日本社会の「ウチ」と「ソト」
なぜいじめは起きるのでしょうか。なぜ、深刻な事態になってしまっているのでしょうか。私たちはまず、いじめが発生する構造を考えてみたいと思います。いじめは、どのような社会の仕組みの中から発生するのか、私たちは、いじめをその社会関係に焦点をあてて考えてみたいと思います。
これから提示するのはありうる一つの仮説です。なぜ、いじめは発生するのか?なぜ、いじめられてしまうのか?その原因を私たち日本社会の仕組みをみることで考えてみたいと思います。
「ウチ」と「ソト」の区別
みなさんは「ウチ」と「ソト」という言葉を聞いたことがありますか?
「ウチ」と「ソト」あるいは「ウチ」と「ヨソ」でもけっこうです。
日本社会は「ウチ」と「ソト」を区別する社会だと言われます。かつて、農家は、たがいに労働力を提供しあいながら共同体としての結束をしてきました。稲作では、共同労働が不可欠で、そのための付き合いをしないと制裁を受けることになったのです。
一般に、農村共同体社会ではこの「ウチ」と「ソト」の区別をはっきりとつけるとされますが、文化人類学者の中根千枝によりますと、日本社会の「ウチ」と「ソト」という意識は、他の共同体社会に比べてかなり特殊な現れをするようなのです。都市化しつつある日本社会では、このような共同体は消えつつあるように見えます。しかし、私たち日本人の社会的な意識の根底には、この「ウチ」と「ソト」を区別する意識は根深く残り続けているようにみえるのです。
私たちはこれから、この「ウチ」と「ソト」という意識がいじめを招く一つの重要な原因となっているのではないか、という仮説を考えてみたいと思います。
「ウチ」という言葉は、例えばミウチ(=身内)、ウチワ(=内輪)などという表現をとって使われます。また、「ウチの・・・」という形式で表現されます。例えば、「ウチの学校」、「ウチのクラス」、「ウチの会社」というように使用されます。
「ソト」はむしろ、「ヨソ」というほうが馴染みがあるかもしれません。「ヨソもの」というような言い方でそれは使われます。
ウチの倫理としての「和」
では、「ウチ」とはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。
通常、日本人は「生活を共有するなかま」、たとえば、衣食住をわかち合う人間に対し、「ウチ」という意識を持つといわれます。「授業の移動」「昼食」と数え挙げていたらきりありませんが、朝学校へ来ることから始まって、学校をあとにするまで、とにかく学校生活でいっしょに行動するという付き合いをとおして感じる〈仲間意識〉こそ、「ウチ」という意識なのだと考えればよいと思います。
さて、この「ウチ」と「ソト」という意識をもった人間関係の特徴ですが、「ウチ」に対しては、「和」を大切にします。「和」を乱さないように努力するのです。その場の空気を読み、その集団がどのような行動を全体としてしようとしているかを探り、その形式に素直に同調しようとします。このように、集団がおなじような行動を示している状態を「和」と呼ぶとすると、まさに「和」への従順な志向こそが日本人の行動の特徴といえるのです。
仮説:いじめの対象は「ソト」に立つ人間
そして、その同じコインの裏側として、〈異なる〉人間、いっしょに行動せず、生活を共有しない人間、つまり、「ソト」の人間に対して、日本人は基本的には「対立」関係に立ちます。
法社会学者の川島武宜は、「ウチ」と「ソト」という意識をもつ人間は「ソト」の人間に対して、その力関係を見ながら、相手が強いか或いは、まだその力のレベルが不明な場合は、間を置き(様子を見)、力が弱いとみるや、排除(のけもの)という行為にで、さらに弱いとみれば、攻撃にでる、というようにそのありかたを描いています。
以上を踏まえてこのような仮説を提案したいと思います。
「集団のなかでいっしょに行動しない人間」「みんなと異なる人間」「和を乱す人間」こうした、集団の〈ソト〉に立つ人間こそがいじめの対象なのだ。
とりわけ、いっしょに行動しない、いえ、いっしょに行動することができない人間、これがいじめのターゲットとなるのだ、という仮説です。例をあげていればきりがありませんが、極端な表現をする人間、場の空気を読めない人間などが例として挙げられます。