高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

体罰教師批判

2009-07-24 08:22:58 | 学校の呪術

チャート式参考書を読め

 体罰を体質として持つ教師には似た風貌があるようにみえる。ここで記述するのは、その類似の風貌だ。大体において、自明であるにせよ、確認しておかなければならないのは、地方公務員としての教員という職に就く人間は受験エリートでは通常ないということだ。地域の進学校で、トップクラスの人間は、通常東京へと出て行き、そのまま戻ってこない

「大体、東京大学までいって、何で学校の先生なの?だ。東京大学法学部で、学校の先生ですか?」
「どうしたんですか?」

でしょ。 
 受験勉強を一生懸命やりはした、でも、東京大学にはとうていいけなかった。京都大学にもいけなかった。一橋大学にもいけなかった。早稲田にも慶応にもいけなかった。でも、受験勉強は一応した---という、受験エリートを羨望の目で見ていた人間が教員の基本なのだ。だからね、僕はいうのだ。

「東京大学目指していて、いい線でがんばってる生徒に余計なことをするな」って。「おめえたちのバカが感染(うつ)るぜ」って。

 大体、だから、受験結果を素直に喜んではいないと僕には見える。特に、彼らが一級の大学と思い、妬みとともに見ている大学に生徒が入ったとき、そのとき、ねたみとも羨望ともつかない現実以上の神格化が始まるのだ(笑)。
 よく、職員室で
「何であいつが入れたんだ」
って教員がいうのですが、
「いいじゃねえか、入れたんだから」
と素直にいえないあたりのいやらしさを本人たちは気づいていないんだね。
 ルサンチマンとニーチェが呼ぶ怨念こそが、教員のエトスの中心に存在することをまず頭に置いたほうがいい。そして、彼らにとっては受験的エリートこそが基本に存在する価値の源泉なのだ。つまり、受験的な知識に対する盲信が基本に存在するのだ。
 思春期に負った傷をとうとう癒すことができず、終生背負いつづける思春期病こそ、教員の基本なんだね。そして、そこで背負った受験成功体験に対する強烈なルサンチマンを教員に見なければ、これから僕が書く教員の体罰的な体質を理解することはできない。
 ところで、あなたが受験からもうとおの昔に解放されているとして、書店でチャート式シリーズを手に取ってもらいたい。

「読む気になる?」

それを後生大事に読みつづけている――フロイトの概念――「退行」現象こそが教員の授業だと考えればいい。ふつう、そんなものを読む気になる人間はいない。よかったら本当に読んでみてほしい。
 この本を手に取ると何がわかるか、というと、受験勉強には知的な興味などというものが脱落しているということだ。生きる次元とは関係をたった、ただ、点数を獲得し、そのことでステイタスを得る、それも、日本人の大好きなバージニティを保証される期間に(18歳からせいぜい20歳)大学に入るということで意味をもつに過ぎない抜け殻の知識をいまだに後生大事にしているのが、この人間たちなのだ。

レジャーランド大学

 さらに、大学へと入った、この二線級の受験エリートの一般的な姿を形式化してみよう。彼らにとって大学の授業は、単純に単位を獲得するためにだけあった。そのレベルが大体教員の水準だ。自分の内在的な関心から読書をし、研究し、などということは彼らの平均値として存在しない。大学の教師どもが嘆く、勉強のかけらもしない大学生をもうひとつここに重ねてみよう。試験間際に単位のためにノートをかき集め、・・・こうした武勇伝をよかったら現在の大学生にきいてみるといい。そんなものだ。つまり、知識がもつ意味や、それが生きるという次元でどうのこうの・・・ああ、うるせえ、これが平均値なのだ。こうして、法学部出身なのに歴史の受験知識をそのままに教員になり、おれは世界史の教員だ、とか、日本史の教員だ、とか、いって教員稼業に入っていく人間さえ出現するのだ。僕がおどろくのは、本当に彼らの知識の源泉の寂しさだ。「チャート式」、指導書、資料集と、「世界史のこぼれ話」。

受験エリートのなりそこないの授業

 僕はよくいうのだけれど、教員の世界史の授業をきかせるのだったら、いい歴史映画をみせたほうが百倍いいということだ。NHKの子供ニュースをそのまま流し、解説している人いませんか?ニュース23、報道ステーションを編集したほうが、1000倍まし、な授業ありませんか?
 最近の授業で「憲法9条」を生徒がほとんど知らなかったという事実をまのあたりにしたが、これは、おどろくことではない。そのくらい、生徒に定着させる力がいまの教員にはないのだ。それは、受験成功以外のモティベーションに答える力が教員には根本においてないのだ。つまりだ。

つまんねえんだよお、おめえの話は!

これが実は平均値での生徒の悲鳴だ。そりゃあ、受験で使えるやつらはいいぜ、しかし、そこからはずれて、モティベーションがつかない人間には、もう教員の授業は聞く対象ではない。それは、あなたが大人だとしたら、どうぞ、「チャート式」を愛読書にしてみればいいのだ。
 体罰教師の怨念はダブルでくるのだ。受験エリートとしての脱落者である自分、それを、非受験者としての生徒の無関心とデキの悪さに、自分を重ね、舌打ちするのだ。しかし、それが、同時に自分の授業の陳腐と無意味の露出でもある。生徒は心から離反をはじめる。それが形となって現れる。ケータイの林が林立する。私語がはじまる。
もういいだろう。次に起こるのは、ニーチェばりにいえばスネ、だ、恨みだ、ヒステリーだ、そう、こうして体罰がはじまる。道徳が始まるのだ。


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