四国遍路の旅記録  平成24年春  その5

ここからちゃんと逆打ち

立江寺の近くの宿を出て、立江寺にお参りし18番恩山寺に向います。
この辺りの道標のこと、忘れず書いておきましょう。
立江寺門前の道の三差路に、茂兵衛171度目、明治32年。横に上部のみの照蓮標石があります。この照蓮標石には上部に「鶴林寺道」と刻まれています。行先が刻まれた照蓮石は珍しい、あるいは移設後の後刻かもしれません。
恩山寺へ分岐する細い道の角に、茂兵衛標石(165度目、明治31年)と文化6年(1809)の宝珠付笠を載せた標石「(地蔵)是より恩山寺 七丁/是より立江寺 十八丁/備前國岡山富田村・・」が並びます。その先の畦道に保存状態の良い照蓮標石(文化7年)が立っています。
恩山寺の周辺は、徳島市街に近いにもかかわらず、竹林などの鬱蒼とした森に覆われ、義経の軍の伝説の残る弦張坂、弦巻坂や大師おむつき堂、江戸初期の仏足石のある釈迦堂などの霊場も多くあります。
恩山寺。お参りの後、本堂の前から左へ地道を辿ると荒れた山門に出ます。順打ちの場合、車道を通る遍路も多いようですが、この山門からの地道が本来の参道でしょう。
恩山寺の参道で目を惹いた
石仏道標を二つ追記しておきましょう。
一つは山門の先の参道の右手の草の中に無造作に寝かされた舟形地蔵。美しい彫り。一見、丁石地蔵のようにも見えますが、井戸寺方向で続く丁石は見当たらないようです。
何といっても光背に彫られた年号、「宝暦七丁丑年」(1757)に注目。近くには恩山寺道の入口手前に享保15年(1730)の地蔵道標「右おんざん寺/遍んろミち」がありますが、これに次いで古いものではないかと思われます。
 もう一つは、参道を進み立江寺への分岐点にある寛政12年(1800)の道標。正面に「四国十八番恩山寺」と寺標石とも。右側面に「向江立江寺道 従是三十一丁/左江井戸寺 従是ヨリ五里」。見事な地蔵の彫りに魅せられます。

 立江寺前三差路の照蓮標石

 恩山寺分岐道の茂兵衛標石と文化6年の標石

 恩山寺前の照蓮標石(文化7年)


弦巻坂

 恩山寺山門

 宝暦7年の舟形地蔵

 寛政12年の道標


勝浦川(勝浦川橋付近)


鷺のいる水路(方上町)

勝浦川橋を渡ります。勝浦川は静かで美しい川です。辺りを通る度にそのことを思いだします。
日本一低い山という弁天山の前を通り、あずり越えに向います。
峠の手前で道を聞きます。「この先をたおって、それからずっとたおらず行ってつかい・・」やたら「たおる」(「まがる」の阿波弁らしい)ので何だかよくわからない。「まーゆくべ・・」
そこに、子細ありげなお年寄りが入ってきて、話をします。
そのことはちょっと後にして、地蔵院東海寺に向います。石段の横に「左 あずりこえ・・」の古そうな石標があります。
この地蔵院という寺、入口に鳥居、境内に熊野神社が同居する神仏混淆の姿。地元では、昭和4年に徳島で亡くなったポルトガル人外交官モラエス所縁の寺として知られます。宝篋印塔や石仏も多数。
地蔵院より峠は直ぐ。峠には「(梵字ア)
南無大師遍照金剛」と刻す大師宝号塔があり、裏面には「名東郡上八万村堂原安土峠志建之 文政丁亥季十月五日於東郡龜井戸上人加持之」(丁亥年は文政十年(1827))とあります。
この塔、現地では判読困難ですが、資料によると名号左下に「木喰上人観正」、その下に「恩山寺江二リ 徳島へ一リ一宮へ一リ」と彫られているようです。観正は淡路出身の僧で、江戸を中心に火伏せや病気平癒を祈祷し活動、日本回国も行い、寛政9年(1797)に阿波を巡錫した記録もあるといいます。塔裏面の刻字からすると上人の加持祈祷の後、文政十年に地元有志が宝号塔を建てたのではないかと考えられています。
ここで江戸期のあずり越の道について考えてみます。
一の宮(大日寺)から徳島の街中を通らず、直接恩山寺に行くバイパスルートとして、中筋道を経て上八方町を通る道筋が江戸中期以降開かれたと思われます。
中筋道には、明和9年(1772)と文化12年(1815)の地蔵道標があり、夫々「左 恩山寺三里/右 一宮廿五丁」、「右 一ノ宮 三十五丁/おんざん志/二り者ん」と刻まれます。これらの道標は上八方町から園瀬川(昔のホツケ川)沿いに法花谷を経て恩山寺へ向う道を示していると思われます。
一方、上八方町樋口(つゆぐち)の道標(天保14年(1843))には「右 一のミや 三十五丁/「左 あづ里こへ」と刻まれており、江戸後期にはあずり越の道が整備され、峠を越えて法花谷を経る道と勝占(かつら)で合流し恩山寺に向かった遍路が多くあったことが想像できます。それは峠に宝号塔が建てられた時期に重なるように思えます。


