前回、江戸後期から明治中期にかけては、

上の写真のように、角柱型の竿石で頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びたタイプが標準形だろうと紹介したが、
では、それ以前はどうだろうか。


こんな風にこれ以降のものに比べて奥行がもっと薄く、てっぺんがかまぼこ型ではなく、三角形(将棋の駒のような形)が多いようだ(以下「駒形」称す)。
地区の共同墓地では、このタイプの墓石が最も古く、元禄~宝暦年間(1688~1764)のものである。
こんな風に板状に薄いので、「角柱」というより「板碑」といった方がよいのかもしれない。
なお、このタイプでは近代のように側面に文字を彫り込むことはなく、
戒名、俗名、没年・享年などの碑文すべてが正面だけに彫り込まれている。
そして、偶然見つけたのがこれ。

これの頭頂部はややぎこちなく、かまぼこ型と駒形の中間のように見える。
この墓石の年代は、宝暦11年(1761年)である。
また、下の写真は“宝暦”のひとつ前の年号“寛延3年”のものだが、これもかまぼこ型と駒形の中間のように思える。

【寛延3】
碑文はすべて正面に彫り込まれている。
しかし、宝暦12年でもまだ駒形の墓石もある。

しかもこの墓石は、このタイプにしては珍しく側面に没年が刻まれている。
ということで、どうやら寛延から宝暦の年代にかけて、駒形板碑からかまぼこ型角柱に変化していったようである。
そして、それまで正面にのみ文字が彫り込まれていたものが、かまぼこ型以降、側面にも文字が彫り込まれるようになっていくようである。
この時期、世の中、あるいは宗教界で何か変革があったのだろうか・・・。
それはそれとして、
さらに時代を遡ると、もっと薄い板碑型があるそうで、
鎌倉時代(特に武将)に多く造られたそうだ。
残念ながら、当地区の共同墓地ではそのようなに古い墓石は見られない。
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上の写真のように、角柱型の竿石で頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びたタイプが標準形だろうと紹介したが、
では、それ以前はどうだろうか。


こんな風にこれ以降のものに比べて奥行がもっと薄く、てっぺんがかまぼこ型ではなく、三角形(将棋の駒のような形)が多いようだ(以下「駒形」称す)。
地区の共同墓地では、このタイプの墓石が最も古く、元禄~宝暦年間(1688~1764)のものである。
こんな風に板状に薄いので、「角柱」というより「板碑」といった方がよいのかもしれない。
なお、このタイプでは近代のように側面に文字を彫り込むことはなく、
戒名、俗名、没年・享年などの碑文すべてが正面だけに彫り込まれている。
そして、偶然見つけたのがこれ。

これの頭頂部はややぎこちなく、かまぼこ型と駒形の中間のように見える。
この墓石の年代は、宝暦11年(1761年)である。
また、下の写真は“宝暦”のひとつ前の年号“寛延3年”のものだが、これもかまぼこ型と駒形の中間のように思える。

【寛延3】
碑文はすべて正面に彫り込まれている。
しかし、宝暦12年でもまだ駒形の墓石もある。

しかもこの墓石は、このタイプにしては珍しく側面に没年が刻まれている。
ということで、どうやら寛延から宝暦の年代にかけて、駒形板碑からかまぼこ型角柱に変化していったようである。
そして、それまで正面にのみ文字が彫り込まれていたものが、かまぼこ型以降、側面にも文字が彫り込まれるようになっていくようである。
この時期、世の中、あるいは宗教界で何か変革があったのだろうか・・・。

それはそれとして、
さらに時代を遡ると、もっと薄い板碑型があるそうで、
鎌倉時代(特に武将)に多く造られたそうだ。
残念ながら、当地区の共同墓地ではそのようなに古い墓石は見られない。


