四国遍路の旅記録  平成24年秋  その4

大日寺、国分寺、善楽寺、田辺島、竹林寺まで、出来るだけ昔道に拘る

今日の行程は。28番大日寺から32番禅師峰寺の先まで。
徒労の拘りを発揮して、出来るだけ昔の道を辿ってみることにします。

赤岡から大日寺に行くには、国道55号から、鉄道の野市駅の少し手前で県
道22号に分岐するのが今の道ですが、昔の道は更に少し手前、石家から烏川の左岸に沿い切石山の麓を経て、現在も大日寺の手前に残る山道に繋がっていたようなのです。

石家の烏川畔のやや東方に「寶鏡山 吉祥寺道」と記した大きな石標(吉祥寺は今は廃寺)があり、その傍に殆ど土に埋まった標石があります。劣化が著しいものですが、形態から見て、照蓮標石のように思えます。
烏川に沿って行くと山裾の高い所に頌徳碑。その横の墓地を抜けると切石山裾の道。
この道は「のいちウオーキングトレイル」の一部になっているようで、整備されています。
山道の終点辺りに十五丁石と並んで「左へんろ道」と刻まれた標石があります。昔の遍路道に違いありません。それからしばらくは県道を通るしかありませんが、旧い道は前記の大日寺前の山道に繋がっていたと思われます。

 切石山裾に残
る道のへんろ石


 
大日寺


紅葉の鮮やかな大日寺を後にして国分寺に向います。
大日寺石段に「これより国分寺へ壱りはん」の徳右衛門標石。
父養寺の水豊かな農業用水路の傍を過ぎると、物部川の広い河原が見えてきます。今は県道234号の戸板島橋を渡るしかありませんが、昔はその300mほど下流が渡し場。
その土手に上部に枯れ枝が見える大きな杉の木があり、その傍に八王山蓮光院と書かれた小堂。二体の地蔵が祀られています。


物部川。昔の渡河地点の杉が見える。

物部川畔の地蔵堂


小堂の横の小屋には「是邊(路)・為先祖菩代提供養」の文字が見える天明五年(1785)の石碑。
真念は「・・○ぶようじ(父養寺)村、此間に物部川、大水の時ハ大日寺よりの市町へもどり舟わたし有、つねハかちわたり・・」と書いており、江戸時代の初期は舟は無く、徒渉していたようです。
戸板島橋を渡り、戸板島から松本まで、赤い実が鈴なりの柿の木も見える田畑の中の真っ直ぐな農道を行きます。
松本に入ると、道の曲がり角2ヶ所に真念石があります。その中間に「左邊路道」と刻まれた明和六年(1769)の自然石の標石。
そして松本大師堂へ。このお堂は、平成20年、地元の人の努力と「へんろ小屋プロジェクト」の協力により、へんろ小屋と合築する形で再建されたもの。(私は、二巡目の平成19年10月、鉄パイプに支えられて辛うじて立っている大師堂を目にしています。)へんろ小屋としては、私の最も好きなもののひとつです。
昔は遍路の宿泊所もあったと言われる大師堂の周り、大きな甚兵衛桜の傍には、石仏や遍路墓など多くの石造物が見られます。
堂周辺の道は整備されコンクリート部分が増えた印象。車の通行には便利であろう
けれど、この場の雰囲気は失われたよう・・残念と言うべきか。

松本から鉄道を越えて県道45号に至る農道には、以前は多くの標石が見られたように思います。ここも道の改修とともに、それらの多くが失われたようで寂しい限りです。

 土佐山田付近の地図を追加しておきます。


松本大師堂への道。角に真念石

甚兵衛桜の下


 大師堂傍の石仏、墓石


県道45号に右折した角に茂兵衛160度目(明治31年)の標石。これには、全国の多くの神社仏閣への石の寄進者として知られる名古屋の伊藤萬(蔵)の銘が刻まれています。
茂兵衛標石と道を挟んで向い側に、半ば土中に埋まった古い標石(手印、大日○)があったはず・・見当たりません。住宅の塀を改修した際、撤去されたように思えます。
県道を少し行くと左手に、今や遍路の間でも有名な「へんろ石饅頭」の店。その前に茂兵衛157度目(明治30年)の標石。
水路沿いに西へ20mほど。この辺りの字名「へんろ石」の語源ともなった、天文三戌年十月(1738)の標石。「従是右国分寺遍路道」と刻まれています。
小川に沿って緑に囲まれた細い道が延びているのです。昔の遍路道は、こんなに密やかで美しかった・・羨みを抱かせる情景です。
この道は、先で左折して国分川の渡し場に繋がっていたようです。
川向こう、渡し場の先には、台座に文化七年(1810)と刻まれた地蔵があります。
無論、現在は県道45号を進み国分川に架る橋を渡るのですが、昔はこの橋は無く、大水で渡し船も動けぬことが多かったようです。


