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かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

石仏・石塔見て歩き(16:高神様?)

2010-10-17 14:34:43 | 田舎の歴史


この石塔の存在は知りませんでした。
地区では正月に10か所ほどの石仏・石塔に注連縄が飾られ、
この石塔もその一つに含まれているということを知り、ありかを教えてもらった。
地区内の道から少し脇にそれた場所にあり、水路のような通路を通ってこの祠に行く。
民家の裏にある。
久々の石塔紹介なので、かなり期待して見学に出かけた。 

しめ飾りがされた立派な石積み造りの祠がある。
その祠の中央に、小さめの石塔が安置されており、“高神社”と刻まれている。
が、失礼な言い方かもしれないが、文字の彫り方や外枠の処理などが稚拙な感じで、とてもプロの技とは思えない。



石塔そのものも、何かを造った残りの石を使った、といった印象だ。 
しかも岩石自体の風化がほとんどなく、かなり新しい時期に造られたようだ(きっと私より若い)。
期待は外れた。

この“高神社”が、この場所にいつから安置されているのかわからない。
おそらく元あった石仏か石塔が傷んでしまったので、心を痛めた方が新たに作ったのではなかろうか・・。
と想像している(いやきっとそうだろう)。
造りが稚拙だなどと、失礼なことを書いたけれど、素人の方の篤い思いで懸命に造られたのではなかろうか。

もし新しいものであれば、地区の方に聞けば事情を知っている方がおられるだろう。

ところで、“高神社”とは何だろう?

三崎の伝宗寺そばに、地元の人々から「高神様」と呼ばれる祠があるようで、
三崎の郷主佐々木為綱を祀っているとのこと。
しかし、彼については元亀3年(1572年)に没したという伝聞以外は、出自や事績など全く不明らしい(『三崎町誌』より)。
どうやら、近江源氏の子孫らしい。
そんな子孫が何故にこの半島にやってきたのだろう?
ともあれ、この“高神社”と刻まれた石塔は、「高神様」のことなのだろうか?
それとも全く別なのだろうか?
地区の先祖が、わけのわからんものを祀るわけはないし、しかも新しく石塔を造るほどであれば、きっと何か言い伝えがあるはずだろうが・・・


 ご訪問ありがとうございます。

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石仏・石塔見て歩き(15:回国供養塔)

2009-07-01 11:32:51 | 田舎の歴史


言われてみれば、子供の頃この峠に行った時、なにか石碑があったような、くらいの記憶はかすかにありました。
2mあまりの大きな1枚岩に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国満願供養塔」と刻まれており、その文字は今でもくっきりと残っています。



回国供養とは、釈迦如来が亡くなってから56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて私たち衆生を救ってくれるその時まで、大乗妙典と呼ばれる法華経を保存する目的でわが国の66ヶ所の霊場に納経して回ることをいう」のだそうです。
想像を絶します。

その全国66箇国の霊場に法華経を書写して納めた人々のことを、“六十六部回国聖”あるいは“六部(ろくぶ)”と呼んでいたそうです。
私なんぞ、とても出来そうにない、とんでもなく篤深い方々でしょうか。
そして、彼らの残した“回国供養塔”は全国に残っているようです。

すごいです!

この石碑には建立された日付も見られます。


文政11年(1828年)3月21日とあります。
3月21日というのは、空海(弘法大師)の命日のようです(没年西暦835年)。
  
右側には、「本願主 当浦 林平」とあります。


「はやし たいら」さんではないでしょう。
この当時は、一般人は苗字がないので、たぶん「りんぺい」さんなのでしょう。
そして、「当浦」とあるので、きっと当名取地区の方だったと思われます。
苗字がないのでわかりませんが、この方の子孫はどの家になるのだろうか?
なんて・・・

その他石碑には、世話人、施主、大工、立合人などの名前も刻まれています。
驚くことに、全国各地の方が立合人などに名前を連ねています。


江戸、信州、濃州、作州、紀州、駿州、豊州、備前、甲州、越前、日州、筑後、當国、長崎、筑前 と。

この石碑の建つ場所は、「ウラゴエ」と呼ばれる峠で、当地区のはずれ?(端っこ?)にあります。
ウラゴエ=浦越 なのでしょう。
昔、集落を「浦」と称していた頃、浦と浦の境界、すなわち名取浦と三崎浦の境界にある峠、その峠を越えることは、“浦”を越えるという意味で、「ウラゴエ」なのだろうと思います。

