漫画家・岩明均氏の名作『寄生獣』は僕の青春の一ページを彩る,思い出深い漫画である。
それが今年に実写映画化されることを最近知り,ついでにアニメ化まで企画されていることを知って大いに驚いた。
なぜ急に,そんなに立て続けにアニメ化だの映画化だのと取り上げられたのだろう。連載何十周年,などのアニバーサリーというわけでもなさそうなのだが。
僕は原作厨なのでアニメ化と映画化のどちらにも否定的な気分でいるのだが,ネットで公開されているPVを観ているうちに,まあ,そーゆーのもありかなぁ,と考えを改めつつある。
アニメと映画のどちらでも短いPVの中に,主人公が寄生した生き物についてネットで検索しているシーンがあったように思う。それが気になって仕方がない。
岩明氏自身がコミックスのあとがきで述べておられることだが,事件が先にありきで,それから登場人物やストーリーを考えるといった方式で『寄生獣』の物語は紡がれた。
連載当時はインターネットはほとんど普及していなかったし,ポケベルはあったがこれもそれほどメジャーではなく,携帯電話やスマホもなかった。通信手段や情報獲得手段が現在とかなり異なる状況だったため,時代設定を現在に近いものにすると,ストーリーをかなり抜本的に修正しなければならなくなるように思えて仕方がない。アニメや映画でそのあたりをどう料理しているのか,そんなところに着目して楽しむというやり方もありであろう。
この点について僕の考えを述べておく。
物語の一番初めに必要な,主人公の新一が高校生であることや家族構成といった設定,そしてある日突然寄生生物に襲われるといった設定,そして寄生生物の性質などは原作の通りとしておく。そしてその上で,携帯電話やインターネットによる通信が発達した現在ならば人々はどういった対応をするだろうかを一から考え直すべきなのである。
たとえば寄生生物のからんだ事件が起きたとしよう。現場に遭遇したものがいれば,写真や動画を撮ってネット上に公開するだろう。市民がパニックに陥らないよう,警察等の国家機関が情報統制に乗り込むだろうが,それらの網をかいかぐって必ず情報は拡散する。それも世界中に,である。そうすると,世界各地でも同様の事件が起きていないかどうかが問題になってくる。そうすると全人類が総出でそれらに対してどう対処するか,といったスケールの大きい話へと展開せざるを得ない。もっとも,寄生生物に対する各国の思惑というものがあるだろうから,表面上は各国の首脳は寄生生物に気付いていないフリをするかもしれない。そうすると平凡な一高校生である主人公にとっては,人類が寄生生物にどう対処していくのか,国家規模の取り組みなどには無縁だろうから,そういった話に触れずにストーリーを展開することは可能であろう。
ちなみに,人々が人類にとって脅威である敵と遭遇してそれと向き合うといったやや似た設定で,舞台を現代に設定してストーリーを展開するといった話はいろいろあるが,とりわけ漫画では奥浩哉氏の『GANTZ』を思い出す。
『GANTZ』では携帯電話で写メを撮る一般市民がいたり,ネットの掲示板での書き込みなどを描いたコマが頻繁に現れる。ストーリー自体に対するインターネットの影響はほとんど無いといってよいが,携帯電話やメールでの登場人物同士のやり取りは物語を進める際によく使用されている。
このように考えると,携帯電話の有無やインターネットが発達しているか否かは『寄生獣』のメインストーリーにもほとんど影響を与えないかもしれない,とも思う。
まあ,ともかく,20年前の日本を舞台にした作品を現在の日本に移し替えてリメイクするとしたらどうするか,といったなかなか面白い問題を提供してくれたわけだから,アニメ化や映画化に対しては高評価を与えてもいいかもしれない。現代社会における携帯電話やインターネットが我々の生活に及ぼしている影響とは一体どんなものなのか,これをきっかけにもう少し考えてみようと思っている。
アニメや映画とは別に,原作そのものについても僕の想いを書き綴りたい気持ちもあるが,とりあえず本稿はここで筆を擱く。
それが今年に実写映画化されることを最近知り,ついでにアニメ化まで企画されていることを知って大いに驚いた。
なぜ急に,そんなに立て続けにアニメ化だの映画化だのと取り上げられたのだろう。連載何十周年,などのアニバーサリーというわけでもなさそうなのだが。
僕は原作厨なのでアニメ化と映画化のどちらにも否定的な気分でいるのだが,ネットで公開されているPVを観ているうちに,まあ,そーゆーのもありかなぁ,と考えを改めつつある。
アニメと映画のどちらでも短いPVの中に,主人公が寄生した生き物についてネットで検索しているシーンがあったように思う。それが気になって仕方がない。
岩明氏自身がコミックスのあとがきで述べておられることだが,事件が先にありきで,それから登場人物やストーリーを考えるといった方式で『寄生獣』の物語は紡がれた。
連載当時はインターネットはほとんど普及していなかったし,ポケベルはあったがこれもそれほどメジャーではなく,携帯電話やスマホもなかった。通信手段や情報獲得手段が現在とかなり異なる状況だったため,時代設定を現在に近いものにすると,ストーリーをかなり抜本的に修正しなければならなくなるように思えて仕方がない。アニメや映画でそのあたりをどう料理しているのか,そんなところに着目して楽しむというやり方もありであろう。
この点について僕の考えを述べておく。
物語の一番初めに必要な,主人公の新一が高校生であることや家族構成といった設定,そしてある日突然寄生生物に襲われるといった設定,そして寄生生物の性質などは原作の通りとしておく。そしてその上で,携帯電話やインターネットによる通信が発達した現在ならば人々はどういった対応をするだろうかを一から考え直すべきなのである。
たとえば寄生生物のからんだ事件が起きたとしよう。現場に遭遇したものがいれば,写真や動画を撮ってネット上に公開するだろう。市民がパニックに陥らないよう,警察等の国家機関が情報統制に乗り込むだろうが,それらの網をかいかぐって必ず情報は拡散する。それも世界中に,である。そうすると,世界各地でも同様の事件が起きていないかどうかが問題になってくる。そうすると全人類が総出でそれらに対してどう対処するか,といったスケールの大きい話へと展開せざるを得ない。もっとも,寄生生物に対する各国の思惑というものがあるだろうから,表面上は各国の首脳は寄生生物に気付いていないフリをするかもしれない。そうすると平凡な一高校生である主人公にとっては,人類が寄生生物にどう対処していくのか,国家規模の取り組みなどには無縁だろうから,そういった話に触れずにストーリーを展開することは可能であろう。
ちなみに,人々が人類にとって脅威である敵と遭遇してそれと向き合うといったやや似た設定で,舞台を現代に設定してストーリーを展開するといった話はいろいろあるが,とりわけ漫画では奥浩哉氏の『GANTZ』を思い出す。
『GANTZ』では携帯電話で写メを撮る一般市民がいたり,ネットの掲示板での書き込みなどを描いたコマが頻繁に現れる。ストーリー自体に対するインターネットの影響はほとんど無いといってよいが,携帯電話やメールでの登場人物同士のやり取りは物語を進める際によく使用されている。
このように考えると,携帯電話の有無やインターネットが発達しているか否かは『寄生獣』のメインストーリーにもほとんど影響を与えないかもしれない,とも思う。
まあ,ともかく,20年前の日本を舞台にした作品を現在の日本に移し替えてリメイクするとしたらどうするか,といったなかなか面白い問題を提供してくれたわけだから,アニメ化や映画化に対しては高評価を与えてもいいかもしれない。現代社会における携帯電話やインターネットが我々の生活に及ぼしている影響とは一体どんなものなのか,これをきっかけにもう少し考えてみようと思っている。
アニメや映画とは別に,原作そのものについても僕の想いを書き綴りたい気持ちもあるが,とりあえず本稿はここで筆を擱く。