1 いじめられる側
きたないじゃないか!
アンケートをとると、例年「4人以上が1人をいじめる」が半数以上になると先に書きました。授業でこの事実を確認した直後に受講生のみなさんにこう尋ねます。
「ずいぶんときたないとは思いませんか?」
すると、多くの受講生が
「きたない」
と答えます。そして、私はこう続けて尋ねることにしているのです。
「では、いじめの現場であなたはそれを言えますか?」
こんな、カマトトみたいな質問を私はしてみるのです。すると、みんなこう答えます。
「できません」と。で、つづけて。
「なぜ、一人くらい『きたないじゃないか』といえないのだろうか?」
「そりゃあ、やられるから・・・」
「やられるかもしれない、しかし、それでも『きたないじゃないか』と言える人がなぜいないのだろうか?」
「そりゃあ、怖いから」
「しかしね、力が弱くても、仮に、こちらが勝てないとしても、それでも自由のために闘ったという美談は、世界にいくらでもある。なぜ、いじめの世界で、「怖い」くらいのことで、その美談が成立しないのだろうか?」
データにあるように、いじめられる側は「仕返しをしたい」と答えています。では、その「したい」を実行に移しているだろうか?といえば、答えはわかってますよね。もちろん、この問いは愚問です。できていたらそもそもいじめは存在しないはずです。
沈黙させられる正義
それにしても、教室という世界には、この
「きたないじゃないか、寄ってたかって、ひとりを大勢でいじめやがって!」
という言説を消す主体がいることだけはまちがいがありません。それは、何ものなのでしょうか?
そして、こうは言えないでしょうか?
この言説を打ち消される人間は、この言説を発することを絶対的に禁じられている。あまつさえ、親や教員に訴え、人権侵害を止めさせる、本来合法的手続きを「チクリ」と呼び〈不公正な行為〉として禁止され、ただ耐え忍ぶことを強いられる。
なぜ、「きたない」といえない(「言わない」ではない!)のでしょうか。
その意味を考えなければいけません。それをたんなる心がけだの、根性だの勇気だのという問題にしてはいけないと私は思うのです。
2 傍観者
見てみぬふりの分裂――自分がやられてでも、止める人間がなぜいないのか?
先に確認したように、全いじめ体験者の内の70%もの人たちが、いじめを見ているのです。そして、その人たちの半数以上が「見てみぬふり」を基本姿勢としており、「かわいそう」だと思うが「自分には関係ない」とアンビバレントな姿勢を示しています。それに対して、酷だとは思うのですが、こういう問いを立てることは可能です。
「同情するのであったら止めたらいいじゃないか?」
もちろん、この傍観者たちはこの問いには沈黙しています。この沈黙は何を意味するのでしょうか?
もちろん、この沈黙の意味は
「へたに口出しすると、こっちがターゲットになり、やられる」なのです。
しかし、またまたいじめられる側に対してしたように、カマトトみたいにこう問うてみようではないですか。
「自分がやられようが、何しようが、止めるという人間がなぜいないのだろうか?」
もちろん、そういう人間の不在が私たちに『水戸黄門』伝説や『大岡越前』伝説、最近では『金八先生』伝説を産むのかもしれないのです。
もちろん、無駄だから無くす努力を放棄しろって言ってるのではありません。
民主主義にしろ、社会主義にしろ、主体主義にしろ現在の人間社会のシステム
自体が形を変えた虐めのシステムの上に乗っていると思うのです。
特に、日本を含む先進国は、発展途上といわれる国からの搾取の
上に乗って繁栄を享受してる部分もあるのです。
雇用の拡大だからその国の役にも立ってるなどといいますが詭弁です。
国力、強い通貨を背景にした、安い労働力の搾取です。
これは経済の部分での一例で、他にも有ります。
虐めも、集団あるいは能力、才能を武器に、なんらかを搾取してるのかもと思います。
搾取するものが、優越感であり、快感であり、ストレスの発散であのかも知れません。
違う点は、強者、弱者の立場が簡単に逆転する可能性があることでしょうか。
だから余計に厄介なのだと思う。虐める側の子の中には罪悪感もある子がいるが
集団から離れると、いつ矛先が自分に向けれれるかって不安がある。
子供さんたちが虐めれれてるご両親は断腸の思いがあると思いますが、
ひょっとすると、親御さんたちの中でも、会社や近所付き合いで似たようなケースを
含んでいる。
更にだ、教室内よりも、もっと陰湿なのが職員室の中の虐めじゃないのかね?
立場を利用したパワーハラスメントってのは虐めそのものである。
しかも、虐めた側は、教育的な指導といって自己を美化している。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20061112
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20061115
人間1人を自殺に追いやるまでの指導ってどんな指導ですかね。
教える立場の側から襟を正す必要があるんじゃないのかね。
もういい加減、本音を隠して、建て前だけを垂れ流すのは止めたらどうかね。先生方!
さて、空気を読めない人から続いて、不良はなぜ怖いのかに続いて、いじめの構造が1,2,3と展開されてきました。自分的にはかなり理解しやすく展開されていると思い感心してながめてきました。
ここにきて自分的に思うことは、しかと(無視)や仲間からはずされることといった間接的ないじめから、先生のおっしゃる物理的直接的ないじめあらゆるを含めて
「人を死に追いやる力」がある。
しかしそれを「やめろ」といえる人間はいない。
それは先生のおっしゃる、
「へたに口出しすると、こっちがターゲットになり、やられる」
でした。
それは今度ターゲットになるということは、自分の「魂」つまり「命」そのものに対する攻撃になるということですね。
ということは、いじめをとめる、やめろよという行為は
自分の魂に対する攻撃を覚悟しなくてはいけない。
しかしやはり、自分の命が狙われるとなると、いざというときにはみんな逃げていってしまう。それが人間の薄情なところであり、弱さだ。
学校のこんな小さな教室のあちらこちらで自分の命をかけなくてはいけないなんて実に酷な話だ。でも、それが必要なら、俺はやるよ。
教師も生徒にいじめられているのが現状だ。
対教師暴力は、急増している。
つまりは、「報復」である。
「報復」を恐れず果敢に「いじめ」と立ち向かっていけば行くほど、「むなしさ」が残る。
教師のストレスは、深刻なのである。
「酒」と「薬」を交互にのみ、出口のみえない戦場(学校)で、体はボロボロになり、心は野獣になって休職していく教師が増えてきている。
教育は「愛情」だという。しかし現場を知らない人間は、無責任な発言が多い。
バランスオブパワ-なのだ。
教師(担任)が強いか、生徒のボスが強いかの問題でもある。
教師の力が弱くなれば、学校は弱肉強食の世界になり、いじめは多発していく。
もちろん、今のいじめは複雑で多様化しているようにみえる。
しかし、その本質は、力関係である。
変な例を紹介しよう。
いじめの被害者のおじさんにあたる人が、夜間、いじめグル-プを公園に呼び出して、腹にしびれるようなパンチをいれた。
次の日から、いじめは完全に消えたのだ。