子供の頃は、この峠を通って三崎のお祭りなどにへ行っておりました。
そして、多くの高校生たちにとって、この峠が通学路だったでしょうし・・、
季節は忘れましたが、年に1回ここで祭りもありました。
たしか、ちょっとした広場もありました。

そんなにぎわったこともある道も今では藪になり、倒木などもあり、今ではこの峠を通る人はいないようです。

【峠を越えるかつての街道です】

かつて、半島を縦断する幹道の要所であっただろうと思われるこの峠も、
今は草ボーボー、雑木ニョキニョキとなりました。 
村人たち、いやいや 当時この半島を往来した多くの人々の夢の跡 でしょうか。
今は、ひたすらひっそりとしております。
それにしても、こんな大きな石を(きっと)人力でこの峠に運んできただろうエネルギーって、
なんなのでしょう。 
すごいです! 


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石仏・石塔見て歩き(14:五輪塔その3)

2009-03-21 11:00:01 | 田舎の歴史


この五輪塔は、民家の脇に放置(多分)されています。
五輪塔は、字のごとく5つのパーツからなりますが、ここのものは不完全な状態で、バラバラになっています。
どういう経緯でこうなったのでしょうか。
放置されているように見えるのですが、花(といっても葉付き小枝:写真手前)が供えられており、時々新しいものと交換されています。
すぐ横の民家の方、あるいはご近所の方がお世話をしているのでしょう。


こちらは、先ほどの五輪塔から10m弱離れた場所にあるものです。
ここにも、先ほどと同様に花を生けるためのものと思われる筒(花瓶を模した)が脇にあります。
火輪部(下)と水輪部(上)のようですが、どうも本来の並びと逆になっているようです。 
おそらくこうして重ねたほうが安定性が良いので、このようにしたのでしょう。
これらの五輪塔は、遠い昔に亡くなった方の供養のための石塔なのだろうか?


これは、地区の集会所前にある石仏たちです。様々な石仏が、ひな壇のようにして並べられています。
そして、ここにも放置・残欠となった五輪塔のパーツがいくつか地面に転がっています。 


そのひとつ、これは五輪のうち真ん中の火輪部に相当する部分です。

そして、極めつけはこれです。 

【石垣に組み込まれた五輪塔】
なんと、石垣に組み込まれています(例えば赤丸部)。
おそらく、石垣の補修の時、そのへんに転がっていた五輪塔の残欠を、知ってか知らずか、石垣用の一個の石として使用したのでしょう。
すごいです。

さてみなさんは、この写真の中にいくつの五輪塔の残欠があるかわかりますか? 
写真だけでは難しいですね(ゴメンナサイ)。

石垣に6個、石仏の間に転がっているのが2個あるのです。
今回紹介した五輪塔も、この半島にはない安山岩やその他の火山岩で作られています。
ですからよく見ると、その形・岩質から、五輪塔の一部だろうと分かります。
残念ながら、年代を示すような文字は全く見当たらないようなので、いつ頃作られたものなのか分かりません。そして、いつ・なぜ壊れたのでしょうか? 

五輪塔の話はこちらにも
  
石仏・石塔見て歩き(10:五輪塔その1):2008年9月1日
石仏・石塔見て歩き(13:五輪塔その2):2009年2月17日


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石仏・石塔見て歩き(13:五輪塔その2)

2009-02-17 11:00:01 | 田舎の歴史


この五輪塔は、名取客神社の境内の隅っこにあります。
私がこの五輪塔の存在を知ったのは、2年ほど前です。おそらく、地元の方々も知らない人が多いと思います。
塔の上の三つ(空輪、風輪、火輪)と下の二つ(水輪、地輪)がそれぞれひとつの石で作られており(下の台座は別)、二石五輪塔と言うそうです。
そして、その二つの石の間、つまり水輪の上面に小さな穴があります。これは、奉納施設だそうです。

失礼して、上の部分(空輪、風輪、火輪)をどけてみると、確かに水輪の部分がお椀のようにえぐられております。

【水輪部が容器のようになっている】

専門家によると、この奉納施設に舎利などを入れたのだろうと考えられているようです。
 「舎利」は、火葬されたお釈迦様の骨のことで、仏教では大変尊ばれています。
でも、お釈迦様の骨が日本のこんな田舎に来るはずはないでしょうから、おそらく地区の誰か尊い方の遺骨、あるいは米が入れられていたのだろうと思います。
なぜコメ? 

