
ここ名取集落の中心地 集会所の前に、たくさんのお地蔵さんが並んでいる。このうち最も大きい地蔵の台座には「
鎮火地蔵尊」と刻まれており、町の有形文化財になっている。
名取地区は、傾斜地に密集して民家が建っており、風が強く昔は火事が多かったようだ。『町誌』によると、明治34年11月28日 大火で176戸焼失、明治43年4月27日 大火で10戸焼失 とある。176戸というのは、全戸数に近かったのではないかと思ってしまうが、伝え聞くところによると、50戸ほど焼け残ったそうだ。『町誌』によると、明治初年の名取地区の戸数が211戸とあるので、この数字はほぼ符合する。

「鎮火地蔵尊」はふっくらしたお顔で、集落の出来事・人々を静かに見守っているようなのだが、見る角度や光の具合によって微妙に表情が違って見える。そして、「鎮火地蔵尊」と大きく刻まれた文字の両側に、年代を示すと思われる文字があるが、風化のため判読しづらくなっている。それでもなんとか指でなぞりながら読んでみると、「文化十三丙子年 二月・・・」と刻まれているのがかろうじてわかった。この頃の石仏などの年号は、たいていこうして干支も記されている。文化13年は、西暦1816年である。その他の文字は、悔しいことに私は判読できないままでいる。また、この台座のすぐ下の台座にもたくさんの文字が刻まれているようであるが全く読めない。かろうじて、右端の文字が「世話人」と刻まれているように思えるのだが、自信はない。もしそうだとすれば、ここに世話・寄進をした方々の名前が刻まれているのであろう。なお、一番手前にある水鉢(香炉?)側面の文字は、「明治三十五年」と読み取れる。ということは、この水鉢は、別の石仏とセットだったものを、後年この地蔵の前に設置した可能性がある。
文化年間に火事があったとの記載は、『町誌』にはないようなのだが、この頃にも大火事があったということだろうか。
この場所で、鎮火地蔵尊の他に、「
愛宕地蔵尊」と刻まれた石仏も2体ある。1体には、側面に「明治二十五年十一月」(三十五の読み違いかな?)、そうして、石仏の頭部が無くなっているもう1体には「明治三十五年」と刻まれている。全国各地に分布する愛宕神社は、古くから防火の神様として強く信仰されているようなので、この愛宕地蔵は明治の大火を機に、防火を願って建てられたのであろうか。
ところで、鎮火地蔵は、四角い台座部分(三段)の高さが約105cm、その上部も約105cmあり、四角い台座と座布団のような円形の台座は花崗岩で作られ、はすの花(蓮弁というのだろうか?)と地蔵本体は中粒砂岩でできている。愛宕地蔵も同じように、台座が花崗岩、本体が砂岩で作られている。丸みを帯び、やや複雑な形状のお地蔵さんを作るには、硬い花崗岩よりやや軟らかく粒子(鉱物)の細かい砂岩の方が細工しやすいからだろう。
この半島の岩石はすべて結晶片岩からなっているので、これらの花崗岩や砂岩は他の地域から運んできたものだということになる。結晶片岩類は板状に割れやすいため、大きなお地蔵様を作るのは難しかろう(いや不可能に近い)。では一体どこから運んだのだろうか? 花崗岩は、広島、岡山、瀬戸内海の島々あたりからだろうか?では砂岩はどこから運んだのだろうか?花崗岩と砂岩が同じ地域のものだとしたら、宇和島付近から運んだ可能性もある。宇和島であれば、同一藩内であることだし・・・。
この時代であれば、運搬は海上が主体であろうから、海岸に近い場所で採石した可能性が高いように思われる。そうすると、宇和島地方の花崗岩は山間部に分布しているので、採石場とはなりにくいか。でも、川を使って海まで運搬すれば、何とかできそうではある。

どこから、どういうルート・方法で運搬したかが気になるところだが、名取の海岸までは運んだとしても、この重い石を海岸から130m高い位置にあるこの場所まで、どうやって運び上げたのだろうか? 寸法を測り試算してみると、中央の最も大きい台座石で400kg余りにもなる。そして、最下段の台座石は2つが組み合わされており、1個がやはり400kg程度である。遠距離や坂道を運搬するには、この重さが限界だったのではないだろうか。坂道・石段をコロで移動させるのは無理なので、やはり数人で担いで上るしか手がなかったのではないだろうか。大変なことである。

そんな大変なご苦労があっただろうと想像しているのだが、今やお地蔵さんは、苔むしているばかりでなく、風化が進み亀裂も入って、一部壊れ落ちそうになっており、修復してあげないと可哀想になっている。このお地蔵さんは、200年近くもの間、名取の全ての人々を見続けてきて、毎年盆踊りもご覧になられている。そんなことを想像していると、とても尊いように思えてくる。