地蔵院東海寺


あずり峠の宝号塔

このあずり越えの道については地元の人の間で、否定的な意見があるようです。曰く、この道が嘗て遍路道の本道であったことはない、あずり越えの名は明治以降に付けられたもので、義経の軍が「あずった」などというのは全くの捏造である(本来は「阿津伊地越」と呼んだらしい)・・など。
私は思います。この道、昔からの遍路道ではなかったかもしれないけれど、少なくとも江戸後期には存在した道であり、眉山の西の地蔵越道に繋がる道として、決して悪い道ではないのではないか・・と。(協力会が遍路道として指定している薗瀬川左岸の土手道(県道203号)は交通量が多く、歩くには危険な道です。)
あずり越えの道の維持管理に協力している城西高校の学生さんにも感謝したいと。(ただ、国土地理院の地形図に「あづり越」と表記されているのは何故でしょうか。)

寺山で園瀬川を潜水橋で渡ります。橋の周りは菜の花。地蔵越の道に入ります。
車の往来がけっこう多い道ですが、峠付近からは車道を離れた地道を通れるありがたい道です。天保二年の銘のある峠の地蔵。周りはきれいに清掃されています。
以前にお会いしたお年寄り、お元気でおられるでしょうか。懐かしい思い出の地蔵です。


寺山の潜水橋。菜の花の中

地蔵峠

地蔵院にお参りして、17番井戸寺に向います。
弱い雨が降ったり、止んだり・・ それから16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺、そして13番大日寺へと。気が付いた地蔵や道標のいくつか、記すにとどめておきましょう。

  観音寺

  国分寺

  常楽寺

分かれ道の地蔵

遍路墓

井戸寺、国分寺、常楽寺それぞれの門前には、徳右衛門標石があります。
この辺り、照蓮標石がたくさんあるのですけどね・・
観音寺の東100ほどに、茂兵衛161度目、明治31年。正面は大師像ではなく、観音立像となっている珍しいもの。鮎喰川を渡る一宮橋の西300mほどは昔渡し場があった所。その近くに、茂兵衛137度目、明治27年。
この辺りは草に埋もれるように、ぽつり、ぽつりとあの独特の墓形。遍路墓と思われます。
大日寺の近く、あの分かれ道の地蔵。台座に弘化四年(1847)の年号を見ます。
大日寺にお参り。納経所にはあの女性のご住職が優しい表情でおられます。
門前の宿に入ります。

(追記)分かれ道地蔵横の標石
上に写真も載せた分かれ道の地蔵、その向かって左の石が照蓮標石なんだそうです。
喜代吉栄徳さんの「駄家通信101(2016.4.6)」にそう書かれており、標石には番号付けもなされているといいます。
まったく気付きませんでした。機会があれば確認したいと思います。

                                             (平成24年4月19日)

