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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『ハートブレイク・リッジ』(1986)

2022年03月17日 | open

Heartbreak Ridge (1986) Official Trailer
- Clint Eastwood Drama Movie HD


『ハートブレイク・リッジ』(1986年)
は、アメリカ海兵隊の新兵たちと
教官の生活を描いた作品だった。
現実にあったグレナダ作戦の時の
戦闘シーンはかなり映画風味だ
が、クリント・イーストウッド
のジャングルハットの被り方等
は堂に入ってる。
映画作品自体は超感動という作
ではないが、なかなかの佳作だ。
単純に面白いし、軍隊物語を
描いている。
そして、ちょうどこの新兵たち
の若者は私と同世代なのだが、
日本では私たちの世代は「新人類」
と呼ばれて、古き時代の風習を
壊す野放図なならず者で何を
考えているのか分からない世代、
と年上の人たちから評されてい
た。
だが、実はアメリカ合衆国に
おいても同時期にそうした傾向
が若者たちの新世代には広がっ
ていた事がよく分かる。
その世相を描いているし、ジェネ
レーションギャップに悩みながら
も教官が若者たちに大切なものを
教えていくグローイングストーリー
としてまとめられている。

アメリカ映画にはポケットビリヤード
のシーンが良く出てくる。
西部劇にも現代劇にも。
この作品にも、年上の歴戦の勇士
である教官の言いつけをまったく
きかずに、さぼって兵員クラブで
玉突きばかりしているところに
クリント教官が乗り込んでくる
シーンがある。
そして、なんと、キューを叩き
折ってしまう。
遊んでばかりいやがって、と。
ひで~、なにも折らなくとも(笑)。


しかし、要するに、体と精神を
鍛えるスポーツとしてプールが
あったのではない事を示す。
それはプールゲームが発祥の
アメリカ合衆国にあってさえも
だ。
そうした「遊び・娯楽」でしか
ない対象としてプールという
撞球が描かれているのだ。
米国でもこの時期には、プールは
スポーツとしては定着しておらず、
バーベキューと同じ娯楽遊興で
しかなく、選手権はあっても、
それをスポーツと認識してプレー
している人間はごく一部だった。
大抵はオアソビか博打に利用する
ためにキューを握って玉突きを
していた。
そうした事が映画からも読み
取れる。

あか~ん、と思った事がある。

1980年代のビリヤード入門解説
漫画での事。
漫画でビリヤードを解説する
のだが、その中でお話として
素敵な先輩の女性撞球師に
憧れる主人公の女の子が、実は
大好きなプールバーの経営者の
息子の男性と女性先輩が恋仲
ではと疑う。
そして、自分で腕を磨いて先輩
に勝負を挑む。
勝ったほうが彼と付き合う、
それを賭ける、と。
なんで賭けるんやねん(笑)
それ、いっちゃんあかんやつ(笑)
人間を勝手に賭けている。
オハナシは少女漫画作家が描いた
お花畑なのだが、肝心な根幹で、
「ビリヤード=賭け事」という
捉え方を自問して疑問視する
問題意識が皆無なのよね。
スポーツを否定する極めて社会
意識
の低さを作者が露呈させて
いる。

あか~ん、というやつ。
1980年代は、日本でも一般的に
玉突きなどはその程度の認識
だった。
金など賭けない勝負のほうが
ずっと精神的にも厳しいのに。
映画『ハスラー』(1961)で人々
に製作者が問いかけた「人に
とって大切なものは何か」と
いう事を深く斟酌する人間は
日本人では1980年代には殆ど
見かけなかった。玉を突く人間
たちには。


賭ける?金賭けて玉を突く?
負けたら100%命取られる、と
いう
大博打だったらどうする?
『ディアハンター』のロシアン
ルーレットの博打のように。
やらないでしょう?玉突きの
掛け玉人たちは。

