四国遍路の旅記録  平成24年秋  その3

山の寺から蔵の街へ、津照寺、四十寺、金剛頂寺、吉良川

薄紅に染まる空(室戸、坂本付近)


薄紅に染まる空(室戸、津呂付近)

どうしてでしょうか、西の水平線の上がほんのり紅く染まっているのです。そんな空を眺めながら、行当岬を追っかけるように歩きます。
やがて津呂の港。早朝、出舟入船の往来が盛んです。津呂の港は、既に江戸時代の始めに整備された古い港で、真念も少し先の室津港とともに「○つろ浦・・よきみなと、石のきりとほし、目をおどろかす。○むろ津浦、ここにも石の切通、右両所のみなと、大きなるけいゑい、筆にもつくされず・・」と記しています。


津呂の港

 津照寺

25番札所、津照寺参拝。
門前に珍しく保存状態の良い徳右衛門標石「是ヨリ西寺迄一里」があり、目を惹きます。
これから5年ぶりに四十寺に参ることにします。
県道202号を行き、室津川の橋の先を左折。山道に入るところは以前とは変わっています。
要所(3ヶ所か・・)には新しい石標が設置されており、道を間違えるはずはないのですが、私は最後の石標を見落とし、みかん畑のなかで草刈り機のエンジン音を響かせている主に聞いて数百m戻りました。
標石のところから新しい山道が出来ており、300mほどで従来の道と合流します。道もよく整備されており、協力会の遍路札も見ました。
ある宿の主人の話によると、室戸で観光開発を行っている室戸ジオパーク推進協議会の尽力が大きいとか・・ 
1kほどで頂上へ。本堂はプレファブ風でやや寂しいのですが、左手に大師像、本堂裏の山頂には室戸山大権現が祀られており、幽玄な空間を造っています。
本堂石段前の展望所からの眺望は素晴らしいもの。右手に室津の港、左手に電波鉄塔などが並ぶ室戸岬の山が望まれます。
大師の修行場跡と言われる「にしり岩」。室津方面から直登する旧参道の途中にあるようですが、草が繁茂して道筋が掴めず諦めました。

 室津・四十寺付近の地図を追加しておきます。

 新しい四十寺への上り口

 四十寺


山頂より室津港を望む


室戸岬の山を望む

26番札所、金剛頂寺に向います。
岩戸に年号が入るものでは、四国最古という石碑があります。元は旧国道沿いにあったそうですが、今は新旧国道の間に移されています。
高さ2mもある大きなもので「従是西寺八町女人結界、右寺道 左なだ道、貞享二乙丑天二月吉日建之」と刻まれています。貞享二年は1685年。
昔は東寺と同様、西寺も女人禁制。女性は、なだ道即ち海岸の道を通って行当岬から不動岩の不動堂(女人堂)に参り札を納めていたのだそうです。
さらに、敷衍して申せば、五来重博士が言われたように、行当は修行形態としての「行道」です。弘法大師より古くからあったとされる宗教的場である行道が当時(江戸時代か・・)女人の道であったというのも、不思議な巡り合わせなのかもしれません・・
金剛頂寺門前で、徳右衛門標石「是ヨリ神峯迄六里」を見ます。
土佐に入ってこれまで、徳右衛門標石は7基あるはずなのですが、私が見たのは2基目。時間に追われ歩くなかで確認することの難しさを実感します。
東寺に続いてここでも例の夫婦にお会いしました。「どちらかでお会いしましたっけ・・」が挨拶代わりになりつつあります。
境内にある走り出しているような独特のスタイルの大師像。このお大師さん、最近一部の遍路の間で「けんちゃん88大師」と呼ばれているとか・・不幸にして私はその理由を知りません。

 女人結界の石碑


 金剛頂寺

 下り道の遍路墓

26番から国道に下りる道は二つ。不動岩に下りる道と平尾の道の駅の所に下りる道。前者の方が古い道だと思われますが、今回は後者の道を下りました。この道も丁石仏のある緑に覆われたいい道です。
その道の途中で二つ並んだ遍路墓(と思われる・・)を見ました。

「播州加西郡綱引村 ○○墓 文政四巳丑八月廿八日」もう一つの墓も同地、同年で、日付だけが九月五日となっています。数日を経て亡くなった二人の遍路。この道は女人禁制の道だったのですから、考えられないことなのでしょうが、私にはこれは夫婦の遍路墓のように思えてならないのです。
様々な哀しく美しい想像を逞しくします。

