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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

バカな政治屋のバカ丸出し

2022年03月08日 | open






バカ丸出し。
安全地帯でよく言うわー。
ピーチクパーチク政治屋たちは。
政治屋なんてこんなのばっかよ。





プーチン暗殺部隊

2022年03月08日 | open
 








ヒトラーでさえも暗殺できなかった
のだから、難しいのではないかなぁ。
ビン・ラディンやカダフィーの時と
はかなり違うと思いますよ。
ソ連、いや、ロシアのトップなの
だから。
暗殺予防の回路はとんでもなく複雑
で緻密に練り上げて構築されてい
ると思うけどね。
 
今の事態を止めるには「ロシア
内部」で「何か」が起きない限り
止まらないだろうが、アメリカ
が下手打つと、第三次世界大戦
になるよ、確実に。それが早まる。
で、今は主要国は核を持っている
から、そうなったら地球は終わり。
 
だが、日本の平和ボケのバカ政治
屋が寝ぼけた平和論言ったりして
るのとは関係なく、軍事情勢は
進んで行く。
中国はじめブラジル等のソ連、
いやロシア賛同国も分岐現出して
来た。
本当に地球滅亡がかかる第三次
世界大戦になるかも。
ウクライナ難民は170万人を超え、
第二次世界大戦以降初めてヨー
ロッパで最大規模の戦時難民が
発生している。
 
ロシアの侵略を完全停止させる
には、戦争でロシアを敗北させ
て非武装化させるか、あるいは
ロシア内部から侵略を阻止する
何らかの動きがないと無理だ。
それと、ウクライナの亡命政権
樹立もそろそろ見越さないと
ならない時期だろう。
露中+賛同諸国と旧西側諸国に
割れての世界大戦になるような
気がする。

そして、世界大戦になった場合、
現在もなお広島長崎に核爆弾を
落としながら一つも反省する
どころか「戦争を終結させる
ための正義だった」とする米国
に世界大戦の主導権を渡す訳に
はいかない。
いくら日本が米国のポチである
敗戦従属国であろうとも、絶対
に世界戦争のイニシアチブを
米国などに渡してはダメだ。
広島長崎の原爆投下を正義だと
するような国なのだから。
その視点を持たない政治屋ばかり
が日本国内ではピーチクパーチク
手前勝手な持論を展開して「評論」
している。
 
第二次大戦の時と決定的に異なる
のは、第二次世界大戦は、あれは
帝国主義国の国家間戦争、つまり
侵略勢力の泥棒合戦だった事だ。
今回のは、例えるならば、ナチス
の単独侵略のようなもの。
たとえ、それが米国が約束破り
したNATO加盟国のライン引き
が根本原因であっても。ロシアの
侵略は侵略である事を否定でき
ない。
 
今や、国際法も何もかもすっ飛ば
しの状態になっている。
実は、ロシアは北朝鮮と同質だっ
たという化けの皮が剥がれた訳。
ロシアというよりプーチンだね。
ゴルバチョフはこうではなかった
もの。
どうした、プーチン。
何に取り憑かれた。
アドルフの霊でも乗り移ったのか。
 
つーか、俺が1970年の小4の時に
書いた脚本で全校学芸会の舞台で
演じられた舞台劇のシナリオみた
いなのだけはやめてよね。
あれのラストシーンは、核によっ
て白いカーテンが地球に下ろされ
て、全てが無くなるラストだった。
そんなのだけは、絶対に避けなけ
ればならない。
では、ならばどうするか、だ。
人類は一人の悪人によって、それ
が試されている。
 
 
 
 
 
 
 

会員制ビリヤード場

2022年03月08日 | open





















私たちが2005年〜2010年に運営
していた撞球会クラブハウスにシ
ステムがよく似ている。
こういうのは気鋭の前向きでいい
感じですね。
私たちは月額10,000円でやって
いました。
設立時の創立メンバーは出資金を
別途5万円。
後半からは一般会員は月額使用料
だけで使えるようにした。
会員はのべで20数名まで増えた。
まあ、メンバーそれぞれが生活
形態に岐路があって、検討の結果、
クラブハウスは満5年で撤退した
のですが。

