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かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

お墓調査 その9:角柱の前は板碑

2011-08-25 14:40:01 | 田舎の歴史
前回、江戸後期から明治中期にかけては、


上の写真のように、角柱型の竿石で頭頂部がかまぼこ型に丸みを帯びたタイプが標準形だろうと紹介したが、
では、それ以前はどうだろうか。





こんな風にこれ以降のものに比べて奥行がもっと薄く、てっぺんがかまぼこ型ではなく、三角形(将棋の駒のような形)が多いようだ(以下「駒形」称す)。
地区の共同墓地では、このタイプの墓石が最も古く、元禄~宝暦年間(1688~1764)のものである。
こんな風に板状に薄いので、「角柱」というより「板碑」といった方がよいのかもしれない。
なお、このタイプでは近代のように側面に文字を彫り込むことはなく、
戒名、俗名、没年・享年などの碑文すべてが正面だけに彫り込まれている。

そして、偶然見つけたのがこれ。


これの頭頂部はややぎこちなく、かまぼこ型と駒形の中間のように見える。
この墓石の年代は、宝暦11年(1761年)である。
また、下の写真は“宝暦”のひとつ前の年号“寛延3年”のものだが、これもかまぼこ型と駒形の中間のように思える。


   【寛延3】
碑文はすべて正面に彫り込まれている。

しかし、宝暦12年でもまだ駒形の墓石もある。


しかもこの墓石は、このタイプにしては珍しく側面に没年が刻まれている。

ということで、どうやら寛延から宝暦の年代にかけて、駒形板碑からかまぼこ型角柱に変化していったようである。
そして、それまで正面にのみ文字が彫り込まれていたものが、かまぼこ型以降、側面にも文字が彫り込まれるようになっていくようである。
この時期、世の中、あるいは宗教界で何か変革があったのだろうか・・・。
 
それはそれとして、
さらに時代を遡ると、もっと薄い板碑型があるそうで、
鎌倉時代(特に武将)に多く造られたそうだ。
残念ながら、当地区の共同墓地ではそのようなに古い墓石は見られない。


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お墓調査 その8:額縁加工

2011-08-19 14:10:28 | 田舎の歴史
近代の「角柱型」墓石では、下の写真のように竿石表面が平面のものが多い。



これが最も見慣れたスタイルであるが、
正面に額縁加工(位牌に擬した形の額縁の輪郭)を施したものも時々見られる。



この方が手間がかかるだろうし、風格があるように思える。

ところが、明治・江戸後期の墓石をみると、額縁加工タイプが圧倒的に多い。





この写真はそれぞれ明治後期と明治末期の墓石である。

これがもう少し時代を遡って、明治初期あるいは江戸時代では、

こんな風に、左右の幅に比べ奥行(前後の厚み)がやや薄い(水平断面が長方形)のが多い。
そして、竿石頭頂部が現代のものと大きく異なり、かまぼこ型に丸みを帯びたもの(「丸兜」というのだろうか?)が圧倒的に多い。

もう少し時代を遡ると、頭頂部は同じであるが、奥行きがさらに薄いものが多い。



     
なぜこういう形状変化が起こったのかはわからない。



このように、江戸後期から明治中期にかけては、正面の戒名部分は額縁加工・頭頂部はかまぼこ型、というのが標準形のようである。


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お墓調査 その7:もう少し夫婦墓をみる

2011-08-10 12:14:32 | 田舎の歴史
前回、夫婦墓を紹介しましたが、
奥さんに先立たれて、後妻をもらった場合はどうするのだろうか・・・
心配になるところです。(私だけか?)

調べてみると、この場合の戒名の刻み方は、正面向かって右側に夫の戒名、真ん中が先妻の戒名、左側が後妻の戒名の順で刻まれるそうで、
真ん中に夫の名前を刻んではいけないのだそうだ。
とはいえ、後妻をもらうかどうかはわからないわけで、
奥さんが亡くなって墓石を造る場合、左側のスペースの空け方が難しいのではなかろうか。
それとも、奥方を亡くした時点で旦那が墓石を作るということは、「再婚はしないぞ!」ということになるのだろうか。

残念ながら、地区の共同墓地では3名の戒名が刻まれた墓石は見かけていないので、
是非見てみたいものだ。

と思っていたら、
その後、見つけた! 

