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森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

私の欠片

2007-02-14 00:35:33 | ’08/12/7までの未整理日記
タイトルで、また何か詩でも書いたとか思いましたか。今は、なんとなくおしゃべりしたい気分です。

土曜日の朝、独居老人のお姑さんから電話があった。
「さっき電話取り損ねちゃったんだけど、電話くれた?」
「今日はしてないよ。」と、私。
「なら、いいの。また、ららぽーとに誘ってくれていたら悪いから。」
「今日は行かないの。明日はいかが~。」
「そのほうが助かるわ。今日は忙しかったから、明日ならいいなと思っていたのよ。」
そう言って義母は電話を切った。

―そうなんだ。私達が買い物に行く時誘っているのを楽しみにしてくれているのね。良かったわ。―

私と義母は仲がいい。一緒に暮らしていないからかもしれない。仲はいいが、ライバル心もある。私はだんなに、だんなの父親より一日でも長く生きて欲しいと思っている。義父は70歳で死んだ。一日でもと言ったが、71歳以上でないと分かり辛い。そして、私はこの義母に負けてたまるかと思っている。

だけど、義母は、今年82歳。元気溌剌で、近頃私は負けるかもしれないと弱気になってしまう。風邪で気管支が弱ってはいるが、それよりも胃の調子が悪い。今も気持ちが悪い。薬飲まなくちゃ。


 ところで、近頃の私は「百鬼夜行抄」の事を、たびたび書いているのだけれど、その中の主人公飯嶋律は、人には見えないものが見えてしまう。人は見えないものが見えると言う事に、憧れたりすることもあるかもしれないが、私はそうは思わない。見るべきものでないものは、見えないほうが幸せだと思う。これは何かを揶揄して言っているのではない。

見えないけれど、そこにある大切な心とかいうのは、見えたほうがいい。だけど、摩訶不思議な何か。。。と言う種類のもの。見えてしまって苦労している人を若干名知っているから、見えないほうがいいと思うのだ。ああ、怖いね。

それはそうと、そんなものはないのだけれど、あっても絶対に見たくないもの。
それは人生の残量が分かってしまう時計とか・・・

でも、時々思う。もし、自分の人生の残量が分かってしまったら、私はブログなんか書いているのかななんてね。そして、思う。やっぱり書いていると。

 私の好きなものへのエールや他の人との共鳴。だい好きな映画の世界や過去の出来事に思いをはせたり、今の家族の風景をスナップ写真のように写し取ったり、ここは私の欠片のモザイクのようなものなのかも知れない。

なんだかゴチャゴチャしているブログだなと自分でも思うときがある。一体私はここで何がしたいんだろうと迷う時もある。

そうかぁ、ここは私の欠片を繋ぎ合わせていく場所だったんだな。すっきりしていないブログでも、ここで、モザイク作っていよう。しばらくは。。。

そうそう、B型っていうことに関係あるのか分からないけれど、私は話しながら考えるタイプ。

 つらつら、だらだら、おしゃべりしていたら、気分がすっきりしたので、もう寝よう。

コメント (2)
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