天文3年の標石と遍路道

天文3年の標石


国分川畔の地蔵

澄禅は「・・・眠り川ト云川在、此ハ一睡ノ間ニ洪水出ル川ナリ。・・(是非ニ及バズ)近辺ノ田嶋寺ト云寺ニ一宿ス。住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝に侍也。・・・(翌日)寺ヲ出テ川下ノ橋ヲ渡リ国分寺ニ至る・・・」と記しています。
「眠り川」は国分川の別称、田嶋寺はその後廃寺で、研究者はその地に廿枝(はたえだ)の西島観音堂(西生寺)をあてているようです。また、川下の橋が今の岡豊橋辺りにあったのでしょうか。

29番札所国分寺は私の好きなお寺です。どっしりとした仁王門から正面の金堂に伸びる緑多い石畳の参道。柿葺きの素朴な金堂の佇まいもよいものです。
それに参道の周囲に椅子や腰掛けの石があって、お参りの人と声を掛け合うことができます。

(追記国分寺境内、大師堂左手に自然石の標石があります。近くの遍路道から移されてきたものとおもわれますが、次のように刻まれています。
「これよりみき へんろみち 元禄二年三月二十日」
元禄二年は1689年、年号が刻まれた四国の遍路標石としては極めて古いものと思われますので追記しておきます。

 国分寺付近の地図を追加しておきます。


 国分寺

 旧道に残る
標石


国分寺を出る今の遍路道は、仁王門から南に田圃の中を辿るすばらしい道なのですが、昔の道は国分総社神社の前を通り西に向っていたようです。
田圃の中の道傍に「へんろみち(手印)大阪北堀江上通二丁目、平岡新助健之」と刻まれた道標(明治のものと思われる)が2基あります。
その道は笠ノ川川を橋で渡り、岡豊別宮八幡と岡豊城址の間の低い峠を越えて北山道(土佐北街道)に繋がっていたようです。笠ノ川川には橋脚を支えた石積みが今も残っています。
30番善楽寺への道は、県道384号ですが、昔の道はこれと重なって
はいなかったようです。今の道の南側から北側の道へ・・

奥院、毘沙門堂に分岐する道のある滝本辺り、山裾に沿った昔の道の面影を追うことができます。

 滝本辺りの道

「四国遍礼名所図会」に「滝本坂、小坂。峠より高知城下御城町家見ゆる・・」と書かれた逢坂峠。
今はトラックの往来激しい広い道で、当時の長閑な情景を偲ぶこともできません。
一宮墓地公園の階段を下り住宅地の中へ。旧い道もこの辺りを一の宮に向っていたようです。
元札所、土佐神社にお参りし、30番札所善楽寺へ。
納経所で「竹林寺への道筋を記した古い標石があると聞いてますが・・」と言うと、中年のご婦人が出てこられ、「古い道標と言えばこれしか・・」と境内入口右側の樹陰に案内してくださる。
「これです。これです・・」と、写真を撮って寺を出ようとすると、ご婦人が追ってこられ標石の読みを書いた資料を見せていただきました。ご親切なことです。

 善楽寺境内の標石

文化九申年十月の標石には次のように刻まれています。
「(中央)遍路道 木ちん宿有 右 城下道五代山へ百丁船渡壱(あるいは三)ケ所 左 五代山江五拾丁船渡弐ヶ所有」 
左の城下を通らない道を、出来るだけ古い道に依りながら五台山竹林寺まで行ってみようと思います。
土佐神社の門前を南へ。土佐神社お旅所、お旅所にしては随分立派なお堂・・までは今も昔も同じ道。ここから左折、土佐一宮駅前を通り田圃の中の道を国分川畔に出ます。
川を隔てて田辺(たべ)島隼人神社の小山が見えます。昔は渡船でしょう。(標石の一ヶ所目) 
少し西の錦功橋を渡り田辺島の地蔵堂へ。
隼人神社の近くの家で地蔵堂の所在を聞きます。
若い人が出てきて、「それは、おばあちゃん・・」の声。別棟にいるおばあちゃんの所へ案内されます。
「アシはここに70年住んじゅうが、お堂はあそこんしかなか・・」と隼人神社の西の欅の大木の下の地蔵堂を教えられます。

