goo blog サービス終了のお知らせ 

かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

石仏・石塔見て歩き(6:十一面観音)

2008-04-26 10:43:48 | 田舎の歴史


 小学生の頃、毎日この石仏の前を通って学校へ通っていた。この石仏の頭には、ブツブツにしては大きな顔がたくさんある。石仏の台座にしっかりと大きな文字で『十一面観世音』と刻まれている。
調べてみると、十一面観音は一般には立像で、右手を垂れて、左手には蓮華の入った花瓶を持っているとされているようだが、この観音様は少し像容が違っている。まず、坐像であること、そして右手は胸の前にかざしており、左手の花瓶らしきものには何も入っていない。いや、これは形状からして花瓶ではなく、つぼみ状態の蓮華そのもののようだ。
この石仏も、いつも赤いよだれかけをされているので、写真を撮るために少しの間、めくらせていただいた。だから、右手や左手の蓮華は普段は見ることができない。ところで、どうしてお地蔵さんは、帽子やよだれかけの色が赤なのだろうか。
この十一面観音は、石で組まれた祠の中に安置されており、昼間でもやや薄暗いためだろうか、表情がいまひとつはっきりわからない。祠に安置されているので、それほど風化が進むとは思えないのだが・・・。


台座の側面には、「天保四年 七月吉日」とあり、さらに建立した人だと思われる「ぢぬし 源右衛門」という銘もある。十一面観音のご利益は、厄災を逃れ、煩悩を消し去り清らかな境地へ至ることができるとされているだが、源右衛門さんは特に何を祈願しようとしたのだろうか? そして、彼の子孫はどなたであろうか? 
天保四年は西暦1833年。そして「天保年間」といえば、歴史で学んだ「天保の改革」や「天保の飢饉」が思い出されるが、特に1833年前後を頂点に、冷害による凶作が6年間続き、全国的に慢性的飢饉状況に陥ったようだ。『町誌』によるとこの地域でも、1832年夏凶年とある。
   
ところで、この石仏も我が地区の他の大部分の石仏と同様に、石仏本体は砂岩製、台座は花崗岩製である。今のところ、私の密かな仮説は成り立っているようだ。
この石仏の脇には、大きなヨノミの木があります。これについては、次回投稿したいと思います。 

石仏・石塔見て歩き(5:地蔵菩薩)

2008-04-08 11:53:28 | 田舎の歴史


おそらく、これが典型的な地蔵菩薩なのだろう。スキンヘッドで粗末な着衣、そして右手に錫杖、左手に如意宝珠を持っている。さらに、両眉の間に白亳(びゃくごう)も見られる。白亳とは、白玉の亳(ほそげ:毛の集まり)のことだそうで、清浄で常に光明を放つと言われているらしい。お顔はふっくらとして、やさしそうである。
 地蔵菩薩というのは、釈迦の入滅後、弥勒が世に出るまでの期間、人々の苦しみや悩みを救い、悟りの境地に導く任を持っているとのことである。
この石仏の台座には、「元禄十五年・・・九月十二日」と刻まれている。その間の文字は、人の名前のように思えるのだが、判読しきれないままだ。元禄十五年といえば、赤穂浪士の討ち入りが有名で、西暦1702年に相当する。この石仏は、300年余り以前に作られたものだ。すごい!その割には、石仏事態がそれほど傷んでいない。ここには、もう一体これと同じ像容のやや小さめの石仏があるのだが、残念ながら半分に割れてしまっており、風化も進み、台座も見当たらない。 
ところで、この石仏の台座は、仏像部と同質の砂岩で作られている。我が地区のほかの石仏のほとんどは、台座が花崗岩なので、少し気になっているところだ。
この場所は、名取地区の組頭の墓地だったようで、他にもたくさん墓石などが並んでいる。そして、その中のひとつに、「元禄七年」と刻まれた古い墓石もあり、これも台座は砂岩である。これまでに紹介した石仏の中では、この2つが最も古いものであり、我が地区では江戸時代のある時期から、台座に花崗岩が使われ始めたのではないだろうかと密かに思っている。そして、その後はさらに仏像本体や墓石なども花崗岩が主流になったのではないだろうか。まだ少ししか見ていないので、早計なことは言えないので、今後この点にも注意して、石仏を見て歩きたいと思う。
 