 主食としてのお米を尊んだ日本では、仏舎利と同じようにお米は尊い。そして、お米は仏様の化身である。というような考えから、ご飯やお米を「しゃり」と呼ぶようになった、そうですから。
寿司屋用語の「しゃり」です。

 ところで、この石塔の岩石は、これまで見てきた地区の石仏・石塔とは異なっています。白っぽい岩石で、小さな針状の黒い鉱物が含まれています。この黒い鉱物は角閃石です。つまり、この五輪塔は角閃石安山岩で作られているのです。
もちろん、この佐田岬半島には存在しない岩石です。


【五輪塔の一部をアップ】


【知人から送ってもらった山口県の青野山火山岩の一種】

実はこの岩石、はるばる山口県から運ばれたようです。
山口県から島根県にかけて青野山火山群というのがあって、そこの岩石のようです。
山口大学の知人の話によると、この安山岩は、江戸時代から色々なものに利用されているようで、特徴がはっきりしているので、流通のマーカーになりやすいそうです。
そして、山口県内の遺跡からよく出土するそうです。
そんな岩石が、この半島にも流通してきているのです。 

残念ながら、この五輪塔には年代を示すような文字が全くありませんので、いつの時代に作られたのかはわかりません。
でも、前回紹介した五輪塔より古そうな印象を受けます。江戸時代よりももっと以前に作られたものかもしれません。
かなり貴重な石塔のようです。 

五輪塔の話は  こちらにも 「石仏・石塔見て歩き(10:五輪塔その1)」(2008年9月1日)
舎利の話は  こちら 「まなご石としゃり」(2008年2月27日)


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石仏・石塔見て歩き(12:岡の川石仏群)

2008-12-10 10:33:24 | 田舎の歴史
峯の川、まいごの川、ナカジ川、そして岡の川。
この地区に古くからある水汲み場の名称です。
斜面地下を伝って出てきた湧水をせき止めており、共同利用できる場所です。
これも井戸と言うのでしょうか?
そして、これらの水汲み場には必ず水神様が祀られています。
この岡の川も同様、水神様が祀られております。
でも以前は、ここには水神様しかいなかったように記憶しているのですが(記憶違いかもしれません)、今は水神様以外の石仏も並んでいます。



≪かわいい水神様≫

水神様以外の石仏は、この水汲み場の改修に伴い、近隣にあった石仏をまとめて安置したのかもしれません。
なお、以前はこの水汲み場には屋根がなかったのですが、現在はコンクリートで屋根が造られております。
そして、その屋根の上に石仏が並べられています。

見てみると、様々な石仏がおります。
三界万霊、南無阿弥陀仏、大日如来、馬頭観音、などと刻まれています。
そして、名前が分からないのですが、顔が3つの石仏があります。
これは、“梵天”でしょうか? ・・わかりません。 


 大日如来です。
なかなかいい表情です。


そして、これらの中で最も古そうなのが、この石仏です。

≪地蔵菩薩≫

 「願主吉右ヱ門」、さらに左側に「同妻●●(●●は判読できずの文字。まさ?)」と建立者の名前が刻まれています。そして、「○保二年 卯七月」とあります。○の部分が欠けているのが残念ですが、きっと江戸時代でしょう。

調べてみると、江戸時代に「○保」と付く年号は、「天保」「寛保」「享保」「正保」があります。さらに、「○保二年」とありますので、この年は卯年なのでしょう。
ということで確認すると、上記4つの年号のうち、「二年」が卯年に当るのは、「天保」だけです。
天保二年は1831年です。
 この年7月に「長州藩天保一揆」という事件が起こっています。
長州藩小鯖村(現山口市)で御用商人と藩の役人が結託して米価をつり上げているとの噂が広がり、農民が役人や商人の家を打ちこわし、どんどんその人数が増えていき、最終的にこの一揆は長州藩全体を巻き込み、十数万が参加したと言われているようです。

この石仏の吉右ヱ門さんがその一揆農民の主要メンバーで、この地にまで逃れてきたのでしょうか?
もしそうだとしたら、これをネタに1本小説が書けそうですが、きっと違うでしょう。

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石仏・石塔見て歩き(11:シムネ石仏群)