追記「田辺島の福留隼人神社」
田辺川の傍の岩礁にある小さな神社。長宗我部氏の重臣福留氏11代、12代(隼人と呼ばれた)を祀った神社。隼人は天正14年長宗我部元親に従って豊後に出陣、島津氏と戦って戦死したと伝えます。


田辺島の隼人神社の森。右手が地蔵堂のある欅の木

 

田辺島の地蔵堂(実際は阿弥陀石仏が祀られる)                
田辺島の道標(左)(文政3年) 
                                                                                                 右は「ん路道/四十丁」と示す石

お堂の裏の岩の上には、多くの小社が集合されており、古い石仏も残っていますが、この近くにあったという「五台山三十丁」と刻まれた文政3年の標石は見つかりませんでした。(なお
後日、地蔵堂より100mほど東、堤防道より少し入った所に存在を確認しました。「従是五臺山三十丁/右遍路道 文政三年 辰正月吉日」と刻まれます。この道標の右側にある頂部を失った石は、ここより10丁北(おそらく布師田あたり)にあり、ここに移動されたものと思われます。)
地蔵堂より南西に、高須病院の大きな建物を目指して、田畑の中の道を行きます。
道を南に転じ舟入川へ。川向こうは高須。ここが昔の渡船場。(善楽寺の標石にある二ヶ所目)
ここからは、今の遍路道に従い文珠通りを辿ります。
文珠通りの南端、絶海池には昔から橋があったと言われます。今ある橋の袂に、文化九年の照蓮標石があったはず・・以前は確認していますが、この度は見つかりませんでした。橋、道路の整備により移動したのかもしれません。(後日確認したところ、この照蓮標石は100mほど南の遍路道沿いに移動されたようでした。)
1kほどの山道を上り、牧野植物園の中を通って31番札所竹林寺へ。

高知市東部の地図を追加しておきます。

竹林寺

竹林寺の紅葉

 竹林寺の石段

竹林寺の石段

 竹林寺のもみじ

竹林寺のもみじ

竹林寺は紅葉の盛り。石段と赤と緑の混じるもみじの対比は格別のものです。モデルさんが「ニッコリ」する撮影会もあったり、紅葉見物の観光客も多いようでした。
山門を下る荒れた石段の歩き難さもまた格別のもの。その下り口に「峯寺迄一里半」の徳右衛門標石。

(追記)江戸期前中期の五台山について
行基の開基以来藩政期に至るまで興廃を繰り返したといわれる五台山は、藩主山内家の加護を得て整備されます。「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))と「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))からその様子を見てみましょう。
霊場記には、開山堂(行基の像を置く)、弁財天祠、鎮守の山王権現、本堂(文殊堂)、大師堂、三重塔、鐘楼、仁王門、奥之院(阿弥陀堂)などが記されます。名所図会ではそれらに加えて、経蔵、雷堂、子安地蔵堂、茶堂、方丈などが記されています。
本堂(文殊堂)は室町時代の建立とされ、大師堂は寛永21年(1644)藩主山内忠義の建立。いずれも現在の配置とは異なり、明治以降移築されたことを示しています。(本堂の旧位置は仁王門に続く参道の石段の手前に東を向いていた。)
三重塔は明治32年に倒壊、その近接地(西側)に昭和55年五重塔が建てられました。現在奥ノ院は船岡堂とされていますが、これは大正10年の創建で昔の奥の院とは異なっています。また、現在の鎮守は当然ながら日吉神社となっています。
霊場記の絵図には寺への道について、「城下吸江道」「禅師峯寺江山中五町」、「林途?八町」と書き込みがあります。前記したように現在善楽寺境内にある文化9年の道標に、城下を通る道(百丁)と直接五台山への道(五十丁)が案内されていますが、「四国遍路道指南」では「・・行て たるミの渡、次に及古寺(吸江寺)・・かたはら町、これより五台へ八町・・」また「名所図会」では「樽見渡し、涼亭、及郷寺(吸江寺)・・」と記されいずれも城下を通る道が採られています。遍路はやはり城下の道を好んだのでしょうか。(「タルミの渡し」とは現在の青柳橋辺りにあった渡し舟と思われます。タルミ(絶海)の地名は五台山の北側に今も残ります。)霊場記絵図の道表記「林途?八丁」は現在牧野植物園に上がる北側からの坂道を示していると思われます。


