サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10502「脳内ニューヨーク」★★★★★★★★☆☆

2010年11月13日 | 座布団シネマ:な行

『マルコヴィッチの穴』『エターナル・サンシャイン』の脚本家、チャーリー・カウフマンが監督デビューを果たすエンターテインメント・ムービー。人生に行き詰った人気劇作家が、自分の人生を再生するため、壮大な芸術プロジェクトの構想を思いつく。主人公をオスカー俳優フィリップ・シーモア・ホフマンが好演する。無限の想像力をかき立てられる予測不能な脚本や、斬新な映像などチャーリー監督の非凡なセンスと独創性に着目だ。[もっと詳しく]

「砂上の楼閣」に仮構されている、「人生」というものの曖昧さ。

フィリップ・シーモア・ホフマン演じる演出家ケイデンはいったいいつから迷宮にさまよっていたのか。
秋分の朝、妻であるアデル(キャサリン・キーナー)の電話の声がする。
知人の女性と電話ばかりしている。
幼い娘オリーブの金切り声も聞こえる。
ケイデンはふらふらしながら洗面所に行き、歯を磨いているが、いきなり蛇口が壊れて暴れだし、額から血を出すことになる。
ケイデンは整形外科、眼科、神経科などをたらいまわしにされるが、どうも調子がおかしい。
そのあたりから、ケイデンは迷宮をさまようことになったという解釈もなりたつのだろうが、観客にはよくわからない。



観客は、ケイデンの舞台稽古につきあう。
「サラリーマンの死」をめぐる演劇であるようだ。
心を寄せている切符切りの女ヘイゼル(サマンサ・モートン)や女優のクレア(ミシェル・ウィリアム)がつきまとう。
ケイデンはせわしくぼやきながら、自分の体調や家族のすれ違いや演劇の評判をひたすら気にしている。
ニューヨークを舞台にしたインテリ男のスノッブな生活をスケッチしたウディ・アレンの諧謔的な映画を連想してしまったりもする。
それにしてもケイデンは、メタボ体質で、身なりも雑駁なものだ。
実人生と、演劇の空間が、複雑に重層してくるような作品かもしれないな、と予想したりする。



しかし、その予想は裏切られることになる。
ある日、天才に対する業績評価として著名なマッカッサー・フェロー賞受賞の知らせが届く。
このアワードは実際に存在するものであり、現在までに800人ぐらいが受賞し、各人に50万$が与えられるそうだ。
ケイデンはその金を使って、大きな倉庫を購入し、そこで延々とニューヨークの断面を再現したかのような巨大なセットをつくり、脚本を次々と書き換えながら、「もうひとつの世界」の創出に淫していくようになる。
そして気がついたら、年を食っただろう役者たちが、「もう20年も練習しているが、一体いつ公演は始まるんだい?」と問いただすようになる。
このあたりになると、主要な役柄は交換可能となり、演劇世界と実人生と妄想空間が混濁してくる。
脚本の入れ子構造を必死で追いかけるのだが間に合わない。
整合性をわざと崩しているからだ。



ケイデンは何度か「方向性が見えたぞ!」と叫ぶ。
そう叫んで、倉庫内の擬似ニューヨークに方向転換をしたり、位相交換をしたりするのだが、それもまた曖昧になる。
『マルコヴィッチの穴』(99年)や『エターナル・サンシャイン』(04年)で、一癖も二癖もある脚本をものしたチャーリー・カウフマンの初監督映画だから、一筋縄ではいかないなとは思っていたが、誰だってこの矛盾・置換・遅延・循環といった構成につきあっていると、これは<夢>の世界の暗喩かなと思いたくなる。
しかしカウフマン自身は、「これは夢の世界ではない」とわざわざ断りを入れている。



ある意味でこの世界を喩えるならば、もちろん経験したことはないのだが、「認知症」のある種の症状は、こういうかたちで紡ぎだされるのではないか、と思えてくる。
全体と部分、前後のつながり、役割の設定が、曖昧化してくる。
記憶と妄想が独特のつながり方をして、局面だけの意味づけがとれれば、時空の矛盾はたいしたことがないようにも現れる。
たとえば、もし先祖がえりをするように、「認知症」の人間が、無垢な赤ん坊の世界に退行していくという話をしばしば聞かされる。
あるいは、自分が楽しかった世界ばかりを、繰り返し繰り返し巡回するというような話も。
ケイデンの脳内で生起している物語は、そうした世界と類似しているようにも受け取ることが出来そうだ。



結局のところ、額に大怪我をした時点で病院に運ばれ、あとは「死」に隣り合ったケイデンが脳内で紡いだ観念=妄想であったのかもしれない。
「人生は一幕の舞台である」・・・そしてその舞台を形作るのは(意味づけるのは)、脳内の幻想にしか過ぎない。
「私は誰?ここはどこ?」・・・認知症の人間たちは、どこかで物事の関連付けが曖昧になってくる。
けれども、それは「症例」の問題ではなく、もともと脳の働きというものは、複雑な電気信号の経絡をたどりながら、了解と受容を不都合な部分を排除しながらかろうじて成立させているのに過ぎないのであって、案外僕たちも、「脳内」でご都合主義の物語を組み立てながら、日々をやり過ごしているだけかもしれない。
カウフマンは、僕たちが「砂上の楼閣」の上に危うく存在していることを、鋭敏に感じているのではないだろうか。





 


 


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4 コメント

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すごいなあ (sakurai)
2010-11-14 11:24:55
この映画をそこまで語れるのですねえ。
私、カウフマンを理解するのはあきらめました。
今までもいくつか見てきましたが、あたしにゃ無理ってことがわかりました。
多分、他人に見せるために作ってるのではない・・などとも思います。究極の自己満で作ってるんじゃないかなあ、と。
だったらきっと幸せでしょうね。
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sakuraiさん (kimion20002000)
2010-11-14 14:56:09
こんにちは。

>この映画をそこまで語れるのですねえ。

はは。僕も途中から、話の筋道を追うのは諦めましたけどね。
舞台の世界では、ひとり何役も兼ねたり、入れ替わったりという、修辞の独特の文法がありますよね。
カウフマンの「脚本家」という世界に対する「自己韜晦」かもしれません。
自己満には、違いありませんけど(笑)

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弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2011-02-10 16:28:21
本作の原点とも言えそうな「アダプテーション」のほうがご機嫌になれますが、こちらのほうが断然ややこしくて(笑)違った面白さがありますね。

解らない映画の9割くらいは退屈しますが、1割くらいは解らないなりに楽しめるものがありますね。
 古くはベルイマンの「ペルソナ」とか、アラン・レネの「去年マリエンバートで」とか。
 比較的新しいところでは、ピーター・グリーナウェイの作品群がそんな感じ。「英国式庭園殺人事件」なんか解りそうで解らない隔靴掻痒と解らない快感が入り混じって面白く感じられた作品でした。間違っても他人にはお勧めできませんが。

チャーリー・カウフマンは1割のほうに入るという意味で、久しぶりに面白い作家が現れたと思います。
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オカピーさん (kimion20002000)
2011-02-10 22:47:47
こんにちは。
そうですね。
こういう映画を人に勧めるときには、相手を選ばなきゃいけないですね。
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