この石仏は、スキンヘッドではないようであり、いわゆる「地蔵菩薩」とは違っているように思える。そして、この石仏には、「右 三崎道 左 佐田道」と刻まれており、なにやら“道しるべ”のようでもある。確かに、この三叉路を右に上がって行けば、墓地、さらに峠を越して三崎へ通じる山道がある。一方、左へ行く道は子供の頃、我が家の畑もあったイツグチへ通じる道であったように思うが、きっとこちらも別の峠を越して佐田まで通じる山道があったのであろう。しかしながら、今では我が地区の古老でもその道を知っている人はいないのではないだろうか。
また、この場所が集落の端っこに位置しているため、地域内に疫病や邪悪なものが入ってこないように、境界を守る神さまとしての『道祖神』のような意味合いがあるのではないだろうか?
この石仏には、さらに「彦七 同人妻」との銘が刻まれている。おそらく石仏を建立した人であろうが、なぜ妻の名前を明かしていないのだろうか? この時代にあっては、女性の名前を刻むというのは憚られることで、これが標準形だったのだろうか? それとも、名前を明かせない事情があったのだろうか?
ひょっとして、『駆け落ち』?
もうすぐ、この石仏のすぐ近くを道路が出来ることになっているのだが、この石仏は移動を迫られるのだろうか?