四国偏礼霊場記 五台山


四国遍礼名所図会 五台山




下田川の畔、この土手を歩く

下田川沿いの道は始め右岸を、へんろ橋を渡って左岸の土手の道を辿ります。

(追記)「五台山から峰寺へ、下田川沿いの道」
「四国遍路道指南」では「これよりぜじぶじへ一里半。ごだいより八丁下江川有、舟わたし。・・」と記されます。
江川は今の下田川、現在の「遍路橋」より少し西、(和泉)の民家の前の道の側溝の上に一つの標石が寝かされています。
「(正面)(梵字)好月妙善信女為菩提 元禄七甲戊天 此はし施主、村上一雲/(裏面)右へん路ミち 舩わたし 是よりせんしふしへ一リ」(読み:小松勝記「へんろ道を辿る」より)と。以前は渡船、元禄7年(1694)橋が架かった、ということでしょうか。約100年後の「四国遍礼名所図会」では「・・川ばた行、江川 船渡し二文宛、又川ばた行・・」とあるところからすると、橋は屡々落ちたということでしょうか。
ともかく、この標石あたりが下田川右岸から左岸への渡河点であったことを示していると思われます。
それにしても17世紀の貴重な標石が道に転がっているのは残念なことに思えてなりません。今はどうなっているのでしょうか。

(さらに・・)
 下田川堤の標石

下田川の堤防上にあったとされるこの標石、今はどうなっているでしょう。ズルして申し訳ないことですが、Google streat Viewを拝見。今も私が見たときと同じ場所、すこし家陰に。
この標石の表の刻文「・・此はし施主」の「はし」を「橋」と読めば、別面の「・・舩わたし・・」と矛盾するように思えます。でも、標石の再発見者である小松勝記氏は、「元禄7年に橋が架かった」と読んでいるのです。そして別資料を引いて、この辺りより禅師峯寺の上り口芦ケ谷までの廿丁を舩に乗った人がいたことも紹介しています。
(もう一度考え直してみます)要は、橋が架かった時期も渡しがあった時期も存在し、禅師峯寺まで歩いた遍路も、また舩を利用した遍路もいたということでしょうか・・(標石の両面が異なった時期に彫られたということもありますしね)戸惑いますね・・(令和5年2月追記)


十市に向う芦ヶ谷峠の手前に大師堂。周りには江戸期の墓や石仏などの石造物が多く集められています。峠近くに「右へんろ道」と刻んだ明治33年の標石。
十市の新しい住宅地を過ぎ、十市小学校の横から短い山道を上り、開発中の墓苑の中に。
墓地の中を通り、寺の参道である車道を経て32番札所禅師峰寺(通称峯寺)へ。
山道の入口に明治の標石。上った所にも以前、「三十二番」と京都の地名が刻まれた手指し標石がありましたが、この度は見ませんでした。
多くの丁石地蔵や墓など、寺の参道や境内に移されています。天明4年の地蔵、文化2年の地蔵、文化11年の丁石地蔵、それに「へんろ」「ぎゃく」と刻んだ政吉の手指しなど。


峯寺参道の地蔵(天明四甲辰年四月二日 下総国海上郡銚子荒野村(現銚子市)住人〇〇)他


峰寺付近の地図を追加しておきます。


峯寺より種崎方面を望む

峯寺からは、その一部は埋立により形を変えているものの、阿戸から種崎に繋がる弓型の海岸が見えます。ビニールハウスの列が傾いた陽のなかで輝いていました。
「砂地」という字名も残るように、ここは元々砂の浜であり、「四国遍礼名所図会」では「是より山を下る。此所より種崎迄一里の間海辺砂地なり・・」と書いています。
昔はその砂に足を取られながら歩いたのでしょう。今は種崎の渡しに乗る遍路は、一番北側の街の中の道を歩くことが多いようです。
今日は種崎近くの宿、その近くまで桂浜の近くの宿までという遍路と一緒に歩きました。

さて、この日は20番大日寺前から32番禅師峰寺まで。旧道好きの私としても、ちょっと執拗に・・昔(江戸期から明治期)に多くの遍路が歩いたと思われる道を辿ってみました。
もちろん、当時の「へんろ道」は遍路が歩いたというだけでなく、より多くの住民や旅人が利用した生活の道であったことでしょう。
その道、今はどうなっていたでしょうか・・
今も生活の道として使われている道筋も多くあります。そうでない道の多くは、昔は船で渡った川で阻まれ、消えかかった道となっているのです。
そういう道には、遍路のための「道しるべ」標石がまだ多く残っています。逆に、今も生活の道として使われている所は、道の改修により多くの標石が失われつつあります。
四国の地において、遍路の歴史(文化?)をどう残して行くのか・・考えて行かなくてはならない問題なのでしょう。
                                                (平成24年11月19日)

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