最後に残ったのは、創設メンバー
6人だったけど、運営維持はそれが
ギリギリ。
でも、結婚や転勤や子どもの進学
もあって、撞球活動を停止せざる
を得ない会員が創立メンバーに
複数出て来たので、議論の結果、
クラブハウスは閉じた。
2〜3人では競技台2台置いて更に
寛ぎ空間もある46畳の賃貸物件を
維持できないので。
ただ、開設の2005年当時は全国
でもそうした独自ビリヤードルー
ムを持つ団体は珍しく、そうした
撞球倶楽部は殆どありませんでし
た。
いろいろ大変だったけど、一つの
モデルケースとしては成功したと
思います。
一番の収穫は、創設メンバー各人
が「力を合わせれば夢も実現で
きるじゃん」という実体験ができ
た事。
これが一番大きかった。
その後の各人の企業での活躍や、
家庭人としての頑張りに繋がって
いるかと思います。
とても充実した5年間でした。
準備予備段階入れると、仲間たち
で計画練って活動したのは6年半
だけど、よい時間が過ぎました。


ケースラックとワゴン、喫茶店用
テーブル椅子セットは私が提供。
各人がいろいろ持ち寄って設営
した。最高の空間でした。

撞球心

2022年03月08日 | open




それにつけても、撞球心というか
ビリヤード・マインド、撞球人の
心の世界をよく描いているのが
このキューのデザインだと思いま
すよ。
このメウチキューを赤坂の店で
手に取って観た時には、唸った。
これ、撞球人の心象風景そのもの
だ、と。

撞球自体は一ヶ所でやるものだけ
ど、結局、撞球人というのは旅人
なんだよね。
どんどん撞き場を求めて走り続け
る。
各地の撞球場では、初めて行って
一人撞きしていると、必ずその店
の常連さんや店主が相撞きを申し
入れてくれて、お手合わせを願う。
これは、東京横浜はもとより、
大坂でも中四国でも九州でもそう。
プロもごく自然に声をかけてくれ
て一緒に玉を撞く。

そして、日本の場合、全国的な
日本人としての習慣が撞球界に
はある。
日本人は礼儀正しく、初対面の
撞球人に対しては、年齢に関係
なくきちんとした敬語を使う。
それは、撞球人である以前に、
日本人であり、撞球をする紳士
であるからだ。
そして、東京・横浜・埼玉のみ
ならず、大坂、中四国、九州で
も必ず言われる事がある。
これは、まず私でなくとも撞球
者は経験しているだろう。
それは、プロ、アマ問わず言う。
対戦のお手合わせが終わった後
に言う。
「普段は、どちらで撞いてらっしゃ
るのですか?」と。
撞球場は道場のようなものなので、
日本ではそのような風習があるの
だろう。
「卒爾ながら、いずれのご家中か」
という感じだろう。

これ、アメリカとかフィリピンに
はまるで存在しないみたい。
フィリピンなどは露天の鉄火場の
ようなのが玉突きなので、西欧や
明治以降の日本のような空気は
皆無だ。

日本人は言う。
お手合わせを願ったその後に。
後で言うのは昔の武士とは違う
が、相撞きの前には必ず本名を
きちんと名乗る。
「○○と申します。宜しくお願
いします」と頭を下げて。
ヘーイ、カマーン!なんてのは
絶対に無い。

アメリカン・プールを撞こうとも、
ヨーロピアン・キャロムを撞こう
とも、日本人はニッポンジンら
しく礼儀正しく撞くのが心地よい
と感じる。
というか、撞球に限った事では
ないのだけど。そうした心根は。
ビリヤードでは、調子ぶっくら
こいてのヒャッハー!アチョー!
なんてのは絶対に無い。日本人は。
ビンセント、お前は何だそれ(笑

たとえ、正装でかしこまらなくて
も、普段着でやる日常の中でも、
紳士淑女のスポーツが撞球だ。
無論、正式な試合では正装規定が
ある。ドレスフォームがレギュレ
ーションで定められているからだ。
しかし、大切な事は、着物ではな
く、その中身。
撞球はそれを人に教える。


店のテイスト 〜プール・ホール〜

2022年03月08日 | open

これはアメリカの店。
典型的なプール・ホールだ。

日本の広島県には国道2号線沿い
に、上の画像のアメリカの店に
似た雰囲気の店構えのビリヤー
ド場がある。

20年ほど前のオープンしたての
にふらりと入ってみた。
オーナーは私の一つ歳下だが、
彼は大学時代を都内で過ごした
経験を持つ。
異様にウマが合った。玉だけでな
く、文芸や法律論や社会時事に
おいても。
その人とかなり昵懇になり、この
店にハマった。通った。
自分の住む地元の町にビリヤード
の店が全滅した時、仲間を集めて
倶楽部ハウスを持ったが、その時、
この店のオーナーが古い国産プー
ルテーブルを1台我々の倶楽部に
プレゼントしてくれた。
ありがたい事だ。
もう1台はブランズウィックの
ゴールドクラウン3を中古で買っ
て設置した。
設営には大坂から専門業者の方
が来てくれたが、手配等で尽力
してくれたのも、この店の初代
オーナーだった。
今は進学塾のセンセやってる。

やがて、この店は経営権はその
ままで、店主が代わった。
3代目の店主ともかなり馴染んだ
し、気心通じた。
その後、何代か店主が代わった。
店の造りはそのままで、外からの
景観は変わらない。
ちょいとしたアメリカンテイスト
だ。
元々はどこかの会社の事務所の建
だったようだ。
建物が何だか平べったいの(笑

プール・ホールは、ビルの中にあ
店に行くのも良いが、こうした
ぽつんと一軒家がビリヤード場と
いうのも、なかなか味があって
感じが良い。
今はもう大坂にしかないような、
ウルトラオールドビンテージの
撞球場はほんの少し前まで、西日
本でもあちこちにあった。
そして、一つの共通点がある。
それは、入り口のドアが床屋(理容
店の東京方言。西日本の言い方で
散髪屋)にそっくりなのだ。古い
床屋に。

これは床屋さん。
古い日本のビリヤード場は、これ
に造りがそっくりだった。


現存する古い床屋さん。
どう見ても古い撞球館だ。













いや、似ている。
愛媛県西条にあった古いビリヤー
ド屋も、広島市内の舟入にあった
玉屋もこんな感じの建物だった。
今は、それらだけでなく多くの古
い構えの店が廃業している。

そして、ですね。まだ似てるのは
ある。
床屋さんの椅子のビンテージ物は、
モロにビリヤード専用の高椅子に
そっくりなのよね(笑



ビリヤード場の空気

2022年03月08日 | open

































































北米のビリヤード場だ。
ビリヤード場は西部開拓時代に
登場したが、アメリカの場合、
一つ特徴がある。
それは、そこで飲食もできる店
であるという事だ。
日本の場合は、撞球場は撞球のみ
の場合が多かったが、明治の初め
はアメリカと同じく洋食屋に台が
ある店も多かった。

アメリカのプール・ホールで圧巻
はやはりニューヨークのここだっ
た。



映画『ハスラー』(1961)のロケ地
として使われた実店舗のエイムズ
だ。ホテルの2階3階が巨大ビリヤ
ード・ホールとしてテナント経営
されていた。ブロードウェイにあ
る。
ここは、珍しく、ビリヤード以外
には他の遊戯設備も飲食もさせな
い。ビリヤードのみ。日本ならば、
高田馬場のビッグボックスや飯田
橋のビリヤードジャパンのような
店だ。
日本の飯田橋は凄い店だった。
ビル7階すべて大ビリヤード場で
24時間営業。ハウスキューは石垣
のキューだった。

