goo blog サービス終了のお知らせ 

森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

終戦記念日の日に思ったこと

2013-08-19 12:56:55 | 思いつくまま

夏ー想い出は人それぞれ。

だけれど夏には共通の忘れない日があると思う。それは忘れてはいけない日でもある。

例えば、「終戦記念日」。

 

その「終戦記念日」という文字を見て、しみじみ思った事。

戦いを終えた日の記念日なのだということ。

第一次世界大戦にも日露、日清戦争にも、その終えた日の記念日はない。太平洋戦争の前には、何かしらの記念日はあったかもしれないが、今となっては意味が無いとも言える。

 

人類の歴史は戦いの歴史だ。

その戦いにも進化と進歩が存在するというのは、私だけが思うことではないと思う。

人が棍棒や石を拾い、食べ物を争って直ぐ近くに存在する群れに戦いを挑んだ太古から、人はその武器を変え、その戦いの環を拡大していった。そしてある時は天下統一、またある時は新しい時代を拓くためという大義名分の旗を振り、必要悪を正義という名前に変えて内戦を続けていった。

そんな人間たちが世界を知れば、その闘争本能を世界に向けるのは当然の歴史の流れだったとも思う。

戦争が起きれば、愛する人や自分の命も失いかねない。しかも大概がかなり無意味な死を迎えているのに「お国のためにりっぱに」という称号を与えられて、どのように死んだのかが有耶無耶にされてしまったという歴史もある。

そうしてみると、人間っていうのは相当愚かな生き物だと思う。

荒唐無稽なようだけど、宇宙に知的生命体を確認する日が来たならば、今のままでは、その先には彼らとの戦いが待っているかもしれない。十分にありえることで、だからSF小説にはそのジャンルが存在するのだ。

しかし、その宇宙戦争の大義名分は、侵略されそうになるから人類の総力をかけて戦うという構図になっている。

宇宙開発の末たどり着いた宇宙の果てに発見した知的生命体は、完璧なまでの平和主義者で無駄な繁栄を望まず、ゆえに武器の開発も対して無くいっけん劣った生命集合体に見えた。そこを侵略していくのは実は人類だったというお話はあまりみない・・・・とここまで書いたら思い出した。最近あったじゃないの。3D映画の傑作「アバター」。あの予告編では気持ちの悪い色をしたトカゲ一族にしか見えなかったナヴィ族に、物語が進みだすうちになんとも言えない魅力を感じるのは、その生き方に引き込まれたからだったと思う。

人類の歴史を思うと、侵略されそうになったから戦うというより、よっぽど行った先が未開だったから侵略するという方が説得力があるのかもしれない。

―悲しい歴史だ。

 

そんな人類に戦いの進歩ではなく、「進化」というものがあるとすれば、それは「戦わない」を選択することしかないのではないのか。

 

 

あの最後の戦争の時、大都市に累々と死体の山を積み重ね、未だに骨すら帰らない死者を南方の国々残したままという悲劇が次の歴史の必然を生み出したのではないのだろうか。虚しく死んだ方々が、未来の私達のためにその歴史を魂をかけて残してくれたんだとは思ってはいけないのだろうか。

68年、この国は戦争をしなかった。その奇跡を誇って守っていこう。
そう思うことの何処かに間違いなどないと思うのだが、違うのだろうか。 

 

本当の神風はあの時に吹いたに違いない―

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする