背理法は非常に強力な証明手段であり,現代数学の発展を根底から支えている。
それはそうなのだが,あまり背理法ばかりに頼ると手作り感が数学から損なわれ,自分は一体何をやっているんだろうと空しさを覚える瞬間もあるのかもしれない。
自身の名を冠した有名な不動点定理を背理法によって示したらしい直観主義の創始者である Brouwer は,そんな気持ちを懐いた数学者の一人だったのかもしれない。
背理法を毛嫌いする必要はないだろうが,使わなくて済むならそれに越したことはない。こう考えるのは人情というものではないかと感じる。
さて,Euclid の原論にたぶん載っているであろう,非常に有名な定理がある。いわく,素数は無限に存在する。
オリジナルの証明は背理法によるものだそうだ。
素数が有限個しかないと仮定する。それらをすべてリストアップしたものが p, q, ..., r だったとすると,これらすべてをかけたものに 1 を足して得られる数は,p, q, ..., r のいずれで割っても必ず 1 余るため,割り切れない。ところが,どんな自然数もいくつかの素数の積で表せるはずだから,これは矛盾である。■
基本的にはこんな感じの証明なわけだが,この論法の要点は,手元にあるいくつかの素数を使って新たな「素数候補」を生み出すところにある。
そう考えると,背理法のような間接証明ではなく,次のような直接証明に書き直すことができる。
手元に p, q, ..., r という,「ある素数 x 以下のすべての素数」があるとき,それらのいずれよりも大きい素数を必ず見出すことができる。実際,p, q, ..., r の積に 1 を加えたものを y とおくと,それは p, q, ..., r のいずれでも割り切れない。したがって,その新しい数自身が素数かもしれない。もしそうでないとしても,y を素因数分解したときに得られる素数 y を割り切る素数なのであるから,y を割り切れない p, q, ..., r のいずれとも異なる,したがって,それは x よりも大きい素数である。■
これは constructive mathematics というタイトルを付された本の序文に述べられていた議論であるが,ふと次のような疑問を持った。(なお,その本の立場が背理法を認めない直観主義とどういう関係にあるのか,ちゃんと読んでいないので今のところ僕には何も確かなことを言えない。)
非常に有名な例として,無理数を無理数乗したものが有理数になることはあるか,という問題に対する次のような解答がある。
a=√2 とおく。a は無理数である。
b=aa とおくと,これは実数であるから,有理数か無理数かのいずれかである。
もし b が有理数ならばこれが答えである。
もし b が無理数ならば,ba=(√2)2=2 となり,これが「無理数の無理数乗が有理数になる」具体例になる。□
この議論は Wikipedia の排中律の項目にも取り上げられている。初めて目にしたのは数年前のことで,砂田利一氏の『新版 バナッハ‐タルスキーのパラドックス』(岩波科学ライブラリー165)の巻末の「付録2 人間業と御神託」という短いエッセイである。選択公理という,これまた現代数学の超強力なツールの一つである超越的な論法を巧みに駆使した Banach-Tarski の定理も前々から興味があったが,この本もちゃんと読破したとは言えない。(こんなんばっかで我ながらだいぶ飽きてきた。いや,『ありのままの姿見せるのよ~・・・これで~いいのぉ~自分を好きなって~えぇ~♪』の精神でいくべきか。)
(余談であるが無理数の無理数乗が有理数になる例は簡単にあげることができ,それは例えば √10 の 2log102 乗である。)
直観主義や構成的数学といったものの実態は僕にはまだつかめていないが,先ほどの素数が無限にあることの直接的な証明は排中律に基づいているように思えるので,直観主義の枠を超えているのかもしれない。いや,いいのかなぁ。
★ある自然数は「素数である」か「素数でない」かのいずれかである。
素数であればそれでおしまい。
素数でなければ合成数ということだから,2つ以上の素数の積であらわせる。その因数のいずれかはすでにある素数のリストには載っていない,新しい素数である。
★印の箇所がまさに排中律に他ならない。しかし,いま議論しているのは 1 個の数 y についての議論であり,それが素数であるか否かは有限回の手続きで判定可能である。そう考えると,直観主義の「有限集合に対する排中律の適用は認める」という立場の範疇に収まっているように思える。
うーむ。なかなか話は込み入っておるな。いずれにせよ,直観主義や構成主義についてもっと詳しく知る必要があるのは間違いない。ぼちぼち勉強していくとしよう。
それはそうなのだが,あまり背理法ばかりに頼ると手作り感が数学から損なわれ,自分は一体何をやっているんだろうと空しさを覚える瞬間もあるのかもしれない。
自身の名を冠した有名な不動点定理を背理法によって示したらしい直観主義の創始者である Brouwer は,そんな気持ちを懐いた数学者の一人だったのかもしれない。
背理法を毛嫌いする必要はないだろうが,使わなくて済むならそれに越したことはない。こう考えるのは人情というものではないかと感じる。
さて,Euclid の原論にたぶん載っているであろう,非常に有名な定理がある。いわく,素数は無限に存在する。
オリジナルの証明は背理法によるものだそうだ。
素数が有限個しかないと仮定する。それらをすべてリストアップしたものが p, q, ..., r だったとすると,これらすべてをかけたものに 1 を足して得られる数は,p, q, ..., r のいずれで割っても必ず 1 余るため,割り切れない。ところが,どんな自然数もいくつかの素数の積で表せるはずだから,これは矛盾である。■
基本的にはこんな感じの証明なわけだが,この論法の要点は,手元にあるいくつかの素数を使って新たな「素数候補」を生み出すところにある。
そう考えると,背理法のような間接証明ではなく,次のような直接証明に書き直すことができる。
手元に p, q, ..., r という,「ある素数 x 以下のすべての素数」があるとき,それらのいずれよりも大きい素数を必ず見出すことができる。実際,p, q, ..., r の積に 1 を加えたものを y とおくと,それは p, q, ..., r のいずれでも割り切れない。したがって,その新しい数自身が素数かもしれない。もしそうでないとしても,y を素因数分解したときに得られる素数 y を割り切る素数なのであるから,y を割り切れない p, q, ..., r のいずれとも異なる,したがって,それは x よりも大きい素数である。■
これは constructive mathematics というタイトルを付された本の序文に述べられていた議論であるが,ふと次のような疑問を持った。(なお,その本の立場が背理法を認めない直観主義とどういう関係にあるのか,ちゃんと読んでいないので今のところ僕には何も確かなことを言えない。)
非常に有名な例として,無理数を無理数乗したものが有理数になることはあるか,という問題に対する次のような解答がある。
a=√2 とおく。a は無理数である。
b=aa とおくと,これは実数であるから,有理数か無理数かのいずれかである。
もし b が有理数ならばこれが答えである。
もし b が無理数ならば,ba=(√2)2=2 となり,これが「無理数の無理数乗が有理数になる」具体例になる。□
この議論は Wikipedia の排中律の項目にも取り上げられている。初めて目にしたのは数年前のことで,砂田利一氏の『新版 バナッハ‐タルスキーのパラドックス』(岩波科学ライブラリー165)の巻末の「付録2 人間業と御神託」という短いエッセイである。選択公理という,これまた現代数学の超強力なツールの一つである超越的な論法を巧みに駆使した Banach-Tarski の定理も前々から興味があったが,この本もちゃんと読破したとは言えない。(こんなんばっかで我ながらだいぶ飽きてきた。いや,『ありのままの姿見せるのよ~・・・これで~いいのぉ~自分を好きなって~えぇ~♪』の精神でいくべきか。)
(余談であるが無理数の無理数乗が有理数になる例は簡単にあげることができ,それは例えば √10 の 2log102 乗である。)
直観主義や構成的数学といったものの実態は僕にはまだつかめていないが,先ほどの素数が無限にあることの直接的な証明は排中律に基づいているように思えるので,直観主義の枠を超えているのかもしれない。いや,いいのかなぁ。
★ある自然数は「素数である」か「素数でない」かのいずれかである。
素数であればそれでおしまい。
素数でなければ合成数ということだから,2つ以上の素数の積であらわせる。その因数のいずれかはすでにある素数のリストには載っていない,新しい素数である。
★印の箇所がまさに排中律に他ならない。しかし,いま議論しているのは 1 個の数 y についての議論であり,それが素数であるか否かは有限回の手続きで判定可能である。そう考えると,直観主義の「有限集合に対する排中律の適用は認める」という立場の範疇に収まっているように思える。
うーむ。なかなか話は込み入っておるな。いずれにせよ,直観主義や構成主義についてもっと詳しく知る必要があるのは間違いない。ぼちぼち勉強していくとしよう。