金剛頂寺付近の地図を追加しておきます。

 吉良川の街

吉良川の蔵

 吉良川の街

 いしぐら

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

東ノ川を渡って吉良川の街に入ります。
吉良川は近世には木材の産地として栄えていましたが、明治以降、木炭の生産、特に大正期には良質な備長炭の開発により、独自の繁栄を迎えたと言われます。
重要伝統的建築物群保存地区にも指定され、明治・大正期の立派な蔵が並ぶ街なのです。
蔵の壁は独特の土佐漆喰で塗られ、この地方の強い雨風から壁を守るための水切り瓦を備えています。また、台風などの強風から家を守るため、「いしぐら」と呼ばれる石垣塀が見られるのも特徴の一つでしょうか。
これらのどっしりとした佇まいには、圧倒されるような迫力さえ感じられます。
今日の宿もそんな立派な蔵があるお宅です。豪勢な日本家屋の、次の間付きの広い座敷に通されます。いささか緊張を感じるほどです。
宿の主は、いかにも大店のご主人と奥様といった風情の美男、美女。遍路のことは勉強中の様子、独特の語りの話もおもしろうございました。
                                                (平成24年11月16日)


雨中、神峯寺へ


沈んだ色の海と空を(羽根付近)

今日は雨。風雨ともに次第に強くなる見込みとの予報。
昨日までとうって変わって、沈んだ色の海と空を左手に見ながら歩きます。
途中、バスにも乗ってズルもしました。強雨のなか、雨宿りに寄った田野の駅では、ニュージーランドから来て、北海道を始め日本全国を廻っている自転車の夫婦にもお会いしました。
「ハチジュウハチカショヘンロ・・ネ」向こうから話かけてこられます。半分もわからないながら、すっかり時間を費やしたもので・・の、そこから電車にも乗ることにしました。
唐浜で降りて、27番札所神峰寺への上り道。
4kの道に1時間15分かかりました。ポンチョを着て、ですからまあまあのペースです。

 雨の神峰寺

寺ではまた例の夫婦にお会いしました。変・・敵も相当バス、電車、それともタクシーかな・・
この天気では、展望台に行っても何も見えませんから、今回は神峯神社を含め、行きません。
下りも上りとほぼ同じ時間掛けて、早めに麓の宿に入ります。今日は休養日となりました。
宿の女将おばちゃんは話好きの人で、「ここは、元々結婚式場での、そんでこんな造りになっちょる・・とか、私の父は、今の遍路道がある土地の大部分を所有する大地主であっての、寺の境内にも銅像が立ってる・・とか、N大師講の先達Yさんにはご贔屓いただいてる・・とか、バス遍路がタクシーに乗り換える所にある店のオネイサンはああ見えても孫がいるんだ・・とか、なかなかおもしろい話で退屈させないのですよ。

 神峰寺付近の地図を追加しておきます。
                                                (平成24年11月17日)


琴ヶ浜、浜の道の感動、赤岡へ

 
唐浜の松林

一日の雨で晴れは戻ってきました。
水平線近くの空は、やはり薄い紅に染まり、海には穏やかな波が寄せていました。
松林の傍の道を行きます。


唐浜の浜辺


 釣人(大山岬付近)

大山観音や地蔵堂のある大山岬の道とは別に、昔は山越えで河野に出る道が主往還であったようです。ある地図によると、その道は名村川から山に入ったようになっています。その入口だけ、ちょっと見ておきたくなりました。
名村川に沿った道を400mほど行くと、左岸に小さな水力発電所があります。その対岸は急な山で、ここに道があったとはちょっと考え難いのですが、どうなのでしょうか・・
昔の道は徒歩道ですから、急な山でもジグザグに上って最短ルートが選ばれることが多いように思えますから、入口はここではない・・とは言いきれませんが。
主往還は河野の小さな神社付近で海岸の道に下りていたようです。
安芸までの現遍路道は防波堤の歩道です。道とは言えない道かもしれませんが、ジョギングや散歩する人にも出会え、いつも左手に海を見る気持ちの良いルートです。
安芸の市街を抜けると、今の遍路道は自転車専用道路となります。昔はどうだったのでしょうか。
真念は「○あき浦町過、しんぜう(新城)浜壱リ、すなふかし。やながれ(八流)のふもとにちゃ屋有。○やながれ山下りて小川。○わじき(和食)村、手井(手結)山ふもとに茶屋あり。・・」と書いています。
新城付近の海浜の砂道に難儀したであろうこと、そして八流辺りは今の国道より一段高い段丘上の道を通っていたことが覗えます。この道は地元では「殿様道」と呼ばれていたようです。
旧道は寸断されながらも残っているようで、ちょっと寄り道をしてみました。
どの道がその旧道であるのか、確認するのは難しいのですが、段丘上の畑と家の向こうに青い海が輝いていたのが印象的な道でした。


