かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

石仏・石塔見て歩き(15:回国供養塔)

2009-07-01 11:32:51 | 田舎の歴史


言われてみれば、子供の頃この峠に行った時、なにか石碑があったような、くらいの記憶はかすかにありました。
2mあまりの大きな1枚岩に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国満願供養塔」と刻まれており、その文字は今でもくっきりと残っています。



回国供養とは、釈迦如来が亡くなってから56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて私たち衆生を救ってくれるその時まで、大乗妙典と呼ばれる法華経を保存する目的でわが国の66ヶ所の霊場に納経して回ることをいう」のだそうです。
想像を絶します。

その全国66箇国の霊場に法華経を書写して納めた人々のことを、“六十六部回国聖”あるいは“六部(ろくぶ)”と呼んでいたそうです。
私なんぞ、とても出来そうにない、とんでもなく篤深い方々でしょうか。
そして、彼らの残した“回国供養塔”は全国に残っているようです。

すごいです!

この石碑には建立された日付も見られます。


文政11年(1828年)3月21日とあります。
3月21日というのは、空海(弘法大師)の命日のようです(没年西暦835年)。
  
右側には、「本願主 当浦 林平」とあります。


「はやし たいら」さんではないでしょう。
この当時は、一般人は苗字がないので、たぶん「りんぺい」さんなのでしょう。
そして、「当浦」とあるので、きっと当名取地区の方だったと思われます。
苗字がないのでわかりませんが、この方の子孫はどの家になるのだろうか?
なんて・・・

その他石碑には、世話人、施主、大工、立合人などの名前も刻まれています。
驚くことに、全国各地の方が立合人などに名前を連ねています。


江戸、信州、濃州、作州、紀州、駿州、豊州、備前、甲州、越前、日州、筑後、當国、長崎、筑前 と。

この石碑の建つ場所は、「ウラゴエ」と呼ばれる峠で、当地区のはずれ?(端っこ?)にあります。
ウラゴエ=浦越 なのでしょう。
昔、集落を「浦」と称していた頃、浦と浦の境界、すなわち名取浦と三崎浦の境界にある峠、その峠を越えることは、“浦”を越えるという意味で、「ウラゴエ」なのだろうと思います。

子供の頃は、この峠を通って三崎のお祭りなどにへ行っておりました。
そして、多くの高校生たちにとって、この峠が通学路だったでしょうし・・、
季節は忘れましたが、年に1回ここで祭りもありました。
たしか、ちょっとした広場もありました。

そんなにぎわったこともある道も今では藪になり、倒木などもあり、今ではこの峠を通る人はいないようです。

【峠を越えるかつての街道です】

かつて、半島を縦断する幹道の要所であっただろうと思われるこの峠も、
今は草ボーボー、雑木ニョキニョキとなりました。 
村人たち、いやいや 当時この半島を往来した多くの人々の夢の跡 でしょうか。
今は、ひたすらひっそりとしております。
それにしても、こんな大きな石を(きっと)人力でこの峠に運んできただろうエネルギーって、
なんなのでしょう。 
すごいです! 


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