あっ!そういえば今日は『花祭(潅仏会)』だった。お釈迦様が生まれたとされる日だ(本来は旧暦4月8日)。子供のころ、この日にお寺で甘茶が振舞われていたことを思い出す。ジュースなどなかった子供の頃、この甘茶のほのかな甘さがなんとも言えず嬉しかった。 

石仏・石塔見て歩き(4:大乗妙典納塔)

2008-03-08 13:58:27 | 田舎の歴史


前回紹介しました鎮火地蔵の、向かって左側にある石塔には「大乗妙典納塔」と刻まれており、右側面には「明和七年・・・・・兵頭新左衛門●包延立」の文字が読み取れる(●部は「尉」に見えるが自信なし)。
『町誌』によれば、明和七年(1770年)の夏100日に及ぶ干ばつがあり百姓たち袖乞い(そでごい:物乞いのこと)に出る者多し、時の庄屋兵頭新左衛門包延が民福を祈るため、各集落にこの石塔を建てたとのことである。餓死者もでたのではないだろうか、当時の農民の苦しさが伝わってくるようである。そして、心を痛めた庄屋さんの人徳が伺えるような気がする。 
名取漁港から少し上った道沿いにも、これと全く同じスタイルの「大乗妙典納塔」がある。こちらは、明和九年と刻まれている。
もう、230年以上も前に造られた石塔だけれど、2塔とも刻まれた文字は今でもくっきりしている。そして、我が集落にも結構古い石碑・石塔の類が残っているものだなあと、あらためて感心するとともに、勉強になりました。

「大乗妙典」とは、私たち衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる経典で、一般的には法華経、すなわち妙法蓮華経をさすと言われているようだ。
「納塔」とあるから、この石塔の下か台座内部に経典が埋められているのだろうか?それとも、別の場所(お寺など)に経典は納めて、この場所はその記念ということなのだろうか? 左側面には、「妙法蓮華・・・・・」と刻まれているので、この石塔そのものが経典をなしていそうでもある。 

その他、この集会所前の地蔵群には、「三界萬(万)霊」と刻まれた石仏・石碑が最も多いようである。三界とは、俗界・色界・無色界の三つの迷いに溢れたこの世界のことで、万霊とは、ありとあらゆる精霊のことを指しているそうだ。ご先祖達の信仰の深さと生き物の生命を尊ぶ精神の表れのように思える。側面に俗名があるものが多いようなので、施餓鬼とも関連しているものと思われる。
  
この石仏・石塔群の下は広場になっており、子供の頃よくここで遊んだものである。時にはボール遊びもやり、お地蔵さんたちや石塔に当たることもあった。子供の頃は、そんな謂れなど知ろうともしなかった。今さらではありますが、そんな“ガキ”どもを、お許し下さい。 

石仏・石塔見て歩き(3:鎮火地蔵)

2008-02-25 14:15:24 | 田舎の歴史

ここ名取集落の中心地 集会所の前に、たくさんのお地蔵さんが並んでいる。このうち最も大きい地蔵の台座には「鎮火地蔵尊」と刻まれており、町の有形文化財になっている。
名取地区は、傾斜地に密集して民家が建っており、風が強く昔は火事が多かったようだ。『町誌』によると、明治34年11月28日 大火で176戸焼失、明治43年4月27日 大火で10戸焼失 とある。176戸というのは、全戸数に近かったのではないかと思ってしまうが、伝え聞くところによると、50戸ほど焼け残ったそうだ。『町誌』によると、明治初年の名取地区の戸数が211戸とあるので、この数字はほぼ符合する。 
「鎮火地蔵尊」はふっくらしたお顔で、集落の出来事・人々を静かに見守っているようなのだが、見る角度や光の具合によって微妙に表情が違って見える。そして、「鎮火地蔵尊」と大きく刻まれた文字の両側に、年代を示すと思われる文字があるが、風化のため判読しづらくなっている。それでもなんとか指でなぞりながら読んでみると、「文化十三丙子年 二月・・・」と刻まれているのがかろうじてわかった。この頃の石仏などの年号は、たいていこうして干支も記されている。文化13年は、西暦1816年である。その他の文字は、悔しいことに私は判読できないままでいる。また、この台座のすぐ下の台座にもたくさんの文字が刻まれているようであるが全く読めない。かろうじて、右端の文字が「世話人」と刻まれているように思えるのだが、自信はない。もしそうだとすれば、ここに世話・寄進をした方々の名前が刻まれているのであろう。なお、一番手前にある水鉢(香炉?)側面の文字は、「明治三十五年」と読み取れる。ということは、この水鉢は、別の石仏とセットだったものを、後年この地蔵の前に設置した可能性がある。
文化年間に火事があったとの記載は、『町誌』にはないようなのだが、この頃にも大火事があったということだろうか。
この場所で、鎮火地蔵尊の他に、「愛宕地蔵尊」と刻まれた石仏も2体ある。1体には、側面に「明治二十五年十一月」(三十五の読み違いかな?)、そうして、石仏の頭部が無くなっているもう1体には「明治三十五年」と刻まれている。全国各地に分布する愛宕神社は、古くから防火の神様として強く信仰されているようなので、この愛宕地蔵は明治の大火を機に、防火を願って建てられたのであろうか。

ところで、鎮火地蔵は、四角い台座部分(三段)の高さが約105cm、その上部も約105cmあり、四角い台座と座布団のような円形の台座は花崗岩で作られ、はすの花(蓮弁というのだろうか?)と地蔵本体は中粒砂岩でできている。愛宕地蔵も同じように、台座が花崗岩、本体が砂岩で作られている。丸みを帯び、やや複雑な形状のお地蔵さんを作るには、硬い花崗岩よりやや軟らかく粒子(鉱物)の細かい砂岩の方が細工しやすいからだろう。
この半島の岩石はすべて結晶片岩からなっているので、これらの花崗岩や砂岩は他の地域から運んできたものだということになる。結晶片岩類は板状に割れやすいため、大きなお地蔵様を作るのは難しかろう(いや不可能に近い)。では一体どこから運んだのだろうか? 花崗岩は、広島、岡山、瀬戸内海の島々あたりからだろうか?では砂岩はどこから運んだのだろうか?花崗岩と砂岩が同じ地域のものだとしたら、宇和島付近から運んだ可能性もある。宇和島であれば、同一藩内であることだし・・・。
この時代であれば、運搬は海上が主体であろうから、海岸に近い場所で採石した可能性が高いように思われる。そうすると、宇和島地方の花崗岩は山間部に分布しているので、採石場とはなりにくいか。でも、川を使って海まで運搬すれば、何とかできそうではある。 
どこから、どういうルート・方法で運搬したかが気になるところだが、名取の海岸までは運んだとしても、この重い石を海岸から130m高い位置にあるこの場所まで、どうやって運び上げたのだろうか? 寸法を測り試算してみると、中央の最も大きい台座石で400kg余りにもなる。そして、最下段の台座石は2つが組み合わされており、1個がやはり400kg程度である。遠距離や坂道を運搬するには、この重さが限界だったのではないだろうか。坂道・石段をコロで移動させるのは無理なので、やはり数人で担いで上るしか手がなかったのではないだろうか。大変なことである。 
そんな大変なご苦労があっただろうと想像しているのだが、今やお地蔵さんは、苔むしているばかりでなく、風化が進み亀裂も入って、一部壊れ落ちそうになっており、修復してあげないと可哀想になっている。このお地蔵さんは、200年近くもの間、名取の全ての人々を見続けてきて、毎年盆踊りもご覧になられている。そんなことを想像していると、とても尊いように思えてくる。 

石仏・石塔見て歩き(2:不明な石仏)

2008-02-12 12:16:21 | 田舎の歴史

前回紹介しました「子安観音」から10mほど離れた場所、道の分岐に安置されている石仏です。地蔵菩薩かと思っていたけれど、右側の石仏は、何かを被っているのか、髪が伸びて束ねられているのか、とにかくスキンヘッドではない。「地蔵菩薩」の基本形は、スキンヘッドであることらしいので、この石仏は地蔵菩薩ではないことになる。とはいえ、我が地区では、とにかくこの石仏も前回の子安観音も、すべて「地蔵様」と呼ばれている。一般的にもそうなのではないだろうか。厳密には、いわゆる“地蔵”とは、“地蔵菩薩”のことだということを、この歳になって初めて知りました。 
さてこの石仏、光背に文字が刻まれているのだが、左側は「文久三●●正月●・」(●は不明)と何とか少し読み取れたが、右側の文字は「施主お●●・」と刻まれているように読めるのだけれど、よく判らないままでいる。野ざらし状態なので、随分と苔むし、風化して、その風貌もよく判らなくなっている。文久三年は西暦1863年で、幕末の時代であり、この年、薩英戦争が起こっている。この地における幕末は、どんなふうだったのだろうか。
そして、左側の石塔には仏像はなく、文字だけであり、「大乗妙典 字●●・」のように読めるのだが、これまたよく判らない。こちらも風化・苔むしており、亀裂も入って壊れかけている。
しかし、これらの石仏には、どなたがされているのか、いつも花が供えられている。こういう信仰篤い方々がおられるから、路傍の石仏もこうして静かに佇んでいることができるのであろう。

石仏・石塔見て歩き(1:子安観音)

2008-02-03 11:25:01 | 田舎の歴史
今までに本ブログで、地元の「石灯籠」や「いぼ神様」を紹介しましたが、子供の頃何度もその前を通り、時にはお姿を拝見してこともあったと思う集落のその他の石仏、そして石塔、石碑など。それらを改めて訪ねてみて、じっくりそのお姿を拝見させていただいたり、作られた当時のことなどを想像したりしてみたいと思っております。もう随分と風化が進んで傷んだり、頭部がなくなったりしているものも少なくないようです。 

そんなわけで、「石仏・石塔見て歩き」と題して、随時紹介させていただこうと思いたったしだいです。まず第1回目として、我が家のすぐ近くにある「子安観音」です。以前本ブログで紹介しました“サロン地蔵様”の石仏さんです。
普段は、どなたが作られたのか、赤い帽子を被り、赤いよだれかけと底のない袋を首から下げているため、子供を抱いていることがわからないのですが、失礼して少しの間それらを外して、お姿の全容を拝見させていただきました。しっかりと両腕で、子供を抱きかかえておられます。そして、ふっくらとした、やさしそうなお顔をしております。台座の側面には、「文化八年七月十八日」と刻まれており、前面に世話人の方々の名前が14名ほど刻まれている。この当時ですから、皆さん苗字はありません。名前だけです。文化八年といえば西暦1811年、11代将軍徳川家斉の時代で、この翌年、『菜の花の沖』(司馬遼太郎)でお馴染みの高田屋嘉兵衛が国後海上で、ロシア軍艦にとらえられています。 

ということで、この子安観音はもうすぐ200歳です。200歳の誕生日には、盛大な誕生会があるのだろうか。平成13年に、ここの道と石垣が改修され、その時にこの石仏の祠も新しく作られたようで、今はブロックを積み上げて作られた祠である。以前は、どういう風に安置されていたのか記憶がないが、ずっと祠にまもられていたのだろうか、それほど風化が進んでおらず、よくぞ長い年月を耐えてこられたと思う。そして、買物の行き帰りに談笑するおばあさん達の話を微笑ましく聞いているのであろう。 

石灯籠の正体

2007-12-28 15:53:55 | 田舎の歴史
今年のことは今年のうちに。ということで、まずひとつ訂正というか補足をしなければなりません。本ブログで、8月4日に紹介した「石灯籠」のことです。
紹介した時、私はこの石灯籠をきちんと見ていなかったのですね。後日、気になったので改めて見に行ってみると、柱をなしている最も大きな石には文字が刻まれているではないか。不覚でありました。この柱部分は、高さが2mあり、緑色片岩ではなく珍しく泥質片岩で造ってある。そのためだろうか、彫りが浅いせいだろうか、光の当たり具合で少し離れると文字だとわからなかった。なんて言い訳をしても恥ずかしい。 
その文字は、いかにも素人っぽい感じの彫り方ではあるけれど、中央に大きく「金毘羅大権現」と刻まれている。そして、その右側には「文政八年●」(●部分は打出の小槌のような絵に見える)、左側には「二月●●●社中」(●部分判読できず)との文字がどうにか読み取れた。そして、改めて『町誌』をめくってみると、年表欄に「1825年(文政8年2月) 名取浦浜の石灯籠金毘羅大権現当浦若連中」との記述があった。そうであったか、江戸時代にここ名取の若い衆たちが建てたようである。おそらく、金毘羅へ参って帰った若者達が、感謝の意・しるしに建てたのだろう。当初は、金毘羅から持ち帰ったお札か何かも納められていたのかもしれない。すごい! 若い衆たちのご苦労もさることながら、想像していたより古いものだった。そして、よくぞこれまで倒壊せずに持ちこたえたものだと感心した。『町誌』の記述は、おそらく何かの資料が基になったのではなく、『町誌』の編集に携わった方が、この石灯籠の文字を直接判読して、それを載せたものではないだろうか。
現在、町の郷土館が町内の石造物の調査を進めているとのことなので、きっとこの石灯籠も対象に入っているのだろうと思われる。  調査報告書が楽しみである。

地名の由来

2007-10-10 11:37:53 | 田舎の歴史

ブログを始めて3ヶ月が経った。訪問してくださる方、ありがとうございます。そこで、今日は我が地区の地名の由来などを紹介したいと思います。

我が地区・集落は、「名取(なとり)」と言います。同じ地名が宮城県にあります。そう、仙台空港のある「名取市」です。実は、我が地区の名前は、この名取市にちなんでいるといわれています。 

江戸時代の元和元年(1615)、奥州伊達政宗の第一子、伊達秀宗が、徳川家の命令で伊予宇和島(当時は板島藩と呼ばれていた)に10万石の領主として、奥州の家臣とともに入部する。この年秀宗25歳。その時、馬数十頭の荷駄で、諸道具を運んできたといわれており、その馬をひいてきた人たち(百姓だろうか?)を居住させ、馬の放牧をさせた。そこで、この地に郷里の「名取」という地名をつけたといわれている。こうして宇和島藩は、名取を藩の軍馬育成の地にしたと伝えられている。

名取地区の東側海岸に、地元では「ウマノセ」と呼ばれている箇所がある。「馬の背(瀬?)」のことだろうと思われる。ここは、岩礁が沖合まで点在しており、干潮の時にそれらが海面上に顔をだす良い磯場である。子供の頃、そこに宇和島藩の馬を放牧していたと聞かされたような気がする。だから「馬の背(瀬?)」かと。 

しかしながら、馬を放牧させるなら、岩の多いところではなく、もっと平坦な砂地のほうが適しているのではないだろうかと思う。そのほうが草もたくさん生えているだろうし。それよりも、宇和島藩の軍馬を育成するのに、宇和島から遠いこの地をわざわざ選ぶだろうか?藩内には、もっと近くに適地があると思うし、この名取では、いざという時、宇和島まで馬を移動させるが大変ではないだろうか、と思ってしまう。なんだか、地名由来に関するせっかくのいい話に水を差すようになってしまいそうだが、軍馬育成には疑問が残る。それよりも、九州勢の侵攻にそなえての見張りの地にしたのではないかという説もあるようで、こちらのほうが説得力があるように思える。

 

この半島の宇和海側には、いくつもの集落があるが、海岸沿いではなく斜面の中腹にある集落は、この名取地区だけである。これはなぜだろう? ここ名取からは、半島、そして半島の付け根から宇和島方面が一望できる。残念ながら、宇和島市街地は湾入部にあり、その湾入り口には展望をさえぎるような島があるため、この地から宇和島市街地を直接望むことはできない。

とはいえ、江戸時代にあっての通信手段のひとつに、「のろし」があったはずだ。その「のろし」を使って、途中の島(例えば、戸島、日振島)や峠(例えば法華津峠)を経由すれば、宇和島城への情報伝達は可能だろう。まさにこの時代の高速インターネットだ。  

名取地区は、宇和島と九州を見渡した場合、絶妙の場所に位置していると思える。そのために、海岸沿いに平地がないながら、ある特殊目的のために名取地区が選ばれたのではないだろうか。「のろし」の発信場所としては、海岸沿いよりも、より標高が高く見晴らしの良いところを選ぶと思う。 

こうして、私はすっかり『見張り地説』に傾いてしまった。

こんなことを考えていたら、この地区のどこかに「のろし場」跡地があるのではないだろうかと思えてきた。でも、そういった話はこれまで地元の誰からも聞いたことはない。  探してみようかな。 


客神社

2007-10-07 12:41:21 | 田舎の歴史

神社は、我が家から直線距離で100mほど離れた場所にある。特段変わった神社ではなく、本殿、中殿、拝殿からなるごくフツーの神社だと思う。子供の頃は、ここでチャンバラごっこやかくれんぼなどをして遊んだものである。その頃は、この神社に名前があるなどとは考えもしなかったが、「客神社」という。『町誌』によると、寛永年間(1624~1644)の創立であるという。はじめは客大明神と称したが、明治維新の際、客神社と改称してその後、明治42年9月に天満神社を合祀した、とある。そして、祭神は、伊弉諾命、伊弉冊命、菊理姫命、速玉之男命、事解之男命、菅原命とのこと。(なお、伊弉冊命は「冊」ではなく「冉」の漢字が正しいようだ。)

最初の2神は、イザナギノミコトとイザナミノミコト、そして最後は天神様(菅原道真)だとわかったが、他の3神がわからなかったので、手持ちの本で調べてみた。すると、菊理姫命はククリヒメノカミ(ミコト)、速玉之男命はハヤタマノオノミコト、そして事解之男命はコトトケオノミコトだとわかった。そして、これらの神々のことを『日本書紀』などでみてみると、以下のようなことが書かれてある。

イザナミ命は、火の神を生んだ時のやけどがもとで死んでしまう。そしてその後、イザナギ命は、亡くなったイザナミ命を訪ねて黄泉の国へ行くのだが、イザナミ命の正体がわかり、驚いて黄泉の国から逃げ出そうとする。そして、逃げるイザナギ命とそれを追って来たイザナミ命が途中で言い争いとなる。そこに、黄泉の国に通じる道の番人とともに現れて、イザナギ、イザナミ両神の言い分を聞いてうまくとりなしたのが、菊理姫命とされている。そしてこの神は、白山信仰の主祭神であり、農業の神様である。

次に速玉之男命は、熊野三社のうちの一つの祭神“熊野速玉之男命”のことであり、イザナギ命が黄泉の国へ行って、イザナミ命の正体を知り、「離縁しよう」と決別の誓いをした時に生まれた神だとのことである(神様だから生まれるというより生じると言ったほうがよいのか)。そして、この時同じようにして事解之男命も生まれている。そのためか、速玉之男命と事解之男命は同一神とする説もあるようだ。ところで、その生まれ方がすごく、イザナギ命が誓約のために唾を吐いた時に生まれたのが、速玉之男命・事解之男命なのだそうだ。この二神の神徳は多岐にわたるが、漁業の神様でもある。

 

 『古事記』や『日本書紀』での神話に相当する箇所では、こういった風にとんでもない物やしぐさから神様ができてくるケースが多い。ちなみに、イザナギ命が先ほどの黄泉の国からこの世に逃げ帰って、禊の祓いを行う時、左目を洗った時に生まれたのが天照大神で、右目を洗った時に生まれたのが月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に生まれたのが須佐之男命(スサノオノミコト)なのである。天照大神や須佐之男命は、イザナギ命とイザナミ命の子供とされるが、そうするとイザナギ命一人(神様だから一神あるいは一柱か)で、しかも男神が生んだことになり、変だ。それよりも、唾や目から生まれるか?「そんな馬鹿な」と思わせるのが神話のすごいところなのである。そんなことを気にしていたら、神話は先に進まないのだ。神様の身につけている物・持ち物、何からだって神様は生まれるのだ。ワニからだって生まれるのだ。

こうしてみると、我が地区は、創造神農業神漁業神、そして学問の神様に守られていることになる。

               

太平洋戦争後、日本の教育では、古事記や日本書紀の記述を「科学的でない」とか、「天皇制の正当化だ」とかいって、ほとんどふれられなくなった。考古学者の森浩一さんは、そういった戦後教育・風潮に問題提起をし、「虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべき時期であろう」と言う。私も同感であり、そうすることによって、より豊かな歴史観や世界観・宗教観ができると思うのだが・・・。

私が小学校に入る前か小学校低学年の頃、学校の先生が神話の紙芝居を見せてくれた。「国生み」、「ヤマタノオロチ」、「海幸彦・山幸彦」、「因幡の白ウサギ」などなど、これらのお話は、その頃紙芝居で学んだ。その頃テレビなどなかったし、面白いなあと思った記憶がある。


西郷隆盛宿営地?

2007-08-19 11:59:46 | 田舎の歴史
昨夜テレビで、映画「ラスト サムライ」を見た。この映画が公開された時、当時オーストラリアに住んでいた知人が、この映画を見て「トム・クルーズより渡辺謙がかっこよかった」と言っていたので、私も新宿の映画館へ見に行った(当時は東京在住)。この映画は印象的なシーンがいくつもあるが、そのたびに私はうるうるしていた。そして、最後に謙さんたちが突撃するシーンでは思いっきり涙が出た。でも、奥さんは「どのシーンで泣けるの?」と不思議そうだった。
「ラスト サムライ」を見たとき、やはり西南戦争(西南の役)や神風連の乱、佐賀の乱を思い出した。おそらく、この映画の監督もそういった明治政府に対する反乱士族をイメージしたのだろう。昨夜テレビを見ていて気づいたのは、時代設定が1877年(明治10年)となっていたので、まさに西南戦争の年である。
ところで、なぜ、西郷隆盛の反乱は「戦争または役」で江藤新平や太田黒伴雄の場合は「乱」なのだろうか?おそらく、これは当時の政府や天皇から見て、そしてその後の歴史研究家からみた西郷隆盛と江藤新平・太田黒伴雄の身分・立場・業績などの違いからくるのであろう(皇国史観的要因もあると思う)。   たしかに日本史を見ていると、「平将門の乱」「弘安の役」「承久の変」などと「乱」「役」「変」が使い分けられている。井沢元彦氏の本を読むと、「乱」は単なる国内の反乱だが「役」は「戦争」という意味があるからで、日本では大規模な対外戦争はすべて「役」と呼ぶようだ。ところが、「承久の変」の場合は、鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が起こした戦いなので、「乱(臣下の反乱)」でも「役」でもおかしいというわけで、「変」(変事ないしは災難の意味)となったようだ。ちなみに、「本能寺の変」というが、明智光秀の側からみれば「光秀の乱」と言うことになるだろう。
さて、西郷隆盛であるが、私の母方の祖母が生前「昔、西郷さんがうちに泊まったことがある」と言っていた、という話をいとこから聞いたことがある。母方の祖母の家は昔、旅館をやっていたことがあるようだ。その家は私が子供の頃にはもう廃屋となり、今は私の菜園となっている場所だ(写真参照)。
西郷隆盛がこの半島にやってきたという話は聞かないが、西南戦争の時、豊後(今の大分県)を目指したことがあるようなので、その下臣が海を渡りこの地に泊まったことがあるのかも知れない。あるいは、佐賀の乱の終盤、東京を目指した江藤新平が高知県で捕らえられているので、その途中この地に宿泊したのかもしれない。しかし、江藤新平はこの時、日向市から船をやとって宇和島へ渡りその後高知県にぬけたようなので、そのルートでは半島からちと遠すぎる。それとも、日向市から海岸線に近い海路を北上し、宇和島に行ったのであれば、この半島に泊まった可能性はある。などと妄想は膨らむ。 

この祖母の話は、祖母の記憶違いかもしれないが、今はわが菜園となっている場所に、うそでもいいから『西郷隆盛御宿営地』などと石碑を建てておけば、どなたか熱心な研究家が真相を確かめてくれるのではないかと思ったりする次第である。≪恐縮です≫