管理職志望者とはどういう人間なのか?ということなのです。高校教育課は、ユニオンの質問にこう答えていました。
「服務も含めてオープンにということと思うが問題、日程等どこまで対応できるか分からない」
日程を明確にしない、できないということは何を意味するのでしょうか?それは任命権者がこういっていることと同じです。
「いつ管理職に志願するかしないか、は俺たちが決める。君は決める必要はない」
ということです。そして、試験内容を公開していないということは、
「何を試すか、何を選考の基準にするかは君たちは一切考えなくてよい。すべて、俺たちが決める。準備の必要はない。」
これに素直を従うということです。
これは、どういうことか、というと、被験者は準備の必要がない、少なくともいつ何が試験されるか分からないのですから、試験範囲はすべて、つまり、「無い」ということになるのです。
「白無垢を着て待ってろ」
これが要求のすべてです。任命権者に呼び出され、何を試験されるかわからない。基準はすべて不明。繰り返しますが、私は東京大学の入試でこんなことをいったら暴動が起きると思いますね。じゃあ、なぜ、静岡県の管理職任用試験で志望者の暴動が起きないのか?
理由はただ一つ、試験なんぞ意味がないからです。試験なんぞ、成人式と同程度の通過儀礼、こう考えるよりありません。だから、管理職になりたい人間が問題集を解いたり、予備校に通ったりすることもないのです。問題をなぜ公開しないか?わかります?なぜ、公開しろ、とだれも管理職志望者が要求しないか。くりかえします、
「自発的な問を発するというぶしつけをするようでは管理職にはなれない」
からです。試験の日程はいつか?何が問われるか?合否の基準は?そういうことを追求し、明確にさせるという「ぶしつけ」をしてはいけないという〈分別〉こそが大事だ、とみんなわかっているということなのです。
授業態度と勤務態度
もう一度考えてみましょう。試験内容が不明ということはどういうことなのでしょうか?それは、
「評価基準も、質問についても問わないこと」をその態度の基本として要求しているということです。
これに尽きるのです。
「服務も含めてオープンにということと思うが問題、日程等どこまで対応できるか分からない」
のではありません。そんな基準なんてないんです。ないから、示せないのです。これを公開したらどうなりますか?絶対基準を示せとなったらどうなりますか?私のようなかつての受験人間にジャックされかねないじゃないですか。
どんな資質を必要とするのか、それが試験ではないですか?
それをどうして公開しないのか、できないのか?そんなことで人事は動いていないからです。そして、そんな、能力なんてどうでもいいと思っているから、管理職志望者も県高校教育課に試験内容を問い合わせないのです。明確な目的意識を測定しないこと、あくまで素直にしたがう恭順の姿勢をみせること、与えられた仕事に対し適度のやる気を示すこと、ついでに県教育委員会の要職のあの人とつながっているということ。ここからどうやって多様な人格が管理職として任用できるのでしょうか。
ここにこういう管理職志望者像がモンタージュとして形成されるのです。
管理職になるにあたって努力し、試験してもらう能力には、それも客観的能力には、興味もなく、示そうという意欲もない、ただ、お呼びを待っている人、でも、管理職にはなりたい、でも、それも自分から示すぶしつけはしない
これが以上から分かる管理職のモンタージュなのです。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑
よろしかったら、上のバナーをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます。