毎日新聞に岡崎ろう学校出身の大学生のインタビュー記事が掲載された。連載記事の最終回だったようだ。
(毎日新聞 2011年1月11日 地方版)
私は高校時代、自宅のある愛知県豊田市からお隣の岡崎北高校まで1時間以上かけてバス通学していた。その途中に岩津というバス停があり、そこで降りる子どもたちが手話をしているのを三年間見ていたが、当時はそれが「手話」だということすら知らなかったように思う。「耳の聞こえない」子どもたちという認識さえなかったかもしれない。「しゃべり方が変な子ども」程度の記憶しか残っていないから、いわゆる「おおしの子」という認識(「お」を付けるのがこれまた触れることをタブー視されていた証拠だ。)だったのだと思う。高校生にとっての「ろう者」とはそんな存在だったように思う。
この記事を読んで「あれ?当時は岩津ろう学校っていう名称じゃなかったか?」といろいろ調べたが、それは私の思い込みで岩津にあったのが「岡崎ろう学校」だったようだ。
私はこうした想い出がきっかけで手話の勉強を始めたのではないけれど、何か「縁」を感じている。大学生の頃だったか帰省した折に地元の手話サークルを見学しに行ったことがあり、そこでかつて通学バスの中で見かけた女の子に再会(こっちが勝手にそう思っただけなんだけど)して感激したことがある。僕が17~8歳の高校生の頃に中学部に上がった13歳くらいの感じだったから、今はもう45歳くらいになってるんだなぁ~不思議な感じ。
さて、伊藤清貴さん「社会に対して今後どのような改革が必要と考えますか?」という質問に
「ろう者自身が社会問題に関心を向けるために、聾(ろう)学校の小学部の時から職業問題などろう者が抱える社会問題についての授業を受ける機会が必要と思う。」と答えている。
これは聴者の子どもも同じだ。何度か書いているけど僕は大学の時に東京に出てきて驚いたことの一つに東京の高校出身の同級生が、高校時代から社会問題に関心をもっていたことだった。私は管理教育のメッカ愛知で「受験のこと以外は何も考えるな」と徹底的に教育されて高校三年間を過ごしてきたので「社会のことは何も知らなかった」。一番多感な高校時代に社会に横たわる様々な問題に出会い、憤りや反発、そして希望や自分で未来を切り開こうとする力を感じたりすることができなかった自分が本当に悲しかった。伊藤さんの意見に大いに賛成です。
心のバリアフリー:有識者に聞く/5止 筑波技術大生・伊藤清貴さん /茨城
◇雇用、門前払いやめて--伊藤清貴さん(20)
--筑波技術大学は視聴覚障害者が専門技術を学ぶ場ですが、日常で感じるバリアーはありますか?
大学は(障害を補う字幕や音声案内など)情報保障は十分に配慮されているので問題は少ない。テレビの字幕やインターネットのおかげで、簡単に情報を得ることができるようになった。ただ、大学を一歩出ると、健聴者は電話で緊急連絡をするが、私はできないので不便さを感じる。
また、アルバイト先を探す時、聴覚障害と明示して応募すると、面接前に断られることが多い。面接で会って、実際に働けるかどうか全体的に見て判断してもらいたい。その際、面接や勤務中に筆談を認めてくれるかどうかが重要だ。聴覚障害者は口話ができるとは限らないことも理解してほしい。少しの配慮でコミュニケーションが可能になり、仕事がやりやすくなる。
--母語は日本語文法と体系が違う日本手話というが、日本語習得は大変でした?
私は足りない日本語力を補うために、高校生の時には毎日、新聞のコラムを切り取ってノートに貼って文章の読み書きをした。記事を読んで自分の意見を書いたりすることで日本語学習を続けた。
--社会に対して今後どのような改革が必要と考えますか。
ろう者自身が社会問題に関心を向けるために、聾(ろう)学校の小学部の時から職業問題などろう者が抱える社会問題についての授業を受ける機会が必要と思う。また、社会のサポートでは、案内板など事務的な情報は字幕案内でいいが、人と意思疎通するには感情や空間の意味が含まれる日本手話が不可欠なので、健聴者も簡単な知識だけでも手話を学ぶ機会を持ってほしい。【聞き手・杣谷健太】=おわり
==============
■人物略歴
◇いとう・きよたか
愛知県出身。1歳から高校卒業まで岡崎聾学校に通う。現在、筑波技術大産業情報学科電子システムコース2年生。聴覚障害者の両親の間に生まれ、日本手話を母語に日本語を習得した。
(毎日新聞 2011年1月11日 地方版)
私は高校時代、自宅のある愛知県豊田市からお隣の岡崎北高校まで1時間以上かけてバス通学していた。その途中に岩津というバス停があり、そこで降りる子どもたちが手話をしているのを三年間見ていたが、当時はそれが「手話」だということすら知らなかったように思う。「耳の聞こえない」子どもたちという認識さえなかったかもしれない。「しゃべり方が変な子ども」程度の記憶しか残っていないから、いわゆる「おおしの子」という認識(「お」を付けるのがこれまた触れることをタブー視されていた証拠だ。)だったのだと思う。高校生にとっての「ろう者」とはそんな存在だったように思う。