この場所は、もう誰もお参りする人はいないようで、草木が繁茂し荒れている。


敷地を仕切る塀もない。
で、草を刈って、心静かにみてみると、
右側面には3人の没年が刻まれている。


明治40年12月23日、明治38年3月21日、明治44年9月26日
「えっ?」 
7年間で3人が亡くなっている。
それぞれの死亡年月が誰なのかわからないが、旦那、最初の奥さん、後妻さんにしては、少し変である・・・、

ということで、反対の左側面を見てみると、


俗名は「長太良、ツヨ、フジエ」で、男1名、女2名になっており一見夫婦かと思えるのだが、
その上に刻まれた享年はどう見ても、2才、2才、4才としか読めないのだ。
どうやら再婚した夫婦墓ではなさそうだ。

改めて正面の戒名を見てみると、「○○信士・○○信女」ではなく、
「○○子・○○女・○○女」であった。


気の毒なことに、3人の子供を幼くして立て続けに亡くされたようだ。
さらに、その後わかったのだが、この戒名は単に「子・女・女」ではなく、
その上の一文字を合わせて、「孩子(がいし)・孩女(がいにょ)」という位号のようで、
「童子・童女」と同じように、幼い子供につけられるようだ。
なるほど、3名とも同じ漢字「孩」がつけられている。

ということで、これまでのところ3名の戒名が刻まれた夫婦墓石は見ていないのだが、
ふたつ並んだこちらの墓石は、先妻と後妻の墓石のようだ。



右が大正4年に37才で亡くなられた先妻で、
左が昭和19年に59才で亡くなられた後妻さんのようである。
それぞれ「○○妻テル」、「○○室トリ」とあり、旦那の名前(○○)が同じなのだ。
余談ではあるが、「妻」と「室」をなぜ使い分けたのであろうか?
墓石を見ていると、「妻」という表記より「室」という表記が圧倒的に多いのだが・・。

余談ついでにもうひとつ、
墓石に刻まれた女性の名前を見ていると、
江戸末期から明治時代(あるいは大正)に生まれた方は、すべてカタカナである。
しかも、ほとんどが二文字。
そして、江戸時代に亡くなられた方の名前は、ひらがなが基本のようである。
男の名前はすべて漢字が使われているのに、女性の漢字名は皆無である。
(ごくまれに、「○子」などと「子」の字だけ漢字が使われているケースはある。)
おそらく男尊女卑のなせる業ではなかろうか。


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お墓調査 その6:夫婦墓をみる

2011-08-09 12:14:16 | 田舎の歴史
近年の墓石は、「○○家之墓」というものが圧倒的に多い。
これは合理化だろうと思うのだが、
少し古い墓石では(昭和前半頃まで?)、基本的に個人墓のようである。
だから一つの墓敷地にたくさんの墓石が並ぶことになる。



そんな中、チョイ合理化なのか、深い絆なのか、一つの墓石に夫婦の戒名が刻まれているものも多くみられる。
例えば、「○○居士・○○大姉」とか「○○信士・○○信女」といった戒名の連名である。





ところが疑問に思うのは、こういった夫婦墓は誰が・いつ造るのであろうか? 
次代を引き継いだ家長が造ったのであろうか?

夫婦の戒名が連名の場合には、正面右に旦那、左に奥方の戒名が刻まれ、
右側面に旦那、左側面に奥方の俗名・死亡日・享年などが刻まれている。
ということは、先に亡くなった方は墓石ができず、相方もなくなってから墓石ができたのだろうか?
それとも、どちらかが先に亡くなった時点で墓石を作って、片方に戒名を入れ、その後相方が亡くなった時に、もう片方に戒名を入れて完成するのだろうか?

どうやら、夫婦墓の場合は、どちらかが先に亡くなった時点で墓石を作る場合もあるようで、その時点では生きている相方の方は空欄にしておくようだ。
いずれにしても、後を継いだ者が完成させることにはなるのであろう。
ところが時々、旦那および奥方の名前はあるが、どちらかの死亡日・享年が刻まれていないものがある。



この墓石はちゃんと夫婦の戒名が刻まれ、右側面に旦那の死亡年月日・享年が刻まれている。
ところが、左側面をみると(写真)、奥方の俗名は刻まれているものの、死亡年月日・享年がない。
おそらく、旦那が先に亡くなった時点で墓石を作ったままになっているのではなかろうか。

では、その時点ではまだ生きている相方の戒名がなぜ刻まれているのか?

おそらく生前戒名なのだろう。
生前戒名というと、現在では珍しいように思えるのだが、戒名は本来、生前に授かるのだそうだ。
一方、こちらも同じような夫婦墓であり、


右側面に旦那の死亡年月日・俗名・享年がくっきり刻まれている。


しかし、左側面をみると、奥方の俗名はくっきり・堂々と刻まれているものの、
死亡年月日・享年の彫りが明らかに浅い。


旦那は大正6年、奥方は昭和4年となっているので、
おそらく、旦那が亡くなった時点で墓石を造って、奥方の戒名・俗名もその時に彫り込み、
その後、奥方が亡くなってから、奥方の没年月日と享年を追加したのではないかと思われる。

そして、これはどうだろう。


正面には旦那の戒名しか刻まれていないが、右側面を見ると2つの年代が刻まれている。
真ん中に「慶応4年・・・」、その左に「明治40年・・・」とある。
が、これはバランスからいって、明らかに「明治40年・・・」は後から追加したものだと思える。

そして、左側面をみると、


こちらも、旦那の俗名は真ん中に大きく・堂々と刻まれているが(享年48才)、奥方の名前は、その左の空いたスペースに無理やり追加した(享年80才)、という風情で文字は小さくバランスが悪い。
これなどは、正面に旦那の戒名しかないので、旦那が亡くなった時点では、旦那の個人墓という予定だったのだろうが、奥方が亡くなった後急きょ奥方の名前も追加したといったところだろうか。
そうせざるを得なかった何か、後継者に切羽詰まった事情があったのではなかろうか?
そして、気の毒に奥方の戒名はどこにも見当たらない。
おっと! いけない。 
墓石を見ながら、個人家庭の私的な事情にまで踏み込みそうになってしまった。


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お墓調査 その5:ちょっと変わったスリン

2011-07-29 13:45:05 | 田舎の歴史
前回は、蓮華からスリンへの変遷を年代を追って紹介したが、
その形状の変遷とは別と思われるスリンがある。





これらは、スリンになにやら模様が刻まれている。
残念ながら、何をデザインしているのかわからない。

こんなデザインもある。

ツル系の植物だろうか?

そして、これもユニークであるが、何を模しているのかさっぱりわからない。 


蓮華とは思えない。

最後はこれ!


両側が渦巻きになっており、浪のようでもある。
個人的には結構気に入っているのだが、何を表しているのかがわからない。

ところで、昨日夕方のTVニュースで“お墓レスキュー隊”の活動を報じていた。
3月の大震災で倒れたり、流されたりした墓石を、復旧するというもので、
ニュース自体とは関係ないのだが、個人的に興味深かったのは、
基本的には当地区の墓石と同じようなものが多いようだったが、
竿石の形状(特に頭頂部)や使われた岩石が、当地区では見られないようなものがあったことだ。
地方色があって面白そうだ。


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お墓調査 その4:蓮華からスリンへの変遷

2011-07-27 15:38:38 | 田舎の歴史
竿石と上台石との間にある「スリン台」が、「蓮華台」を簡略化したものだということは前々回書いた。
スリン台の四隅にある“とんがり”が“蓮華”を究極に擬した形ではなかろうか、と思うのだが、本当のところはわからない。
ならば、蓮華からスリンへどのように変化していったのであろうか?