結局、それが何百万だろうと
何千万の玉突きゲームだろうと、
それらは「はした金」のダイム
ゲーム
なんだよ。
それに勝った負けた、銭取った
取られた云々で一喜一憂する。
どんどん、それって、人間として
『ハスラー』で規定していた
「ルーザー」
一直線なんだよね。
賭け玉今でもやってる連中は、
一刻も早く目覚めないと。
大切な事に。
『カイジ』の主催者と同じ種族に
なっちまうぜ。
スポーツを博打に利用するのは
あかんねん。

 


ビリヤード場百景 ~現役の老舗 淡路亭~

2022年03月17日 | open


東京千代田区外神田二丁目に
ある
淡路亭。ビリヤード場と
しては1965年にオープン。
台製作所と
しては1948年から
の営業。

JR御茶ノ水駅から神田川(外
堀)
を挟んで向こう側の川岸
に見える。







(クリックで拡大/PC)

聖橋からすぐそば。御茶ノ水
駅からは
500メートルほどだ。




ここは古い。この店舗は今年
2022年でで57年目になる。
明治時代に学士会の会館が
できて、1899年(明治32年)
には玉突室があったが、それ
後に淡路亭に機能が引き継
がれ
たという。学士会とは旧
帝大を
中心に構成される日本
初の同窓
会の組織で、文化的
な交流と
親睦を図る団体。戦
前から撞球
やゴルフやガーデ
ンパーティー
(バーベキュー)
などを帝大
卒業生たちは催し
ていた。大抵
は政財界の要職
にいる。


江戸城の外濠の役をした神田川
は、かつては清流だった。

明治3年、1870年の神田川。
江戸時代も神田川の風景はこれ
だろう。


ドラマ『仁-JIN-』で、南方先生
がウワ~ッと転落したのはこの
あたり。右手が現在の文京区。
左手が現在の千代田区。

明治期の神田川の同じあたり。

写真に見える橋は通路ではなく、
神田川の水を水道として使う
ための掛樋である。文京区の
関から汲み上げて日本橋一帯
に送水していたが大正時代に
廃止。神田上水は江戸期から
武家屋敷はじめ江戸庶民の

飲料水として整備されていた。
江戸には武家政権時代から水道
があったのである。
江戸の人口はパリを抜いて世界
であり、間違いなく世界一の
都会だった。

戦前の神田川。この川沿いの
一角のみは21世紀の現在もそ
の様子を
残している。淡路亭
の場所の建物も見える。岸壁
の階段の向こう側三軒目の左
の建物。神田松住町という町
名だったようだ。



同じ場所の現代。戦前の川に
降りる階段は岸壁の「くの字」
の窪みのやや向こうにあった。
淡路亭前の護岸部の出っ張りは
戦前からの遺物のようだ。
(比較参照上掲写真)



現在の神田川。


有名なフォークグループ「か
ぐや姫」
の大ヒット曲『神田
川』はこの神田川を
歌った曲
だが、この地名でいう神田界
隈の流域の神田川の事
を歌っ
ているのではない。

あれは作詞家喜多條忠さん
が早
大学の学生だった
頃の実話を
しており、
早稲田界隈を流れる
神田
の風景を描写したものだ。

現在の新宿区西早稲田の近辺
の風景
をあの曲では歌っている。

神田川。新宿区西早稲田付近。


こんな掘割のような汚い川が
今の神田川だ。
否、『神田川』で歌われた神田
川なのである。
そして、この近辺は私の学生時
にも「三畳一間の小さな下宿」
多くあった。四畳半の部屋な
どは
贅沢、六畳だと金持ち君だ
った。

なお、風呂付のアパートなどは
一切存在しない。集合住宅型で
ない戸建て民家形式の下宿で
さえ
も内風呂は存在せず、大家
さんで
さえも銭湯に行っていた。
それが大抵の東京の暮らしだっ
た。私の学生時代の一番最初の
下宿も戸建て貸しの部屋ごとに