2008-10-03 12:01:14 | 田舎の歴史

シムネの広場の一角、周りを石垣で囲まれた箇所に石仏が並んでいます。付近には、平べったい石やトタン板などの残骸があることから、おそらく、従来は屋根もあり、小屋(祠)になっていたのだろうと思われます。そして数えてみると、合計32体の石仏が残されていました。ほとんどがいわゆる“地蔵様”(地蔵菩薩)です。
何体かの地蔵さんには、「十九番 立江寺」と刻まれています。聞いた事のない寺の名前ですが、これは四国八十八ヶ所のひとつかも知れないと思い、家に帰ってからネット検索してみることにしました。

また、我が地区以外の近隣の地区名が刻まれた石仏がいくつかあります。
「七十一番」、「七十六番」などと刻まれたものもあります。これはきっと、地区内外のあちこちに見られるものと同様、「四国八十八ヶ所霊場」を模したものだろうと思われます。
年代が記されているものは、いずれも「大正」年間のものでした。古い石仏があるのではないだろうか? と期待していた私は、この点は少し残念でした。
中央に一番大きな石仏があります。あまり風雨にさらされなかったのでしょうか、像容は今でも非常にくっきりとしております。


≪中央付近にある石仏≫

なお、この石仏は砂岩で作られており、台座は花崗岩です。そして、石仏の側面に「大正十三年」と刻まれています。台座の部分には、石仏を作るに当って寄付した方々でしょう、金額と氏名が刻まれております。一番の高額寄付は「拾円」のようです。おそらく、当時にあってはかなりの金額だったのではないでしょうか。
この石仏を含めて、ここには砂岩で作られた石仏が20体、残り12体は花崗岩で作られています。

さて、「十九番 立江寺」を自宅に帰ってから検索してみると、予想は ♪ピンポーン♪で、徳島県小松島市にある四国八十八ヶ所第十九番札所立江寺(たつえじ)のようです。
でも、なぜ立江寺だけにこだわっているのでしょうか? 他の札所の銘の入ったお地蔵さんがあってもよさそうに思うのですが・・・。

この立江寺は、「聖武天皇の勅願寺で、天平年間(729-748)行基菩薩が光明皇后の安産を祈念して、地蔵菩薩の小像を刻み、堂宇に安置したのが始まり」だそうです。
そして、四国八十八ヶ所霊場の内に4ヶ所ある『関所寺』の1つだそうです。
関所寺は各国(阿波の国、土佐の国、伊予の国、讃岐の国)に1ヶ寺ずつあって、罪人や邪心を持っている人は、お大師さんのお咎めを受け、先へ進めなくなるのだそうです。そして、立江寺は、関所寺を纏める「総関所寺」として位置づけられているとのことです。
そういう重要な意味のあるお寺だから、その寺の名前を刻み込んで奉納しているということなのでしょうか。
自分達は、邪心を捨てて、清く、正しく生きていきます、と言うような願い・契りが込められているのでしょうか。

 シムネ探訪の話は⇒ こちら 「シムネの神様を探しに」(2008年9月6日)

石仏・石塔見て歩き(10:五輪塔その1)

2008-09-01 12:55:33 | 田舎の歴史
 久しぶりに石仏・石塔の紹介です。
全国各地にある五輪塔は、密教大日如来の象徴とされ、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種だそうです。



佐田岬半島には、たくさんの五輪塔が残存しているようで、我が集落にもいくつかみられます。そして、この写真の五輪塔は、とある民家のすぐ横にあるものです。今までは、その存在さえ知らなかったのですが(きっと子供の頃は見たことあったのでしょうが)、一昨年から再びこの田舎に住むようになってから、その存在を知りました。

五輪塔は、その名の通り5つのパーツ、つまり上から宝珠形=空輪、半月形=風輪、三角形(または笠形、屋根形)=火輪、円形=水輪、方形=地輪によって構成されており、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴するのだそうです。さらに、一般にはそれぞれのパーツに梵字が刻まれていることが多いようです。 五輪塔は、皆さんご存知のあの板塔婆の上の部分にも形取られています。

さて、この五輪塔は高さが約80cmあり、基壇部(基礎部分)を含めて全て砂岩で出来ており、上の二つ空輪と風輪はひとつの石で作られています。長い年月を経てきたのでしょう、風化が進んで壊れかけております。特に、円形の水輪部がたまねぎ状風化(たまねぎの皮を剥ぐような風化形態)により、表面からずいぶん剥がれています。また、その上の火輪部も針金で応急処置が施されています。
そして、風化で見えなくなったのかもしれませんが、梵字は見当たらないようです。それでも、地輪部に「明暦三年」と刻まれているのがなんとか分かりました。明暦三年は、西暦1657年であり、ここ宇和島藩では、伊達宗利が二代目藩主となり、江戸では大火(明暦の大火)が起こったりした年です。
この五輪塔は、建立されてから350年も経っているのです。名取地区でこれまで私が見てきた石仏・石塔のなかで最も古いものです。