これは江戸時代後期の蓮華台である。

地区の共同墓地を見ていったところ、文政・天保(1818~1830年)頃から、竿石の下に蓮華台を作るようになったようだ。
もっとも、それ以前のものにも蓮華台があったが、移転などで紛失してしまった可能性は否定できないが・・。
とはいえ、この蓮華台は、それ以降明治時代の終わり頃ないしは大正初期までほとんどデザインを変えていない。


【明治44年】

ところが大正4年なると、下の写真のような形状のものが登場する。


蓮華台の上半分(竿石直下)は四角(板状の直方体)になり、下半分(猫足台の直上)にかすかに“蓮華”の形・名残が見てとれる。
このありようを見た時、蓮華からスリンへの移行が理解できたように思う。 
そして、蓮華からスリンへと移り変わっていくのとほぼ時を同じくして、材質が砂岩から花崗岩に交代していくようだ。


とはいえ、同じく大正7年のものでもまだ完全な蓮華もある。


ということは、大正4年~7年ころは、蓮華台からスリン台への過渡期・混在期だったのだろう。

そして、大正10年になると こうなる。


こうなると、“蓮華”の形状は読み取れず、
現代の「スリン」に近くなっている。
しかし、今の「スリン」と異なるのは、直方体部分の四隅に“とんがり”がほとんどなく、
下側にわずかにとんがりがある程度である。
これは、四隅の“蓮華”の形状のみを残したように見える。
また、大正10年ではスリンの斜め部分が膨らんでいるが、
大正13年のものは、逆に細くなってくる。


そして、昭和になってからも基本的な形状は引き継がれるようだが、スリンの直方体部分が薄くなってくる。


そして、下側にほんの少しとんがりがある。

昭和14年になると、上下ほぼ均一に少しとんがってくるが、まだ控えめである。

【昭和14年】

そして、昭和20年代後半になると、四隅は上下に完全にとんがってくる。

【昭和28年】

こうして、昭和年代後半になると益々とんがりが強調されてくる。

【昭和44年】

こうなってくると、台石だって黙っちゃいない。 
こちらもとんがってくるのである。


はてさて、今後どんな進化をとげるのであろうか? 

※ここで紹介した墓石の年代は、昭和14年以降のものは建立された年が刻まれているが、
それ以前の墓石は、亡くなった方の死亡年しか刻まれていないので、正確にはそれが建立された年代かどうかは不明であることをお断りしておきます。


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お墓調査 その3:猫足を考える

2011-07-22 15:30:00 | 田舎の歴史
墓石には、竿石と上台石の間にある蓮華台やスリンの他に、もう一つ特徴的な造作がある。
それは、蓮華やスリンの下に足のついた台座があるタイプだ。





これは「猫足台」というようである(お膳の足のようなもの)。
なるほど猫の足に似てなくはない。


蓮華台やスリン台がなく、竿石が直接猫足台にのっているのもある。


ゴージャス猫足 

渦巻きがみごとである。

猫足ではなく、唯一別の形の足もあった。


これなど、お膳の足によく似ているような。

「蓮華」あるいは「スリン」とセットになっている「猫足」を見ていると、
「猫足」が下に位置しているのが多い、というかこれが基本だと思えるのだが、
「ん?」と思ったのが これ。


猫足と蓮華が逆ではないだろうか?
地衣類のつき方が違っており、猫足と蓮華の岩石の種類が明らかに異なる。
上下逆にすると、竿石と蓮華が同質の岩石であり、すっきりして見える。

同じような間違いではなかろうかと思われる墓石が他にもいくつか見られた。


これなどは、竿石・猫足・スリン(蓮華を模したもの)、そして台石と同じ岩石でできており、
組み立てた全体の形状が、上から下へと末広がりになっており、すっきりしているようにもみえるが、
きっと、組み立て方を間違えていると思う。

このような間違いは、おそらくお墓移転や敷地の造成などの際起こったものと思われる。
いったん墓石を解体して仮置きし、墓石セットを再度組み上げる時に、蓮華と猫足を上下逆に積んでしまった、ということではなかろうか・・? と推測している。
それにしても、プロの石材屋が組み上げたのならそのような間違いはしないと思うのだが・・・
それとも逆にする意図が何かあったのだろうか?