鍵のある物件だった。風呂なし。
私が生まれた上目黒の家も、戸
て貸しだったが風呂は無く、
近所
の目黒川沿いの銭湯に行っ
ていた。

よく覚えている。フルーツ牛乳
美味しかった(笑)。
目黒川という川も、この神田川
風景がそっくりだ。

淡路亭さんは、都内屈指の本格
「玉屋」だ。
ただ、通勤の帰宅経路上、交通
便からアクセスに難があった
で、あまり通い詰める事は無
かっ
た。
テーブルコンディションは最高
だ。

ただし、ポケット台は穴がガバ
ガバ。あしげく通った武蔵小山
(住所は品川区)の1.6穴幅
台の
ポケット1台・スリー1台の古い
店とはかなり違った。


「健全な店」である。本社はJR
神田駅
前の神田須田町だが、
リペア等の工房はこの店舗の

階の外神田二丁目の外堀通り
沿い
のこの建物内にある。家
具製造も
謳っているが、日本
玉台の台などを
手掛けていた
からかもしれない。

ある意味、日本のブランズウ
イッ
ク社の東京版ようなもの。
大阪
なら日勝亭で、大阪玉台
の製造
はじめ、現存する日本
最古の撞球
業者となっている。
日本撞球の歴史
は大阪日勝亭
と東京淡路亭にあり。
1980年代、キューのリペア
を頼む
なら腕の良い淡路亭さ
ん、台の
設置とメンテを頼む
なら淡路亭
さん、という感じ
だった。
私も試合のブレイクで折った
シャ
フトの代替シャフト製造
とリング
移植は淡路亭さんに
お願いした。

今では貴重な赤木ソリッド材
最高の動きをするが、80年
代の昔は、その
材でさえも松
竹梅とあったら梅
程度のラン
クの一般的な製品だった。



よくあった街の鉄火場然とは
して
いない明るい雰囲気の店
だった。
その空気は西欧の紳士淑女文
化の代表のキャロム台が主体
であった事と、文教学術地区
という知的なエリアの立地か
らだからだろうが、
今は米式
博打玉だったプール台のほう
が多いようだ。

ビリヤードとはキャロムの事。

ポケットはプールである。基
博打に利用する玉突きがプ
ール。

踏み外す心得違いをすると、
賭け
玉博打が玉撞き上達法か
と勘違い
する大たわけの間抜
けを地で行く
事になる。現代
でもたわけは多くいる。
競技の本物の真剣勝負には金
は絡まない
し、賭け事は無関
係だ。



 


映画『美しい暦』(1963年)

2022年03月17日 | open

学生時代 ☆ ペギー葉山(1964)




謄写版でガリ版刷りしている
女子高生は吉永小百合だ。
考えてみると、謄写版という
のは1980年頃までは大学の
学生たちも使用していた。
簡易な印刷物はすべてガリ版
刷りだ。
かつてはロウ原紙を鉄下敷き
に置いて鉄筆でカリカリと
書いていた(「切る」と呼ぶ)。
その後、1970年代末期頃から
ボール
ペン原紙という新物が
出てきたが、細かい
文字や絵
などはそれでは切れない。

なので、私は最後まで鉄筆派
だった。

学生が街頭や学内で配るビラや
サークルなどの研究誌や広報
などもすべてガリ版刷りの時代。
謄写版の原理は版画と同じだ。
今ではTシャツのプリントに
同じ原理でシルク印刷が使わ
れている。

この謄写版印刷というものは、
藁半紙を
一枚ずつ取る助手が
必要だが、
謄写版にゴムを着
けて、標準
スプリングだけで
なくパタン
と上げたら強いテン
ションで
跳ね上がるように改造
して、
一人で押さえ擦りしなが
ら一人で印刷
されたビラを取る
ことも可能
だ。
そして、謄写版での活動家の
ビラ刷りというのは、二人いた
ら、まるで
輪転機のように速い。
入学したばかりの後輩は目を

丸めていた。
大抵はビラは「ひとしめ=1000枚」
を擦って全部配るのであるが、
それ
もアッという間に擦り上げ
る。文字は読みやすく四角いゲバ
字にするのは必須だ。
そのフォントは実は戦前の日本軍