 あづり越付近の地図 地蔵峠付近の地図を追加しておきます。


(追記)十三番大日寺から十一番藤井寺への道筋(澄禅が辿った道)について

「四国遍路日記」によれば、江戸時代の始め澄禅は、霊山寺から切幡寺までの「阿波の北分十里十ケ所」(第1番~10番)を残して、井土寺(第17番井戸寺)より始めて、観音寺(第16番)、国分寺(第15番)、常楽寺(第14番)と巡行し一ノ宮(第13番)に至っています。ここより澄禅の「一度歩いた道は通らない」「できるだけ順路で」という方針により、独特の道どりが始まるのです。
一ノ宮から藤井寺(第11番)に向かうのです。この道程、遍路日記には次のように記されます。
「・・本来ル道ヲ帰テ、件ノ川(今の鮎喰川)ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠ニ至テ見バ阿波一国ヲ一目ニ見所也。爰ニテ休息シテ、又坂ヲ下リテ、村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ。一里斗往テ日暮ケレバ、サンチ村(山路村)ト云所ノ民屋ニ一宿ス。・・」
澄禅が辿った道程として最も有力であると見られているのは、鮎喰川を渡り、入田町月ノ宮から前山峰(通称「地蔵越}標高140mほど)へ(柴谷宗叔「江戸初期の四国遍路」による)、峠から下り北へ西へ、石井町の大道(現在の国道192号に併行した一つ南の道、後の伊予街道)に至る・・。以降森山街道を経て藤井寺までの道については別記事    (「吉野川の高地蔵を巡る(その4)」)に記しました。また、同記事でも触れたように藤井寺から観音寺方面に向かう旧遍路道の道標の多くは「藤井寺〇丁、一ノ宮〇里」のようにいきなり「一ノ宮」が表示されているのです。このことは、観音寺や国分寺を経ないで直接一ノ宮へ行くこと(あるいは道筋)がある程度常識化していたことを表しているのかもしれません。澄禅が辿った道は、当時から意外に知られた道筋であったのかも・・ 因みに、明治後期の国土地理院の地図には前山峰越えの道が記載されています。
前山峰には明和6年(1769)の「峯の地蔵」(今はコンクリート製覆堂)や天保10年頃(1839)の建立と伝わる「水かけ地蔵」(火伏せの地蔵)と呼ばれる地蔵三尊(地蔵、不動明王、毘沙門天)(今は他の地蔵とともに石窟の中に祀られる)があります。
入田町月ノ宮から上る道は、残念ながらゴルフ場を横断する道で確実に通れるとは言い難いものですが。石井町への道は立派すぎるほどの舗装車道となっています。(国府町あたりから上って、気延山、前山峰の尾根道を経て石井に下る道は格好なハイキングコースとなっているようです。)
なお、入田町月ノ宮の上り口の600mほど西には、笠を被った立派な高地蔵があります。この鮎喰川沿いの集落もまた江戸時代、明治を通じて幾度となく洪水の被害に曝された所でもあるのです。 
      
 
明治後期の前山峰越の道(国土地理院) (図中央の南北の道)

北側より前山峰越え(地蔵越え)の道を見る



                                           (令和3年2月追記)


澄禅が辿ったであろう道を含め周辺の地図を示しておきます。 大日寺付近 観音寺付近



衛門三郎の像の前で

今回の遍路の最終日。13番大日寺より建治寺、玉ヶ峠経由で12番焼山寺まで。
逆打ちですから、衛門三郎がお大師さんに会った杖杉庵まででよいのだ、などと言ってる人がいたとか、いなかったとか・・ まあ、時間次第ということにしましょう。


小雨の鮎喰川


建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏


建治寺参道の石仏

行場の入口(結界)

建治の滝

 不動堂

禅定への梯子

鮎喰川が小雨の中に霞んでいました。
建治寺の参道に並ぶ四国八十八霊場石仏は、眠るような遠い表情の素晴らしい仏だと、この度も感じました。
行場の建治の滝の水は一筋でしたが辺りの幽玄な雰囲気は一入です。
前回は禅定の岩場へ行く梯子に仰天して道を間違いましたが、今回は慎重。すぐ横のちょっとした鎖場を上がって建治寺に参ることができました。
寺では、若い修行僧が太鼓を打ってお勤め中。太鼓の音が山に響いていました。
山を下る山道も、広野の近くまで行く山腹の簡易舗装の道もよい道でした。
多くの古い道標も見ましたが、「一ノ宮江百八十五丁」の照蓮標石が美しく、目を惹きました。

