現行制度のままのゆとり教育
私は寺脇研氏の本をまじめに読んだことはなく、対談本を一冊流し読み、雑誌の対談をいくつか目をとおした程度である。あと、ビデオニュースドットコムをとおして、あるいはNHKの特集で何回か彼の考えを聞いたにすぎないのだが、なぜか、ゆとりの時間を私たちは意図的とも取れるように誤解しているように思えてならないのだ。この制度が究極制度化されたとき、現行制度は崩壊すると私は震撼させられたのである。もちろん、現行制度のままおおいなる規制を維持したままゆとりの時間を走らせればたんなる怠け者の増幅にしかならない。
必履修ゼロの前提
寺脇が提案しているのは必履修科目を極論としてはゼロにしてしまうということだった。しかし、この前提として彼がいっていたのは、学校の設立資格を規制緩和するというものだった。公立学校だけが学校卒業認定資格をもつという規制を撤廃する。つまり、予備校もフリースクールも塾も卒業認定資格取得を直接応援できるシステムに変換する。具体的な現われとしては公設民営化というコンセプトがこれにあたる。今回修得単位が74単位に落ちたのだが、だから74でいいというのではない、それ以上を設定してはいけないとはいっていない。私たち単位制高校ではそれこそ90単位まで生徒は取得可能であり、自発的に生徒がとりたければ90単位までとれる。しかし、それは、生徒が採りたくなるようなインセンティブを想定してはじめて成立するようになっているのだ。
クーポン券制度
さらに、経済学者のミルトン・フリードマンが提案したクーポン券制度、近年では竹中平蔵氏がいわれたバウチャー制度がそれにあたるが、納税者が申請に応じて学校選択のクーポン券をもらう、そのクーポン券を自分が本当にあっているという学校に投じる。そして、そのクーポン券の数をもって、学校に公的資金を投入する。
さらに私の勤務する単位制を考えてみよう。単位制は生徒が申請した単位を授業料の単位にしている。つまり、90単位でも100単位でもとりたい、身になるという単位を設置し、生徒が応じれば単位登録はいくらでも増やすことができるし、学校の収入もそれにつれて増える。しかし、逆もまた真であり、生徒が応じなければ収入は減るようになっている。
もちろん、国家が最低限度としてそれこそ必履修として設定する科目があるかもしれない。それも学校選択の自由を規制緩和で増加させることで、より自分にあった学校が選択できるようにすればいいというのである。
こうした制度の併せ技を考えたとき、ゆとり教育はきわめて現行の教員には好ましくない制度になる。予備校や塾も参入可能となる。あるいは、塾が再編され、独立の単位として株式会社化し、学校法人となる可能性もでてくる。こうして、公的な財政出動も抑制される。何より教育への需要を喚起するだろう。ただ、楽をするだけの人気取りの学校だらけになれば、そのなかから楽しくてかつ身につくという学校を設立者は考案しなければいけなくなる。そして、その意味で真に生徒、保護者の需要にあわない学校は、この合わせ技一本で退場させらていくことになる。
私はこのシナリオを否定する理由がみつからない。そして、現在のルサンチマンだけが駆動力となっている1940年体制教師は消される。私の焦り、周囲への苛立ちはこういう言説との対面を、それも否定できない対面をとおしてなお増幅する。
学校はじつは生徒を中心に考えれば授業なのだ。そして、その授業が本当に社会へとつながる力になるのか、なにより、現在の生徒が本当の意味で積極的にとりくめる生きた力になりうるのか、それは、より生徒が肥えた舌をもつことで、つまり、消費社会らしく皮肉をこめて言えば、ゴミの山を築いて、判明することになる。私が勤務した静岡中央高校では、授業評価を、生徒による授業評価を実行していた。非公開であり、やっているかどうかもわからない、中には自分の名前を書いて授業の評価をせよ、という信じられない教員もいるやに生徒から聞いていた。確実に学校はゆで蛙なのだ。
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全体として、異論はないのですが、一つだけ、引っかかるのは、
「より生徒が肥えた舌をもつことで、つまり、消費社会らしく皮肉をこめて言えば、ゴミの山を築いて、判明することになる。」
というところ。
物質の消費に置いては、一度に、あるいは、短時間で、大量の消費をすることが可能ですが、
「授業」「履修」「単位修得」という<消費>においては、一度購入したら、半年はがまんしなければならない、一度に<購入>できる授業が限られている、ということがあります。
つまり、生徒が「舌を肥やす」だけの時間的余裕がない、ということです。
さて、どうしましょう。