感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その5
5月10日 外国の若者、日本の若者
天候:曇り時々雨
5:30より御影堂で御勤めがある。
清清しい朝の空気の中、御影堂に立派な堂内の装飾に囲まれて二十人ほどのお坊さまの読経がこだます。読経が途切れた間には、堂外の鳥の声が聞こえたりする。
開経偈から般若心経、御宝号のところは2、30人の参加者全員が唱和する。
創建1200年を記念して開帳された秘仏本尊、瞬目大師像も拝見させていただく。
30分ほどの御勤めが終り、私は堂の地下にある戒壇めぐりを行う。真っ暗の中、左手を壁に沿わして歩く。中ほどでお大師の声が聞こえたりする。
食事の後、7:00頃宿坊を出発する。
7:50 76番金倉寺に着く。
次の道隆寺への道をYさんと歩いていると、後ろから背の高い外国人の青年が追いついてくる。遍路だ。この2月、オランダから日本に来て、4月中旬より野宿で歩いているという。
全くのカタコトの日本語。札所の番号、コンビニのマーク以外判読できない日本語の遍路地図が頼りだという。いやーびっくり。大したものだ。
人馴つっこい笑顔の好青年。この笑顔が様々な難題を解決させてきたのだと納得させられる。
8:40 77番道隆寺に到着。
Nさん、Kさんもいる。もう一人、20k近い荷物を担いだ背の高い人がいる。この人が京都のKTさん。野宿主体で歩いているという。この後もお会いすることになる。
本堂で般若心経を唱えていると、横にオランダ君。何とローマ字をふった経本を小声で読んでいるではないか。
金倉寺仁王門
金倉寺
道隆寺
県道21号、33号に沿って、丸亀の市街を抜ける。丸亀城が見える。
一人の女性に呼び止められる。聞けば、ここより20kぐらい先、国分寺門前の民宿の女将だという。
最近、電話番号が変わり、それを知らない遍路が多く、泊まりが減っている、車でここまで来て勧誘しているのだという。
「今晩おたくにお願いしてますよ」「あーらそう、お待ちしてますよー」「あとからいっぱい来るよ。勧誘したらー」。いやいや民宿業も大変なんだなー。
11:20 78番郷照寺に着く。Yさんそれに久しぶりのRさんもいる。
ここは札所では珍しい時宗のお寺。他の札所とは雰囲気が違う。
本堂の左に、金色の小さな千体仏、何体おられるかわからぬほどの数、気おされて早々に失礼。
昼飯時だ。坂出の街をRさんと歩きながら、私はうどん屋を探す。Rさんは80番を打った後、この坂出の宿まで戻るということで先行。
うどん屋に入り食ったぶっかけのうまかったこと。さすが、本場の讃岐うどん。
霊場八十場(やそば)の水に寄る。ここは、讃岐に流された崇徳上皇が崩ぜられた時、夏のことで、都から確認の役人が来るまで、この清水の中に柩が置かれたというところ。
水場の傍からNさん、Kさんの「お待ちしておりやんした・・」の声。
郷照寺(遍路はYさん)
郷照寺
八十場の水
13:45 79番高照院に着く。
ここは大きな白峰神社の片隅にあるような小さな寺。昔は崇徳上皇との縁に因み崇徳天皇と通称された。神社の境内には、菊のご紋章のついた馬の銅像があったりする。
納経所の人が話好きな方で、何かの拍子に73番奥の院捨身ケ嶽禅定の話になる。
「7歳の大師が岩の上から身を投げたところ天女が大師を受け止めたんだ・・」。
これを聞いていた隣の青年が「それほんとのはなしー?・・」。
納経所の方は、ポカーンと口を開けたまま言葉もでなーい。慌てて私は「・・そういうはなしなんだよー・・」といらぬお節介の助け船。
この青年が、茨城の22歳4浪君。金がないので野宿でまわっているという。
この青年とは、次の80番への道の半ばまで同行することになる。
「大学行く気あるのかー。何のために行くんだ」。「大学行きゃー、その間好きなことして遊べるじゃねーですか・・」。「おいおい、そのために大学ゆくのか。困ったもんだなー」などと半ば真面目、半ばトンチンカンの応酬。
結局、晩飯代、お接待する羽目になっちゃう。お接待受け取ると、「81番手前の公園で野宿しますから・・」と足を速めて去る。困った若者もいるもんだ。
雨が降り出した中、広い国道11号を横切って、15:45 80番国分寺に着く。
白峰神社
高照院
国分寺への道の遍路マーク
国分寺
国分寺の仏足石
16:45 門前の民宿えびすやに入る。
午前中、丸亀で会った女将が迎えてくれる。
同宿は、Nさん、Kさん、KTさん、それに北九州のWさん。相当被害者が出たようだ。
本日の歩行:47113歩
本日お参りした札所
第七十六番 鶏足山 宝幢院 金倉寺(こんぞうじ)
本尊:薬師如来
宗派:天台宗寺門派
開山:和気道善
智証大師円珍誕生地。唐の青龍寺を模し百三十二坊を擁した。円珍の祖父である和気道善が開き道善寺と称したが、円珍の死後、醍醐天皇が勅命で金倉寺と改称した。
智証大師の父は和気氏の宅成、母は佐伯氏であった。従って智証大師は、弘法大師の親戚に当たる。
第七十七番 桑多山 明王院 道隆寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗醍醐派
開山:和気道隆
和気道善の弟・道隆の開基。道隆の桑園であったが、ある日、妖しい光を見た道隆が矢を射かけたところ、乳母が矢を受けて倒れていた。悲しんだ道隆が一宇建立。孫の朝祐が二代目住持となり、伽藍を整備した。次に弘法大師の弟・法光大師、次に智証大師、次に理源大師と、高僧の住持が続いた。
本尊は「目治し薬師」と呼ばれる。
第七十八番 仏光山 広徳院 郷照寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:時宗
開山:行基
一遍が滞在したこともある。高野山の高僧が逃れてきて、時宗、真言宗の両宗を称揚する寺となったという。寛文年間に、時宗となる。
第七十九番 金華山 高照院 天皇寺
本尊:十一面観音菩薩
宗派:真言宗御室派
開山:空海
大師が通りかかり、虚空から、霊木があるので仏像を刻んで安置せよとの声を聞いたという。
流罪となり客死した崇徳院の遺体を、ここに暫く安置したことが、寺名の由来であるという。
第八十番 白牛山 千手院 国分寺
本尊:千手観音菩薩
宗派:古義真言宗御室派
開山:行基
奈良時代作の鐘は重要文化財。もともとあったものではなく、この鐘を被った大蛇が人々を苦しめていた。弓の名手・戸継八郎が本尊の十一面観音に祈って射たところ、大蛇は鐘を捨てて逃げ去ったので、その鐘を国分寺に奉納したという伝説がある。近世、高松城主が鐘を城中に運び込んだが、病人が続出したため、寺に返したという。