この記事を読んで「あれ?当時は岩津ろう学校っていう名称じゃなかったか?」といろいろ調べたが、それは私の思い込みで岩津にあったのが「岡崎ろう学校」だったようだ。
私はこうした想い出がきっかけで手話の勉強を始めたのではないけれど、何か「縁」を感じている。大学生の頃だったか帰省した折に地元の手話サークルを見学しに行ったことがあり、そこでかつて通学バスの中で見かけた女の子に再会(こっちが勝手にそう思っただけなんだけど)して感激したことがある。僕が17~8歳の高校生の頃に中学部に上がった13歳くらいの感じだったから、今はもう45歳くらいになってるんだなぁ~不思議な感じ。
さて、伊藤清貴さん「社会に対して今後どのような改革が必要と考えますか?」という質問に
「ろう者自身が社会問題に関心を向けるために、聾(ろう)学校の小学部の時から職業問題などろう者が抱える社会問題についての授業を受ける機会が必要と思う。」と答えている。
これは聴者の子どもも同じだ。何度か書いているけど僕は大学の時に東京に出てきて驚いたことの一つに東京の高校出身の同級生が、高校時代から社会問題に関心をもっていたことだった。私は管理教育のメッカ愛知で「受験のこと以外は何も考えるな」と徹底的に教育されて高校三年間を過ごしてきたので「社会のことは何も知らなかった」。一番多感な高校時代に社会に横たわる様々な問題に出会い、憤りや反発、そして希望や自分で未来を切り開こうとする力を感じたりすることができなかった自分が本当に悲しかった。伊藤さんの意見に大いに賛成です。
心のバリアフリー:有識者に聞く/5止 筑波技術大生・伊藤清貴さん /茨城
◇雇用、門前払いやめて--伊藤清貴さん(20)
--筑波技術大学は視聴覚障害者が専門技術を学ぶ場ですが、日常で感じるバリアーはありますか?
大学は(障害を補う字幕や音声案内など)情報保障は十分に配慮されているので問題は少ない。テレビの字幕やインターネットのおかげで、簡単に情報を得ることができるようになった。ただ、大学を一歩出ると、健聴者は電話で緊急連絡をするが、私はできないので不便さを感じる。
また、アルバイト先を探す時、聴覚障害と明示して応募すると、面接前に断られることが多い。面接で会って、実際に働けるかどうか全体的に見て判断してもらいたい。その際、面接や勤務中に筆談を認めてくれるかどうかが重要だ。聴覚障害者は口話ができるとは限らないことも理解してほしい。少しの配慮でコミュニケーションが可能になり、仕事がやりやすくなる。
--母語は日本語文法と体系が違う日本手話というが、日本語習得は大変でした?
私は足りない日本語力を補うために、高校生の時には毎日、新聞のコラムを切り取ってノートに貼って文章の読み書きをした。記事を読んで自分の意見を書いたりすることで日本語学習を続けた。
--社会に対して今後どのような改革が必要と考えますか。
ろう者自身が社会問題に関心を向けるために、聾(ろう)学校の小学部の時から職業問題などろう者が抱える社会問題についての授業を受ける機会が必要と思う。また、社会のサポートでは、案内板など事務的な情報は字幕案内でいいが、人と意思疎通するには感情や空間の意味が含まれる日本手話が不可欠なので、健聴者も簡単な知識だけでも手話を学ぶ機会を持ってほしい。【聞き手・杣谷健太】=おわり
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■人物略歴
◇いとう・きよたか
愛知県出身。1歳から高校卒業まで岡崎聾学校に通う。現在、筑波技術大産業情報学科電子システムコース2年生。聴覚障害者の両親の間に生まれ、日本手話を母語に日本語を習得した。
伊藤清貴くんのインタビューのことを読んでくれてありがとうございます。
こちらは伊藤清貴の母で、両親も同じ母校です。
これから宜しくお願いします。
私は高校生の時、豊田市から東岡崎行きのバスで「室町」というバス停から乗って通学していました。
ずっとあとに高橋公民館の手話サークルで岡崎ろうの女性に会ったんですよ。ご存じないですか?
手話サークルで1歳の清貴と一緒に通ったことがある。
家から高橋公民館までで近いです。
その後、私が岡崎北高に3年間通っている間に、その女の子は中学部に上がった(制服がセーラー服になった)のを覚えているので、今50歳の私の4つか5つ年下になります。
それと彼女は小学部の男の子と一緒に通学していました。
私は岡崎出身です。
貴方が「彼女は小学部の男の子と一緒に通学した。」と言われた。
小学部の男の子は、現在、家の旦那さんです。清貴のお父さんです。
彼女は現在、春日井に暮らしている。
たまに彼女に会っています。
私はなかなか帰省できないですが、いつか実家に帰ったら高橋公民館の手話サークルでお会いしたいですね。
今でも高橋公民館には手話サークルあるんですか?もしやってるなら曜日と時間を教えて下さい。
場所は、梅坪台交流館
毎週木曜日
am10:00~pm12:00
暇あれば、手話サークルで遊びにおいでください。
期待してます。よろしくお願いします。
わなげの会です。
それからもし筑波技大にいらっしゃることがあったら、つくば市でお会いしたいですねぇ~。
いつか、息子の大学へ遊びに行くときにつくば市で会う機会します。