八流の旧道から見た海


浜と鉄道(赤野付近)


琴ヶ浜を望む

赤野の栗山英子さんの休憩所。今回も寄ってコーヒーを戴きました。ほっとする空間。ありがたいものです。
ここから続く琴ヶ浜の松林と海岸の様は、土佐の遍路道周囲の風景のなかでも、特にすばらしいものです。
海水健康プールの周囲には多くの車が止まり、静かな賑わいが感じられます。
その傍に、坂本龍馬の妻、お龍と海援隊士菅野覚兵衛の妻、君江の姉妹の胴像があります。
姉妹は京都の生まれですが、管野はここに近い芸西村和食の出身で、お龍は龍馬の死後、妹の嫁ぎ先に身を寄せたことがあり、その縁を頼りに、平成5年芸西村民の気持ちが姉妹の像として実ったということ。
遠い無限のような西の海に向って手を振る姉妹の姿は、様々な想いと感動を呼ぶものでした。


琴ケ浜


琴ケ浜

サイクリングロード

 琴ケ浜

お龍と君江の像

さよーなら

先に示した真念の記述にもあるように、手結山の峠を越える旧道には茶屋があったようです。
この辺り、新しい道が縦横に出来ており、昔の峠道は探し兼ねましたが、国道の手結山トンネルの出口に「天保八年創業、お茶屋餅」として、その名をとどめています。
この辺りの道から手結港が見えます。
澄禅が「・・小坂ヲ一越テテ井(手結)ト云所至ル。爰ハニギヤカ成舟津也。」と記しているように、江戸時代初期には既に立派な港であったことが覗えます。
道の駅夜須で昼食。
北側にこんもりとした山が見えます。これが観音山で、安政地震の際、この山に避難した住民は津波を逃れ助かったことから「命山」と呼ばれ、その時の様子を刻した石碑もあります。
赤岡の街は昔からの繁栄を思わせる風情のあるところです。
街中の飛鳥神社の境内にも安政地震の碑が残されています。「・・潮が引いて干上がった手結港で鰻を沢山採った。翌日大地震で家も塀も崩れ、人々は何日も徳王子の山で暮らした・・」等と刻まれています。
幕末の浮世絵師、弘瀬金蔵の絵を収納した絵金蔵(えきんくら)は特に注目。毎年7月、八幡宮の宵宮、そして「絵金祭り」に商家の軒先を飾る金蔵の屏風絵。私は2年前に来ました。蝋燭の明かりのなかの絵金の妖しい世界を思い出します。
(追記) 「絵金祭りの宵に・・」(枯雑草の写真日記2 2010.8.7)

赤岡の街中の道を、国道に曲がらずそのまま北上し橋を渡った高見地区に二つの標石が並んでいます。右側の道標石には「従是大日寺四十丁 寛政八年橋本重吉建之」と記してあります。
左側の石は下部が土中に埋まっていますが、おそらく文化7年の照蓮標石でしょう。(因みに、この近くには文化12年の照蓮標石がもう一つあります。国道55号沿いの馬袋、一里松跡碑と並んでいます。)

 高見の遍路石

この標石がこの地区の通称の小字となったと言われます。それは「ヘンド石」というもの。その名付け、土佐の地故でしょうか・・
現在の遍路道の指定は国道。この標石に寄ると少々遠回りになるからですが、残念なことです。
その角を右折して国道に出れば今日の宿はすぐです。

 夜須付近の地図 赤岡付近の地図を追加しておきます。 
                                                (平成24年11月18日)

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