相対評価の神
ある教科が平均点の半分が5段階の「1」つまり、未修得という驚くべき報告を平然としていました。普通の方にはおわかりになるかしら、この驚くべき時代錯誤(笑)!
県教育委員会事務局は、絶対評価でつけなさい、と指導しています。形だけですけど、これ大事なのです。ところが、現場はまったくこの意味を理解していません。成績の基準を明示すること、これが絶対評価の命です。ところが、平均点の半分なんだなあ(笑)!
これがどれだけ驚くべきことなのか、はこう説明しましょう。
平均点の半分以下をとると「1」になる、としますね。
この人は、平均点を基準にして成績をつけているということなのです。つまり、最初から「1」の基準は明示されていないのです。
平均点が60点のクラスと平均点が30のクラスがあったとしたら、あるいは、もっと大きく、平均点が60の学校と30の学校があったとする、としましょう。
この半分が「1」の目安になるのです。あくまで、相対的な比較で成績が決まるのです。ということは、どこのクラスにも「1」が出現する可能性があるでしょ。比較だから帳尻さえあわせればいくらでも成績を操作できるのです。それから、集団ごとの学力差がまったくわからないのと集団を仕切っている教員ごとの実力差も一切表面化しないのです、これでやると。
すごくできる学校にも相対比較で「5」がでてきて「1」がでてくるのです。
かつては、完全な相対評価でした。割合が決まっているのです。何パーセントが「5」何パーセントが「1」と。
だから、この相対評価でつけていけば、学校が違ってしまうと学力差が全くわからなくなってしまう、ということだったのです。今でも原則かわりませんよ。絶対評価でなんてやってませんから。つまり、評価基準が公表されていないからです。だから、
「あいつ、ま、温情で!」
などということが平気で行われているのです。だって、最後の最後は、絶対評価ではなく、さじ加減をきかすことができるからです。
私は、観点別はやってませんが、絶対評価で成績をつけています。すると、生徒は私の成績の間違いを時々指摘します。そうです。指摘できるんです。基準が明示されていれば、計算可能だからです。
ところが相対評価を加味させていくと、いくらでもさじ加減できるのです。基準が明確ではないから。現在は、先ほどの教科の露骨な相対評価を除けば、絶対評価化しつつはあります。しかし、成績のなかでかならず、相対評価の時代にもっていた相対性を残すのです。いくらでもさじ加減ができる打ち出の小槌をふるえるようにするのです。それが、
授業態度
です。これ、まったく基準がありません。適当なんです。気にくわないとか、というレベルでいくらでも操作できます。先ほど言いましたが、相対評価では評価の全部の平均点がそろいます。したがって、指導力の差異がまったく表に出ないシステムです。ということはどういうことだ、というと、教師の多様な能力差など成績の上では表面化しないということです。それに決定的な追い打ちをかけるのが
「授業態度」
です。成績が相対化されることで、教員の能力差は一切表面化しません。そうです、そのとき教員は神になるのです。
温情をたれ、はらいせにいくらでも成績操作できるのです。教員の恨みの復讐がはじまるのです。
評価基準が不明であるとき、被評価者は一切の表現の自由を喪失します。多様な価値を表現する場を喪失するのです。