や戦争賛美プロパガンダで使われ
ていたフォントが1960年代末期に
新左翼によって復活されたものだ。
刷る事は俗語で「スット」と呼ん
だ。原稿切りはカット、刷る
のは
スットである。

そうした単純作業の事をムスケル
と業界活動家用語では呼んだ。


1980年ごろから簡易な写真転写
印刷が登場してそれを使う学生
も増え始めた。東大や筑波大な
どの学生はその先駆者だった。
1970年代では末期でも駅頭で配る
党派の正式ビラは輪転機での印刷
物だったが、まだ学内の学生戦線
レベル
ではガリ版が一般的だった。
東大と筑波の先取りに驚いた。
行動的な面での先進性をその頃
も10年前からも持っていた明大・
中大の連中
でさえもまだ学内撒き
用はガリ版印刷
だったし、他の
大学でもガリ版
が主軸王道だった。
ただし、学園祭などでの印刷物
は印刷屋に依頼した正式印刷物
だった。

謄写版は文教世界で多く活用され、
小学校から高校大学まで利用され
た。
小学生の時の教師が発行する
通信、クラスで出すクラス通信
などもすべてガリ版刷り
だった。

女子高生の吉永小百合最高だ。
かつてこれを言ったら「いいけ
ど、どうにも代々木というのが
なんともうけつけない」と学生
仲間たちは言っていた。
おいらゴリゴリだったが、そう
いうのは関係ねえずらよ(笑)。

そういうのに拘泥していたら、
反ソを謳っていたのにソ連み
たいになっちゃうだよな、その
うちに。実際になっちまって
旧「新」左翼になってもうたが。
まあ、日本の新左翼なんてのは、
反ソ反米を言ってた割りには、
やたらアメリカナイズされて
いたけどな~。あとちょい任侠
主義的な硬派な面もあって、
高倉健のヤクザ映画が嫌いな
新左翼は皆無だった。一人も
いない。代々木日共あたりは
大嫌いな事だろう、たぶん。
よいこちゃんぶりっこだから。
知らんけど。
んでも、女優さんは可愛いもん
は可愛い。
これが素直に正解。地球を救う。


このタイプのチャリが欲しい。
ブレーキが金属レバーの。


タネ板=ベニア

2022年03月17日 | open

これがビリヤードキューで使うタネ
板=ベニアである。

これを張り合わせてハギのミゾに
合わせた形にして貼り付けて旋盤
で削る。
ハギとは手の指を広げて左右で
指を爪方向から合わせたような
木工技法の事。インレイでの埋め
込みではない。


ハギのベニアの配色は作者のセンス
による。




これは特殊な合わせを削りにより
出したハギで、日本語ではタケノコ
と呼ばれる。心出しが出ていない
と、レインボーの円形の大きさと
高さが揃わない。

ハギの作り方。




この工法と機械彫りでの埋め込
みのインレイ工法はまるで作り
方が異なる。
この本ハギをビタリと頭を揃え
て作るのは難しい。アダムでさ
え頭が不揃いだったり、ベニア
のトップがピタリと相似形で
合わさっていなかったりする。
カスタムメーカーは芸術品の
ようなハギを作る。ポール・
モッティなどは繊細なピタリと
した合わせの腕を見せる。
MezzやショーンやJossは
ハギは作らない。すべてインレ
イのハギ風象嵌だ。
(ショーンは別枠モデルで本ハギ
あり)

このようにプロングの先端が丸
まっているキューは全て嵌め板
=インレイ工法だ。


CNCフライス盤だろうとパンタ
グラフマシンだろうと、ビット
の先の身幅分は丸くなる。
そしてインレイは垂直に下ろし
て嵌め込む。
直線カット部分に直線タネを斜め
に接着させて本体を削って円筒に
成形する本ハギ工法とはまるで
やり方が異なる。
両者は全く別の作り方になる。

同じショーンでも、インレイでは
ない本ハギ合わせの本格工法で
作られたスペシャルモデル。
剣先は尖っている。
本ハギは物理的にインレイ物とは
作り方の次元が異なる。別物。