そして、こんなのもある。


蓮華台が2つ重ねられているのだ。
 これもミステイクであろう。

蓮華台と猫足台は、竿石と同質の岩石でできているのが多いけれど(同時期に作ればそうなるはず)、
既に示したように、竿石・蓮華台が砂岩で、猫足台・台石が花崗岩というパターンがある。


このパターンは、竿石が明治・大正に作られたものに多くみられる。
これはおそらく、もともとは猫足台がなかったのだけれど、後に台石と猫足を追加作成して組み立てたものではなかろうかと思われる(その方が見栄えが良い、あるいは隣近所がそうする(=流行)のでまねた・・などの理由)。

では、猫足はいつごろからできたのだろうか?
と、見ていると、
ごく一部江戸時代末期のものにも見られたが、どうやら明治の後半頃の墓石から猫足が本格的に登場してくるようである。
猫足があるとなんだか品があるように思えるのだが、
猫足は地震に弱いので(台石との接触面積が小さい)近年は敬遠されているそうだ。
確かに地区の墓石を見ていると、猫足台は明治後半から昭和40年代頃までのものに多く見られるが、昭和50年建立の墓石を最後に、それ以降の墓石には猫足台が見られない。

ちなみに、昭和40年~50年頃は、猫足とそうでないタイプが混在している。
猫足は昭和40年代に入り、上記理由からしだいに廃れていったようだ。
現に、石材店のHPを覗いても猫足タイプは見られない。


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お墓調査 その2:より高く

2011-07-20 17:01:59 | 田舎の歴史
さて、一般的な和型の墓石は“角柱型”の三段あるいは四段とはいえ、近代の墓石のほとんどは竿石と上台石との間にもさまざまに加工された石が組まれており、より高くそびえている。



これは、「スリン台(布団台)」というものだそうで、この部分にもいくつかのバリエーションがある。
ちなみに「スリン台」は「蓮華台」を簡略化したのだそうだ。

最近の墓石には「スリン台」が圧倒的に多く、「蓮華台」そのものはほとんど見られないようだが、
かつての墓石はこんな風であり、何だか優雅な佇まいを感じる。

   【明治2年】


   【弘化2年】

それが時代の流れとともに、「蓮華台」から「スリン」へと変化(進化?)していったようだ。

下の写真のように、スリン単独のものもあるが、


最近のものは、テーブル状のスリンの下が一度くびれて、その下にもうひとつでっぱりがあるものが多い。
その場合、そのでっぱりが角ばったタイプ(板状の直方体)と、

   【角ばったタイプ】

丸みを帯びたタイプがある。

   【丸みを帯びたタイプ】

丸みを帯びたタイプが多いようで、そこに家紋が入っているケースがある。


角と丸で何か意味があるのだろうか?

一度廃れたかに思える蓮華台だが、
最近のものでは、上台石にも蓮華があしらわれたダブル蓮華の豪華版もある。




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お墓調査 その1

2011-07-12 16:24:33 | 田舎の歴史
地区の共同墓地はどうなっているのだろうか?
どこそこの家の墓はどこだろうか?
あの墓はどこんちだろうか?
 という、他愛もないことから始めた墓地調査を大雑把には一通り終えた。

共同墓地は町の所有地であり、各家は町から借地して墓を建造しているわけで、
その区画の借地権者を調べるのが主目的で、併せて古そうな墓石があればその年代をチェックするというほどの調査だ。
とりあえずこれを一次調査として、個別の墓石・石仏などについてはまだまだ眼が届いていないので、
現在、ひとつひとつの墓石と向きあってもう少し詳しくやり始めているところだ。




【墓地航空写真の区画割 ※クリックで拡大】
(数字は当方が勝手に入れた単なる整理上の番号。赤は放置あるいは改葬)

そういうわけで、このところ天気が良ければ墓地へ行きたくなるのである(お参りもしないのに)。

いやー 個性というのか 時代の流れというのか、墓石は面白い。
当地区の共同墓地は、集落のさらに標高の高いところにあり、見晴らしは良い。
であるのだが、共同墓地の墓石は揃って正面が西を向いている。


