高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

履修不足問題のモンタージュ 1 謝った人たちと謝られた人たち

2006-10-29 21:15:41 | 教育時事

今回の履修不足問題は大変さまざまな要因が伏在しています。一回の文章で全部を網羅することは少し困難があります。そこで、すこしづつこの問題を考えていきたいと思います。

教育長への階梯

某F(富士?)高校の先生のブログにこのような記述がありました。 

「そもそも、県教委は今までに虚偽記載があることを完全に把握していた。だいたい、静岡県を含めて、県教育委員会の偉い人は、公立有名進学校の教頭や校長がなるのであって、公立有名進学校が、未履修・虚偽記載の実施校である。」

 少し註釈をつけます。大体教育委員会といいますが、教育委員はほとんど名誉職でなにもしていません。実質、教育委員会の業務を執行しているのは教育長です。そして、その教育長は、教員の中から仲間内で選任されていくのです。まさに、これが一つの教員の立身出世コースなのです。この階梯を列挙しましょう。
  教員に採用、教諭になる→学年主任、生徒課長、進路課長などを歴任し、最終的に教務主任につく(30後半から40代の半ばには遅くともここまで来ないとね!)→教頭→校長 これが一般的なコースです。しかし、教育長になる人となると何歳かしりませんが、30代には県に配属されて、その配属の基準は????です。ともかく、教育委員会に配属されて、そこのなかで課長職になり、そのまま教頭ぐらいを勤めて、そのまま校長になる。校長といってももちろん、超進学校に配属されるわけです。そして、教育長まで駆け上がるんです。
   さて、いずれにしても、今回謝っていた校長たちは未来の県教育委員会の管理者候補たちなのです。まちがいなく、そのなかから県高校教育課に配属される人間が出る。ということは、県高校教育課の現職はかつてどこかの進学校の校長や教頭を歴任した可能性が極めて高い人たちなのです。県が知らないということはあり得なかったはずですね。

謝られた人たちの怒りと不信

 もう一つ、謝られた人たちの方を考えてみましょう。ま、受験生です。みんな受験生でしょ?彼らは、この履修不足の何が問題だったかといえば、そのせいで卒業が出来ないかも知れない、ということと、補充授業を受けなければならないという二点ですね。
 じゃあ、履修不足にいたらしめたそのカリキュラムに彼らは不満だったか?
 世界史が必要ない生徒がきっちり日本史もやり世界史もやる、倫理も受ける、政治経済もうける、となったとき、どうだったか?そこには不満が噴出していたにちがいないのです。そうです。そこには、共通した認識があったということです。
 受験以外には学校の授業は興味がないということです。意味もない。受験というものがかろうじて関心をつなげていたのだ、という事実です。だから、学校側の履修不足のカリキュラムは彼らにとって好都合だったということです。それが証拠に、この卒業問題と補習問題が発覚しなかった前の世代の人たちでこの問題を問題にした人がいましたか?世界史を自分は習ってないといって問題にした人がいましたか?この問題はたんにでは指導要領通りにやればいいという問題ではありません。今朝の番組でデーブスペクターがいってましたが、下手な世界史の授業をうけるのだったら「世界不思議発見」でも見せた方が100倍マシなんです。そういう意味で今回のカリキュラムは消費者のニーズとあっていたのです。

木村が進学校でなしたいこと

 
木村は進学校で、教養科目のプロになりたいと考えています。木村の「倫理」だけは受けたい、その限りにおいては受験科目じゃあないが受けたい、あの角度は聞いてみたい、と。
 そういう意味で進学校に売り込みをしたいと、そして勝算ありと、少なくとも、やってみなければわからない、と考えています。私は、しかし、そんなことはいわゆる進学校でなければとてもじゃないができないと考えています。進学校だから出来るのです。非進学校では私の能力では無理です。そして、(ここからはうぬぼれ100%とかんがえてください)静岡県で木村以外で「倫理」で進学校の生徒に自発的に選択させることは不可能だと考えています。それくらいに熟練がいります。勉強しなければいけません。
 上の先生のブログのコメントにこのようなものがありました。


 「「一昨年F高校卒業生」さんと同様、私も自分の調査書を見たことがあります。合格した某国立大学に入試の成績開示を申請したところ、入試の点数だけでなく、自分の調査書のコピーも入手できたためです。
私は理系として某F高を卒業させていただきましたが、この調査書を見た結果、
・教科書を買わされたのに授業が無かった「倫理(2単位)」が履修扱い
・教科書さえも買わなかった「世界史A(2単位)」が履修扱い
となっていることが確認できました」

 この学校で一般教員が公民科の教員になったとしましょう。そして、来年から組織の反対を押し切って実際にねじ込んで倫理の授業を行うとします。その方はまちがいなく次の年、左遷の転勤をさせられます。それくらい、倫理を読み替える圧力が受給関係として強く存在しているのです。それが、現在の教養科目の位置づけないしは意味づけなのです。教養科目の意味はない。生徒は見向きもしない。受験のただ邪魔になる。生徒も拒否。提供者側の教員としても提供する意志/能力がない、こうなるのです。これが実態なのです。そういう意味においても、学校側の対応は実は、生徒保護者側のニーズにぴったりだったってことです。学校社会全体の圧力なのです。一校長が自由にできるとか、そういう問題ではありません。だから、校長は「騒ぎになった責任」だけを感じているのであって、当該の本当の責任は感じようがないのです。だって、必然なのだから。

今回の問題の問題

 今回の問題は、未履修であることが問題だとされています。しかし、生徒や保護者にとっては、未履修は実はそれが卒業に結びつけば何の問題も無かったということだったのです。週休二日制に移行したことにともなって授業時間は減った。くわえて受験科目が多様化され、負担が軽減されていった。こうしたなかで受験のニーズとして今回の問題は発生したのです。現場的にいえば、学校は、そうした苦し紛れの方策として読み替えを行ってきてしまったのです。文部科学大臣の遺憾の発言も、校長の謝罪も、マスコミの学校の不祥事という扱いも、実は本当の問題を形成していません。そこにある種の必然をみること、そのなかからしか本当の問題も解決への方策も出てこないのです。

【参考】
履修不足問題のモンタージュ 2 受験と教養
履修不足問題のモンタージュ 3 中央集権と封建制
履修不足問題のモンタージュ 4 公共空間
履修不足問題のモンタージュ 5 チャート式という教養
  

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