アメリカのプール・ホールを見て
いると気づく。
外見がレストランのようなのだ。
そして、通りに面している。
これなどは、日本にもあるビリヤ
ード場に雰囲気が似ている。
ただ、最近では、日本ではこうし
アメリカンテイストのビリヤー
ド場は少なくなって来た。
さらに、日本独自の民家改造型の
小規模店舗は絶滅寸前だ。

アメリカンテイストの店は感じが
良い。
街中の市街地繁華街にあったり、
ぽつんと街道沿いにあったりする。

これはアメリカだが、横浜のハー
バーに面してこれに似た店があっ
た。今は無い。


自宅にビリヤードテーブルを置い
人たち何人もが言う。
家に台を置くと撞かなくなる、と。
やはり、広い店も、狭い店も、店
行くから落ち着くのかも知れな
い。
確かに、馴染みの店であろうと、
ふらりと見つけた店に入るのも、
店を訪ねるからビリヤードは面白
い。
私も、できることなら、日本全国
のビリヤード場を全て漏れなく全
部訪問して踏破したいもの。そん
事をした人は多分日本には雑誌
の取材者含めていないだろうが。

撞球場は独特の空間だ。
一つ、欠点がある。
それは、時が完全に止まるのだ。
玉は動くが、時は止まる。
そんな特別な空間がビリヤード場
なのである。


撞球事始め ~撞球場面昭和残像伝~

2022年03月08日 | open



生まれて初めてビリヤードをやったのは
昭和51年1976年だった。
高1の時、ギター仲間のクラスメートに
連れられて下赤塚にあった民家のよう
な玉突屋に行った。
確か二台の狭い店だったと記憶している。
おばちゃんが一人で経営していた。
その店では、大学生のお兄さんたちが
学生服を着たまま四つ玉を撞いていた。
もう一台空いていたが、そちらでは
撞かずに待っていたので、たぶんもう
一台はポケット台だったのかも知れな
い。昔の東京ではポケットなどは撞く
人はほとんどいなかったし、ポッケ台
が置いてあるのが珍しいくらいだった。
撞球=ビリヤードといえば穴なし台で
的球に手玉を当てるキャロムの事を
指した。撞球人たちの間でもアメリ
カンポケットは「お遊び」であり、
本物の撞球はキャロムビリヤードで
ある、という意識が強くあったと
教わったのは、その初めてキューを
握った時から10年後に本格的に撞球
をやり始めた時にキャロムの師匠に
教わった。

生まれて初めて玉を撞いたのは、こん
な感じの店だった。


初めてビリヤードをやった時、店の
おばちゃんにキューの持ち方から
構え方から最初から教わった。
なんと、手玉をまともにキューで
撞けない。スーッとキュー出しして
コツンと撞くイメージができず、
棒で玉を突っつくようなことをする
のでまったく手玉の狙う撞点に当た
らない。
チョークを塗れと言われたが、チョ
ークの塗り方も分からない。
私を連れて行った同級生も、まだ
それまで1回しかやった事がないら
しく、おぼつかなかった。
待っている間、大学生のお兄さん
たちの撞き方を見ていたら、結構
豪快に思えた。応援団のような人
たち。
だが、実際に教わってやったら、
べら棒に繊細な種目だった。

その後ずっと玉撞きはせずに、
ギターとバイク三昧の高校生活
だったが、大学の時に一度だけ
やはり同級生に引っ張って行か
れて撞球場に行った。体操部の
結構有名な選手に連れられて。
そやつはなんだかプロみたいに
四つ玉がめちゃくちゃ上手かった。
その時の店は、高校生の時に
行った店とは別な店だが、やはり
おばちゃんが一人でやっていた。
その時、初めて大きな台を見た。
「こっちの大きな台は何ですか?」
とおばちゃんに聞くと、「それは
スリークッション」と言われたが
ちんぷんかんぷんだった。
種目のルールを聞いてもちんぷん
かんぷん(笑)。
そもそも四つ玉がまともにでき
ないのに、スリーの動きのルール
を言われても分かりっこない。