 神山町阿野の照蓮標石

広野の阿野橋を渡った所に徳右衛門標石「是より一ノ宮迄二里」。
しばらく鮎喰川左岸に沿った道。
駒坂峠の前の潜水橋。大水の度に.流されていた木橋、初めての遍路では、きっと多くの人に感動を与えてきた橋でしたが・・、しっかりしたコンクリートの橋に付け替えられて」いました。


駒坂橋

禅定寺門前

 禅定寺門前の徳右衛門標石


駒坂峠を越えて橋を渡って本名へ。
私は県道を少し戻って井ノ谷の禅定寺に寄ります。(真言宗御室派に属しながら、信州善光寺の兄弟寺という珍しい寺、大寺です。)門前に「これより一ノ宮三里」の徳右衛門標石があります。
ここから道は緩やかな上り坂。
旧い道が斜面の少し上にあったようです。そういえば、道から少し離れて、見上げる位置にある民家が多いようです。
道端に長椅子一つの休憩所。お接待に置かれた紅八朔のうまかったこと。
鹿児島から来たという僧形の若い修行者に会いました。
遍路はまだ始まったばかり、「泊るところがわからなくて困っています・・」という。野宿装備の人に尋ねれば、善根宿や通夜堂のリストを持ってますよ・・」とお教えします。
宮分の新しいへんろ小屋にも寄りました。そこにも、お接待の紅八朔が置かれていました。
上りがきつくなって玉ヶ峠へ。一宿庵と多くの石仏。「是より一ノ宮迄四里」の徳右衛門標石も。


玉ヶ峠への道から。深い谷

玉ヶ峠、徳右衛門標石

玉ヶ峠を下って鍋岩へ。
この坂上ることを思うと何と楽なことか・・そして杖杉庵へ。しっかりとお参りします。
ここのお大師と衛門三郎の像は素晴らしい、特に衛門三郎の表情に感銘を覚えます。
時間はまだ十分あります。12番焼山寺にお参り。
今回の最後に確認した道標は、門前の徳右衛門「これより一ノ宮五里」でした。まーご熱心なことで・・
納経所に荷物を預け、奥の院まで足を伸ばします。
寺から焼山寺山山頂の奥の院「蔵王権現」まで1200m。途中に大蛇封じ込めの岩があります。
石の少ない歩き易い道で、荷物がないことも手伝って往復約1時間。
奥の院のお堂は、正に山頂(標高938m)にあり、そこからは四周の眺望。鮎喰川上流の集落まで見渡せます。


杖杉庵前の衛門三郎

 焼山寺

奥の院への道で

奥の院、蔵王権現堂


奥の院よりの眺め(神山町宇井付近)

(追記)焼山寺、奥ノ院
江戸初期の寂本「四国遍礼霊場記」には、焼山寺について次のように記されます。
「本堂 虚空蔵、大師の作。左に御影堂次に鎮守熱田明神祠、次に熊野権現社拝殿華表(鳥居)あり、・・奥院へは寺より凡十丁余あり。六丁ほど上りて祇園祠(八坂)あり。後のわきに地蔵あり、右に大師御作の三面大黒堂あり。是より一町許さりて聞持窟より上りて本社弥山権現といふ。・・・」
阿波で、焼山寺は鶴林寺、大龍寺とともに確実に大師が修行したとされる場所と言われます。奥之院を中心にその遺跡が色濃く残されています。霊場記にも記される三面大黒天は厨の神で修行をサポートするために重要な役割を担うと言われます。


四国遍礼霊場記 焼山寺

                                    (令和5年9月追記)


鍋岩まで下って、寄居まで行く町営バスを待ちます。(寄居から徳バスで徳島に連絡)
善根宿もやっているという小さなお店でうどんを戴き、八朔も買います。
店にいると、大型バスから下りてきた遍路さんたちが買い物に寄ってきます。私に代金を渡す人も・・「わしは店番じゃないんですが・・」と言いながらもお相手を。

気の緩んだようなのんびりした時間でした。
今回の遍路の終りです。

(追記)焼山寺付近 鍋岩付近 建治寺、行者野付近 の地図を追加しておきます。

                                             (平成24年4月20日)



 

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