せっかく東~南側に宇和海が広がっており、そちらを向いた方が見晴らしが良いのに・・
と思うのだけれど、先人はそういう選択肢はとらなかったようだ。
西方はやはり『死』の世界ということだろうか。
それでも、西を向かず宇和海を向いている墓石が1つか2つあった。
みんなと違う方向を向くという、その意図が気になるところではある。

さて、普段はほとんど気にもかけずに墓参りしているのだが、
墓石の形状や石材には時代の変遷があってなかなか面白そうである。
近年の墓石は、ほとんどが「○○家之墓」というもので、戦死した軍人さん以降個人墓は見られないように思える。
それらのもっとも基本的・一般的な和型の墓石は、“角柱型”と呼ばれるもので、三段あるいは四段になっている。
このタイプはもちろん個人墓にも見られ、江戸時代中頃から作られるようになったそうだ。





この墓石の形は位牌を模しているのだそうだ。
上から「竿石」、「上台石」、「下台石(四段の場合は中台石)」で構成されている(さらに、一番下に「芝台(あるいは下台石)」と呼ばれる敷石がある場合が多い)。
それぞれに意味があるようだが、ここでは割愛。

墓石はというと、現代のものはご存じの御影石(花崗岩)がポピュラーだが、
時代を遡ると、明治前半・江戸時代のものは台座が花崗岩でも、竿石はほとんどが砂岩でできていることが多い。



しかも現代のものに比べて小型である。
近代的な加工道具がない時代において、硬い花崗岩をいろいろ加工するのは難しかったのであろう。
台座は後の時代に追加した可能性もある。
そして、明治の中ごろになると花崗岩の竿石が登場してくるようであり、大正以降はほとんどが花崗岩となる。


   【大正3年】

もっとも、江戸時代でも立派な花崗岩の竿石はまれにある。
きっと地位の高いお方の墓であろうと思われる。
一般人にとって、花崗岩の墓石は“高嶺の花”であったに違いない(と思う)。
このほか、まれにではあるが、台座だけでなく竿石もコンクリートでできているものがあった。




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石仏・石塔見て歩き(18:水神さまではなかろうか)

2011-04-24 13:47:53 | 田舎の歴史
我が地区に簡易水道施設が整備されたのは昭和30年。
それまでは、井戸水(共同井戸)や谷川の水に頼っていた。
ここは、その当時湧水を溜めていた共同井戸のひとつであろう。



ここに溜まった水は、長い間集落住民の貴重な生活用水となっていたはずだが、
いまはその役目を終え、水が枯れ、草が繁茂して荒れている。 
傍らにお地蔵さんがいる。




蓮華台座にのり、手には宝珠を持っておられる。
きっとこの水源をずっと見守り続けてきたのだろうから、
水神様ではなかろうか と思うのだが、
正面に刻まれた文字が風化で読み取れなくなっている。 
さらに二つに割れている。


側面には、「天保元年」(1830年)と刻まれている。
さらに続けて、「卯 三・・」とあり、「卯年三月」のことと思われる。
ところが、手持ちの「日本史辞典」を開いてみると、
天保に改元されたのは12月10日とあるので、元年に3月はありえない。
しかも「卯」とある。
「天保元年」は寅年であり、卯年はその翌年である。
ということは、これは正確には「天保2年」ということだろうか?

まあ、そんなことであったとしても、このお地蔵さんの存在が傷つくわけではない。
この共同井戸は、簡易水道が整備されてからもしばらくはその役目を存分に発揮していたのである。

井戸の近くには、今は草や蔓に覆われたこの小屋が残る。 


ここにはポンプが設置され、共同井戸に溜まった水をポンプアップして、
各家庭に水道水を供給してきたのだ。

小屋の中をのぞいてみると、


今もそのポンプ設備が残されている。
共同井戸とポンプは、平成8年度に野村ダムから農業用水と上水道水が供給されるまで活躍したはずである。
今はその役目を終え、残された石仏を訪れる人も もういないだろう。

時の流れか・・・・


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