何気ない風景とひとり言

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名古屋城の守り神「尾張四観音」

2020年07月25日 | ひとり言

【愛知・名古屋市&あま市】昨年(2019年)、名古屋を中心に愛知県の寺社をめぐったが、その中に「尾張四観音」と称される四寺院が含まれている。 「尾張四観音」は、徳川家康が名古屋城を築城する際、城の守り神として、鬼門の方角にある尾張国の四つの寺院を鎮護として定められたとされる。
名古屋市街を囲むように鎮座する四つの寺院は、、北東に位置する龍泉寺(龍泉寺観音)、南西に位置する観音寺(荒子観音)、南東に位置する笠覆寺(笠寺観音)、北西に位置する甚目寺(甚目寺観音)で、いずれも平安時代以前に創建された古刹だ。 ご本尊はいずれも平安時代造立とされる観音菩薩で、観音様の慈悲をもとめる民衆の信仰を集めた。
「尾張四観音」には趣のある楼門(仁王門)と多宝塔(または三重塔)が建ち、荘厳な堂宇が建ち並ぶ伽藍は歴史を感じさせる。

■龍泉寺(龍泉寺観音)  <名古屋城の北東/守山区>

延暦年間(782~806)、天台宗開祖の伝教大師最澄による創建と伝える。 江戸時代宝暦五年(1755)に記された古文書「龍泉寺記」では、「延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、龍の住む多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。
一方、弘法大師空海も熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺の地中に埋納して熱田神宮の奥の院としたことから、龍泉寺は伝教・弘法両大師の開基ともされている。 龍泉寺は庄内川を望む高台にあって濃尾平野を一望できるため、尾張の歴史上古くから軍事施設として使われた。 宗旨は天台宗で、本尊は馬頭観音菩薩像。

△入母屋造杮葺の仁王門(重文)....入母屋造柿葺の楼門、江戸時代慶長二年(1607)の建造

△入母屋造桟瓦葺で妻入の本堂....明治四十四年(1911)の再建 (前本堂は明治三十九(1906)の放火で焼失)

△本瓦葺の多宝塔....安土桃山時代の慶長三年(1598)から復興開始 (前多宝塔は長久手合戦で焼失)

■観音寺(荒子観音)  <名古屋城の南西/中川区>

奈良時代の天平元年(729)、修験道の僧・泰澄(山岳修験者)により草創され、泰澄の弟子の僧・自性により堂宇が整えられたとされる。 その後、興廃を繰り返したが詳細不明。
戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で、豊臣政権の五大老の一人だった前田利家が、天正四年(1576)に修造して再建し、自身の菩提寺とした。 加賀藩主前田氏の祖である前田利家は、荒子の土豪の家に生まれ、北陸に所領を与えられるまで観音寺近くに荒子城を構えていた。 利家が荒子城主の時、荒廃していた観音寺を修造した。 宗旨は天台宗で、本尊は聖観音菩薩像。

△入母屋造本瓦葺の山門(仁王門)....大正五年(1926)の建立で、延宝四年(1671)造像の仁王像は最大の円空仏

△入母屋造本瓦葺の本堂....安土桃山時代の天正四年(1576)、前田利家により再建

△檜皮葺の多宝塔(重文)....戦国時代の天文五年(1536)の再建....名古屋市内で現存する最古の建物

■笠覆寺(笠寺観音)  <名古屋城の南東/南区>

奈良時代の天平五年(733)(一部古文書では天平八年(736))、僧・禅光(善光)が浜に漂着した流木(霊木)で十一面観音菩薩像を刻み、像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりとされる。その後約二百年の歳月が流れて荒廃、お堂が壊れて本尊の観音像が風雨に晒された。
平安時代の延長八年(930)、公卿の藤原兼平がこの地に復興し、寺号を笠覆寺に改めた。宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は十一面観音像。

△入母屋造本瓦葺の仁王門....江戸時代後期文政三年(1820)の建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....江戸時代宝暦十三年(1763)の建造

△銅板葺の多宝塔....江戸時代初期の正保年間(1644~1648)の建立

■甚目寺(甚目寺観音) <名古屋城の北西/あま市>

創建及び開山は不詳だが、境内から奈良時代前期作とみられる古瓦が出土したことから、甚目寺は白鳳時代には存在していたようだ。 祀られている聖観音像は、百済から渡来したもので、敏達天皇十四年(585)(敏達天皇は記紀で第30代)、排仏を主張した物部守屋らの手によって海中に投じられた三尊仏の内の一尊とされる。 (他の二尊は、阿弥陀像が信州善光寺、勢至菩薩像は九州大宰府の安楽寺に安置)
大化の改新を断行した天智天皇(第38代)の病気平癒祈祷が縁で勅願寺となったのを契機に、大寺院へと発展した。 7世紀中頃に天智天皇より宝鏡が下賜され、続いて天武天皇七年(679)(天武天皇は記紀で第40代)、天武天皇から「鳳凰山」の額を勅賜した。 平安時代前期の仁寿三年(853)に堂宇が整えられたが、その後一時衰退した。
平安後期の康和五年(1103)、藤原連長や僧智能、大江重房らによって七堂伽藍が再興されて隆盛を極めたが、天治元年(1124)の大地震で甚大な被害を受けた。 鎌倉時代に入って建仁元年(1201)、聖観上人が勧進により再興をはかり、七堂伽藍が整えられた。 宗旨は真言宗(智山派)。 通称「甚目寺観音」と呼ばれている。

△入母屋造柿葺の南大門(仁王門、重文)....鎌倉時代建久七年(1196)の再建で、聖観上人寺再興の折、源頼朝の命で奉行梶原景時が建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....平成四年(1992)の再建....創建時の本堂は安土桃山時代天正十三年(1585)の天正地震で被害を受けて再建したが、明治六年(1873)に焼失した、後は仮本堂に....

△本瓦葺の三重塔(重文)....江戸初期の寛永四年(1627)の再建
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