ステイン

2022年03月17日 | open


アダム社は米国ゴルフ用品雄キャ
ロウェイ・ゴルフ・カンパニーの副
社長リチャード・ヘルムステッター
によりアダムカスタム社として設立
された。1970年だ。
日本で製造されたビリヤードキュー
は、米国内ブランドとして主として
アメリカで販売された。
アダムキューが日本国内で販売開始
されたのは、アダムとして独立した
後の1986年からだ。

それ以前から、アダムのキューは
ステインという染め処理をキュー
に施していた。米国ではメウチ等
が得意にしていた技法だ。
アダムのステインはほんわりとし
ていて何とも味がある。

ただし、リビルドコンバージョン
の再構築などで丁寧に染めを剥が
すと、そこにはバーズアイ・カー
ー・タイガー・キルト等のメイ
プルの木目が浮き上がる。
良材にあえてステインを施してい
るのがアダムの特徴だ。






アダムから独立した三木Mezzも
アダムと同じ専用旋盤を使ってい
るようだ。5本一気削りの特別製
の旋盤。
スタンダード路線のアダムに対し
て、Mezzは最新鋭イメージのキ
ューを作る。
他国内メーカーは、淡路亭、石垣、
アダーチ等があったが、今は国産
マスプロメーカーはアダムと三木
に絞られている。
私は石垣とアダーチのプールキュー
も実際に持っているが、かなり
アビリティは高い。
しかし、現在、両社は廃業。
さらに昔は日本玉台や大阪玉台も
独自にキューを作っていた。東京
神田の淡路亭も。今は独自には
キューは作っていない。
私は注文製作の淡路亭シャフト
を持っているが、かなり良質だ。
東京下町の職人さんが削ったの
だろうなあ。

ビリヤードのキューのマスプロ
物は、メーカーごとに作風があ
るのが面白い。
Mezzのステインはアダムのよう
にふんわりしておらず、色が濃い。
染めというより塗装ステインの
ような雰囲気だ。塗装というより
も刀の差し込みヌグイをかけすぎ
のような感じ。
アダムはふわりと刃取りを活かす
ようなステインを見せる。


ステインを剥がしたアダムのフォア
アーム。


アダム86-9Sのフォアと淡路亭の
シャフト。リングは移植した。


新設のハンドルとリアスリーブと
デルリン®︎のキューエンド。


ハンドルとスリーブ内部にはスタ
ビライズドウッドの芯をセンター
コアとしてネジ切り通しで仕込む
構造にしてある。撞き味は極めて
ソリッド。スネークやアイアンウ
ッドやエボニーに比べて柔らかめ
のブラジリアンローズウッドが、
まるで適正配置されたエボニーの
キューのような撞き味に変身した。
中央付近のメイプルによりエボニー
のみのキューのソリッド感一辺倒
が適正化で希釈され、絶妙の独特
撞き味を出す事に成功した。
コンバージョン手法の成功の例。
打球音は甲高い澄んだ音がする。

ワケギのヌタ

2022年03月17日 | open



広島県三原市名産のワケギをヌタ
にする。
ベラボウにウマい。


象牙と樹脂

2022年03月17日 | open



ビリヤードキューの先角の材料と
しては、天然素材の象牙と人工
樹脂でどちらにも長短がある。
耐久性、耐候性は樹脂のほうが
断然高いが、象牙を超える音と
撞き味をもたらす人工樹脂は未だ
地球上には登場していない。

芯持ち象牙。



スコア

2022年03月17日 | open
 
かつて、本稽古の時は記録を厳密
につけていた。
ボウラードは技術よりも集中力
を養う練習。ボラでは上手くは
なりません。50分間完全に集中
するための訓練。
上達は、決まり玉をきちんと
さまざまなショットで撞ける
訓練をしたほうがいいす。
ボウラードをやるのは別目的。
むしろ、精神的なアプローチ
を反省するためのものかな。