五輪塔の左側(上記写真左下)には、別の五輪塔の残骸(地輪と火輪)もあります。石材や形状からすると、これの方がもっと古いような感じがします。

さらに、これらの五輪塔の横のほうに(上記写真右奥のほう)、もうひとつ同じ石材・形状で作られた五輪塔、さらに墓石があります。



こちらの五輪塔には銘文が見当たらないなあと思ったのですが、背後になにやら文字が刻まれているようなのです。しかし、風化のため文字は分かりにくくなっており、私は判読できずにおります。

これら2つの五輪塔のスタイル、石質は、以前見に行ったことのある伊方町指定文化財になっている妙楽寺の五輪塔8基のうちの4基と非常によく似ています。ただ少し違っているのは、妙楽寺のものの方が、空輪(最上部)の先端部の尖り方がより顕著であることくらいです。でも、名取の五輪塔が、長い年月の間の風化により、磨耗して先端部が短くなった可能性もあると思います。

妙楽寺にある類似の4つの五輪塔は、そこの案内板によると「宝暦年間のものとみられる」とありました。ただし、その根拠は記されていませんでした。見た限りでは、今回紹介した写真の五輪塔と石質・形状が非常によく似ているので、ほぼ同時代のものではないだろうかと想像しているのですが・・・。もし、妙楽寺の案内板の記述が正しいとすると、名取の五輪塔のほうが、妙楽寺のものより100年古いということになるのです。
 すごい!

石仏・石塔見て歩き(9:水神観音)

2008-06-30 15:45:47 | 田舎の歴史

 先日紹介しました伊方町PRビデオの中で、女優・宮本真希さんが手を合わせて拝んでいた石仏・水神観音です。この観音様の下は井戸になっており、ナカジ川(中地川)と呼ばれています。このナカジ川には、子供の頃には地下水・湧き水が溜まっておりました。しかし、残念ながらこの箇所には、もう何年も前から地下水は溜まっておりません。これより上の方に道路が出来たりして“水みち”が変わったのでしょうか、枯れてしまっています。


≪ナカジ川と水神観音≫

名取地区には谷や沢こそあれど、「」と呼べるような地形の箇所はないのですが、このように地下水が溜まっている(溜めている)井戸などのある箇所を、昔から「○○川」と呼んでいるようです(例えば、岡の川、峯の川など)。そうして、上水道が整備されるまでは、地区の貴重な水源だったのです。だからこそ、敬意を持って「○○川」と呼び、大切な水が枯れないように水神様を祀ったのだろうと思われます。
 水神観音の表情はいまひとつはっきり読み取れませんが、うっすらと笑みを浮かべた寛容なお顔のように見えます。そして、右手は胸にかざし、左手に宝珠を持っております。この石仏も砂岩でできており、台座は花崗岩です。

ところで、この水神観音は丁寧に積まれた石垣の祠の中に安置されており、石仏前面は風化のために、刻まれた文字が少し消えかかっておりますが、側面の文字は今でもくっきりと残っております。
それによると、右側面に「慶応二寅 十二月吉日」と刻まれており、左側面には「地主 利右エ門」とあります。慶応二年は西暦1866年、幕末の騒々しい時代です。この年、薩長同盟が成立し、12月には慶喜が徳川15代将軍に就任しております。この時代、この地区の先人達はどのような暮らしぶりをしていたのだろうか。

石仏・石塔見て歩き(8:生目大神)

2008-06-04 12:22:44 | 田舎の歴史
この石仏は、集落の外れにある。最初この石仏の存在を知った時、衣装などから菅原道真ではないだろうかと思った。少し凛々しさに欠けた表情をしているのが気がかりではあったが・・・。
菅原道真ではないかと思ったのは、以下の理由からだ。
    