その学生の時に行った店でも
おばちゃんに四つ玉を教わった。
本当はあっちにある色付きのボール
の玉撞きをやりたいのになぁ、と
呟いたら、おばちゃんに「この
四つ玉ができないのにポケット
ができる訳がない」と言われた。
今考えると、やはり「まずキャロム
ありき」という思考だったのだろう。

玉撞きはそれっきりだった。
そして、社会人になった時、職場に
撞球師がいた。隠れ撞球師。
先輩のパラリーガルなのだが、ある
日、飲んだ時に昔話でその玉突きの
話をしたら、目の色を変えた。
なんでもいろいろあって封印して
いたのが玉突きだったらしい。
飲んでいる店を出て、撞球場に
連れて行かれた。
まず、撞球場でのマナーにはじまり、
プレー中の発言の礼儀を教わった。
汚い玉残しをしたら「失礼」と
相手に言う事とか、撞く台の先に
立たない事とか(ポケットでは
試合中に相手のターン時に席を
立つと失格)。
教わったのは四つ玉だった。
一から教わった。
面白いように玉が当たった。
10年前と6年前のあれは何だったの
か、と。
高田馬場のビッグボックスだった。
そんな広いビリヤード場には行った
事がなかったので、まず最初に驚い
た。
四つ玉をみっちりと半年やった。
戦前に名を馳せた選手だった上野の
肥土軍作先生にも教えを請うて
ノガミに通った。

半年毎日のように玉を撞いていると
なんとかサマにはなって来るようで
そこそこ撞けるようになっていた。
そして、念願だったポケットに
シフトした。
最初はひねりすぎで的球の軌道が
ずれるので苦労した。
四つ玉と違い、玉がすごく小さい

ので、動きも敏感だ。
四つ玉ではど真ん中を撞く事が
ほぼ無いので、とまどった。
ポケットを教えてくれる人からは、
「ひねりすぎだ」と注意された。
その人はスリーの選手で、ベルギー
にキャロムビリヤードの留学も
した人だった。だが、ポッケでも
マスワリマンだった。

そして、同じ歳の立花に会った。
プロとして駆け出しの頃。
キュー切れの方法について伝授して
くれた。あ!そうだったんだ、と
目から鱗だった。
キューは振らないのだ。キューは
投げるのである。
本当に投げたら駄目だが、つまり、
投げるようにまっすぐに振るのだ。
手でキューを握りしめずに。
ぶったまげるキュー切れが出る
ようになった。
向こうのコーナー穴前にある玉を
対角線の穴前にある手玉からの
ロング引きで入れて手玉を手前の
穴に戻し落とす事も可能になった。
なんだこれ?だった。
また、平撞きでマッセのような手玉
の動きをさせる事も可能となった。
そして、上級者に就いて共に撞く
中で要諦を学んだ。核心を。コアを。
キュー切れは短距離を動かす時
にも絶対に必要、というか撞球
の中心幹である、という事を。
師匠が「玉を突くな。撞け」と
よく言っていたのは、それだった。

立花のたっちゃんもいろんな玉
を教えて
くれた。
私のフォームが彼に似ていると
言ったのは凄腕リペアマンのバディ
藤田さんだったが、そりゃ似るだ
ろう。立花を模範としていたから。
そして、たっちゃんに「さすが
プロはすげーね」と言ったら彼は
言った。「プロもアマも関係ない
よ。同じ玉撞きだ」と。
一つまた鱗が落ちた。

パンという衝突じゃないんだよね。
押し出すような動きなのよ。
そして、キャロムもポケットも
同じなの。玉の動きの原理は。
結局は手玉をどのように意思と意志
の下に狙い通りに制御するか、と
いう球技なのよね。
撞球は奥が深い。