感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
花田植の里
広島県山県郡北広島町(旧千代田町)には、古くから無病息災と豊穣を願う
田の神の祭り「花田植」が伝えられてきた。
5月終りから6月の田植に時期、それは行われる。
最初に、花傘に飾られた飾り牛が、追い子に促されて、田に入る。
入念に代掻きが行われる。
やがて遠くの道を太鼓と笛の音に連れられ、早乙女達が進んできて、
田に入る。
見物人から、歓声があがる、華やかさ。田植が始まる。
撥を振り上げ体を反らすようにして太鼓をたたく囃子手の男たち。
赤い襷が田面に踊る早乙女さん。菅笠の陰で紅潮した笑顔が漏れる。
そして、一際心に沁みる、三拝さんの唄う、田植唄の調べ。
(この花田植の楽しさ、華やかさそして漂う何処ともない憂いを写真に撮ることは、
難しい。何故か。早乙女や囃子手の所作の動きもあろう。でも、最も大きなものは
田園を渡る田植唄の調べではないか・・そのことに気付かされる。)
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島の庄屋の家
今は、島なみハイウエイが通ずる、瀬戸内の島、向島のほぼ中央に吉原家住宅
が残されている。吉原家は、江戸時代には、向島近隣五ケ村の庄屋を代々務め
た家で、この住宅も所蔵文書から寛永12年(1635)の建築であることが確認さ
れている。建築の年代が明らかな農家では、全国でも最も古い建物といわれる。
主屋は東面する寄棟造、茅葺、桁行20.1m、梁間9.1m。部屋は細かく10ほ
どにも仕切られているが、間取りは、向って右から農作業、収納、炊事に用いら
れる土間、その左が板敷きの台所とデイ(現在でいう居間にあたる)、そしてその
左の奥に納戸(寝室)、表に座敷(主人の居間、客間)といった日本家屋の典型
的配置を踏襲している。それとともに、島の中では最も豊かな家であったであろう、
様々な特徴も有する。板敷きの台所は床高を違えた二部屋、構成員の身分の違
いを映した食事の様が想像される。畳敷きのデイに神棚、座敷は八畳と六畳、
仏壇は六畳の間にある。納戸の奥に年寄りのための部屋と想像される六畳の間
がある。など、など・・。
家の規模に比べ、柱、梁などの木材は細く、また、様々な種類の木が使われてい
る。木材の乏しい島の状況を反映したものであろう。
平成3年に国重要文化財に指定。その後平成16年、大修理を行い、寛永時代の
当初形式に復元された。
(農家には珍しい長屋門を潜ると、江戸時代初期の建物とは、思われない清楚な
農家が眼前に広がります。平成16年の大修理によるものでしょうが、現に、最近
までこの敷地の一角に102歳のおばあさんが暮らしていたのだという。農家は、
現代の時の近くまで、その命を保ち続けたのでしょう。
若い見学者の「窓が小さく暗い・・、暮らし難かったでしょう」との問いかけに、年長
のボランティア説明者が言う。「太陽が出ている時は、皆んな外に出て働いていた
のですよ。夜、猪や熊などの動物から身を守るために窓は小さいことが必然・・」
暮らしと、家が一体であったということ・・。考えさせられる言葉です。)
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遠くの島の景色
島と島が重なる瀬戸の景色。
島の間の煌く早瀬。
島を結ぶ人の希望を運ぶ連絡船。
島を結ぶ立派過ぎる橋。
小さな浜辺と磯をもつ、完璧な島。
そして、多くの船が辿り着いた、漁港。
春の海。
誰かが言ったように、
終日、のたり のたり かな・・なのです。
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