ここ名取集落は、現在は一つの集落としてあるが、昔の名取は三つの集落に分かれていたそうだ。だから、神社もそれぞれの集落に一つずつあったそうである。その三つの神社は、一つは「くろち」、一つは「宮」という所の下、もう一つは「じやしき」という所にあったそうである。その後(いつのころか知らないが)、三つの集落が一つにまとまって現在に至ったのだそうである。そういえば、名取地区は「岡、里、峯」の三つに分けられているが、それと関係しているのだろうか? うーん、分からない。

また、『町誌』によると、名取の客神社の由緒沿革が次のように書かれてある。
「寛永年間(1624~1644)の創立であるという。当初の氏神は字黒内に鎮座の天満宮であったのを、寛永年間に客神社を創立し、氏神とした。・・(中略)・・明治6年11月村社に列格、同42年9月天満神社を合祀した。」
私は最初、この部分の記述を何も感じずにいたが、上記の集落が三つあった話の「くろち」と、『町誌』のなかの「黒内」とは、同じ箇所を指すのではないだろうか、と思うようになった。「黒内」は「くろうち」ではなく、「くろち」と読むのではないだろうか。
私は、この地区の「くろち」という地名は、土の色が黒いところから、「黒土」⇒「黒地(くろち)」となったのではないかと思ってきていたのだが、どうも私の考えは外れているようだ。

少し長くなりましたが、つまり、昔「黒内」にあった天満宮(=菅原道真)が、明治時代に客神社に合祀されたけれど、その名残として、天満宮が元あった場所=「くろち」に冒頭の写真の石仏(私が勝手に菅原道真と思い込みかけていた石仏)が残されているのではないだろうかと、思うようになった次第である。

そんなわけで、ある日期待を込めて、この石仏に会いに出かけた。
すると、「生目大神」と刻まれていた。しかも、建立したであろう人の名前も刻まれてあり、名字まである。ということは、明治以降の建立であろう。
ということで、私の拙い想像は見事に外れだった。
ちょうど私がこの石仏を眺めていた時、一人のおばさんがここを通りかかったので、聞いてみると、おばさんは「これは目の神様で、昔は目の悪い人がここで拝むと目が良くなった」と言っていた。

「生目大神」というのは聞いたことがないので、帰ってからパソコンで検索してみると、県内や宮崎県には、“生目八幡”や“生目神社”があるようだ。そして、そこには源平の争いに敗れた平家の武将・平景清の伝説が残されているようである。
戦いに敗れた平景清は、源氏の繁栄を見るのが辛くて、自分の両目をくり抜いて、岩に打ち付けたとか、投げた目が神社の松のこずえに引っかかったとか、というような伝説である。そのため、それ以降景清を祭神に祀り、目の神様としても篤く信仰されてきたようである。

10日ほど前、テレビで「裸の大将~宮崎篇」というのをやっていたが、その時ちょこっと神楽のシーンが出たのだが、神楽をやっていた神社が「生目神社」だった。
この生目大神の衣装は、平家の武将という姿ではなく、公家というイメージなのだが・・・。ともあれ、この石仏を建てた方も、自分あるいは家族の眼病が良くなることを願って、この石仏を祀られたのであろう。
 今も、この石仏の前には花が絶えることはない。

石仏・石塔見て歩き(7:道祖神?)

2008-05-20 13:26:08 | 田舎の歴史


この石仏は、スキンヘッドではないようであり、いわゆる「地蔵菩薩」とは違っているように思える。そして、この石仏には、「右 三崎道 左 佐田道」と刻まれており、なにやら“道しるべ”のようでもある。確かに、この三叉路を右に上がって行けば、墓地、さらに峠を越して三崎へ通じる山道がある。一方、左へ行く道は子供の頃、我が家の畑もあったイツグチへ通じる道であったように思うが、きっとこちらも別の峠を越して佐田まで通じる山道があったのであろう。しかしながら、今では我が地区の古老でもその道を知っている人はいないのではないだろうか。
また、この場所が集落の端っこに位置しているため、地域内に疫病や邪悪なものが入ってこないように、境界を守る神さまとしての『道祖神』のような意味合いがあるのではないだろうか?
  
この石仏には、さらに「彦七 同人妻」との銘が刻まれている。おそらく石仏を建立した人であろうが、なぜ妻の名前を明かしていないのだろうか? この時代にあっては、女性の名前を刻むというのは憚られることで、これが標準形だったのだろうか? それとも、名前を明かせない事情があったのだろうか? 
ひょっとして、『駆け落ち』? 
もうすぐ、この石仏のすぐ近くを道路が出来ることになっているのだが、この石仏は移動を迫られるのだろうか?