
【京都・木津川市】日本最大の大きさとされる地蔵石仏。
鎌倉時代徳治三年(1308)の造立で、地蔵堂の上棟と同時期に完成した。 奈良時代の天平十二年(740)に高僧・行基によって創建された泉橋寺の門前に露座する坐像の地蔵石仏。
泉橋寺は、泉川(現木津川)に架けられた泉大橋の橋守寺院で、平城京と恭仁宮とを繋ぐ交通の便を図るため泉大橋が架けられた時に建立された。
鎌倉後期造立の地蔵石仏は、泉大橋が度重なる洪水で流され、その度に渡し船で渡河する人々を守護するため般若寺の僧・真円上人により発願され、13年の歳月を掛けて造られた。 「山城大仏」と呼ばれる丈六の地蔵石仏は、像高約4.6mで、礎石の遺構から荘厳な地蔵堂に鎮座していたとみられる。
室町時代の「応仁の乱」の戦火(大内政弘の軍勢により)によって地蔵堂が焼失し、地蔵石仏も大きく損傷して露座となったが、約200年後の江戸時代元禄年間に頭部と両腕が補われて現在に至る。
雨が降る中、JR木津駅から傘を差して泉橋寺に向かったが、長い泉大橋の上で強い横風を受けながら歩くのに難儀した。 泉橋寺の門前に立ち止まり、壇上積の基壇にどっしりと露座する地蔵石仏を眺める。 遠目には分からないが、近づくと体躯に焼け爛れた痕跡がはっきり見て取れ、凄まじい戦火に遭ったことが窺える。 雨中での拝観だったが、穏やかなお顔で露座する最大の地蔵石仏を参拝していて心が和んだ。

壇上積の基壇上に露座する大きな坐像の地蔵石仏

地蔵石仏は鎌倉時代徳治三年(1308)の造立....永仁三年(1295)から石材の切り出しが始まり、13年後の地蔵堂上棟の時期に完成した

室町時代の文明三年(1471)、応仁の乱の戦火で地蔵堂が焼かれ、石仏も損傷を受けて露座に

約200年後の元禄時代に頭部と両腕が補われた....右手に錫杖、左手に宝珠を持つ


丈六の地蔵石仏の像高は4.56mで、体躯に焼け爛れた痕跡があり、凄まじい戦火を受けたことを伝えている

蓮華座に整然と並べられた小さな薄肉彫りの石仏群....二尊石龕仏や舟形光背地蔵石仏などが鎮座

基壇上の地蔵堂跡に礎石の遺構が並ぶ