四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その4

5月9日     弥谷の無数の石仏に

天候:晴れ
6:30 宿を出て、6:45 70番本山寺にお参りする。
Rさんに出会う。近くに泊まったようだ。
ここには立派な五重塔がある。明治末に建てられたものだという。

本山寺

本山寺山門

門前を出て、枯木地蔵堂を探す。
このお堂は、本山寺建立の天狗が用材の一つを落とした跡に建ったという伝説のところ。畑の中に小さなお堂がある。案内書の字の大きさに比べいかにも小さい。これがその地蔵堂なのか?ちょっと自信はないが。
近くの妙音寺(宝積院)にもお参りする。門前で掃除をしている女性が「ここは70番奥の院です。皆さん納経されますよ」という。
「お参りだけさせていただきます・・」。私はお参りしても札所以外は納経はしない。

枯木地蔵堂

妙音寺

国道11号を行き、やがて田園の中の細い道、弥谷寺の参道に至る。
この弥谷寺の辺りの山や谷は、特別のところであるらしい。寂本も「・・この山で目につくところ、足の踏むところには必ず仏像がある。・・その数幾千あるか分からない。・・このため仏谷と号し、仏山と呼んでいる・・」と書いている。
また、死霊の集まる山として「イヤダニマイリ」の習俗があったとされる。このことは、ちょっと私的な関係も絡んで以前から興味をもっていたこと。別欄「コラム」に記す。

この日は珍しく晴天であったが、多くの石仏、鬱蒼とした谷の湿った何処かざわついた、他の霊場とは違った雰囲気を感じとることはできたように思う。
10:15 71番弥谷寺に着く。
長い階段を上って本堂、大師堂に参る。大師堂は靴を脱いでお参りする。
参道を下る途中、俳句茶屋という障子や襖にぎっしり俳句が書かれた茶店がある。
ここに荷を置いて上ってくるYさん、Rさんに出会う。

弥谷寺への道

弥谷寺仁王門

弥谷寺参道

弥谷寺本堂


弥谷寺より三野を望む


72番に向う山道は、気持ちの良い竹林の中を通る。
大池の周りを半周して、池畔の七佛寺にお参り。
荒れた寂しい寺である。大池に向って打つゴルフ練習場の打球の音が聞こえる。
寺の縁に座って昼食のパンを戴く。
このあたりの道からは、讃岐平野の上のもっこりとした起伏、五岳山のうち、火上山、中山、我拝師山(わがはいしやま)、筆山が望まれる。
晴れた五月の空の下、独特の風景を造っている。我拝師山の中腹に、これから参る捨身ケ嶽禅定とおぼしきお堂が見える。

12:00 72番曼荼羅寺に到着。続いて600m先の73番出釈迦寺には12:50の到着。
納経所の人は「きついよー、1時間半はかかる」ということであったが、せっかくきたんじゃけーおまいりさせておくんなせー」と荷物を置かせていただき、1.4k先の捨身ケ嶽禅定(73番奥の院)へ上る。
道はほんの僅か迂回歩道が残されているだけで、総て舗装車道。
しかし、その傾斜の急なこと。余程手馴れの運転手でないと無理だ。
ここは大師7歳の折、捨身の修行をしたと伝えるところ。
禅定は切り立った岩の上にある。禅定からは、多度津、丸亀の街が一望のもとである。
私の足で登り40分、下り20分。殆ど下り切ったところで、上ってくるふくよかな若い女性。「あとどのくらーい・・」もう息を切らしている。「うーんあと30分ぐらいかなー、それほどきつくはないよー」と激励。

ここより崇徳院のご陵のある白峯にかけて、西行の足跡を多くみる。院と親しかったといわれる西行、院が流罪の地、讃岐で客死した後、この地を訪れている。
西行の座った石というものや和歌が石碑に刻まれ残されている。私は行かなかったが、近くに西行庵跡もある。西行の歌
「曇りなき山にて海の月見れば島ぞこほりの絶え間なりける」

曼荼羅寺への道


我拝師山中腹、捨身ケ嶽のお堂が見える

七仏寺

曼荼羅寺

出釈迦寺

捨身ケ嶽禅定

捨身ケ嶽禅定


捨身ケ嶽禅定より多度津、丸亀を望む

73番から3k、15:10 74番甲山寺に着く。
この先は善通寺の市街である。大師が幼時、泥土で塔や仏像を造って遊んだところと伝える仙遊寺にお参りした後、16:00 75番善通寺に着く。
ここは大師の三大霊跡のひとつだけあって、さすがに立派なお堂や五重塔が並ぶ。
多くの人で賑わっている。境内の出店の多さにも驚く。
秋遍路以来のアイスクリンも食す。懐かしい味だ。
ここの大師堂は御影堂(みえどう)という。
御影堂に隣接して今夜の宿、善通寺宿坊がある。宿坊といってもここはホテル並みの施設。ただ、室にテレビはないしルームキーもない。
ポンと背中をたたく人、浴衣姿のYさん、もう先着している。
同宿はYさん、Rさん、Sさん、SKさんと民宿岡田以来の遍路仲間半数以上が集合。その他歩き遍路2人、車遍路5、6人であった。

甲山寺

仙遊寺

善通寺本堂

善通寺五重塔

賑わう善通寺境内

本日の歩行:43450歩

本日お参りした札所

第七十番 七宝山   持宝院   本山寺(もとやまじ)
本尊:馬頭観音菩薩
宗派:高野山真言宗
開山:空海
当初は長福寺と称した。馬頭観音は、多くの観音と違って憤怒形をとり、曼荼羅で明王部(衛兵)に配される。
石清水八幡末社別当として嘉禎二年、不断法華の祈願所となる。創建当時の姿を残し、国宝、重文も多い寺。

第七十一番 剣五山   千手院    弥谷寺
本尊:千手観音菩薩
宗派:真言宗善通寺派
開山:行基
行基菩薩の開基。この山の霊験を見た大師が登って求聞持修行をしていたとき、空から五柄の宝剣が降ってきたという。山号の由来である。
大師の足跡の多い寺で、奥の院は大師堂の中にある。

第七十二番 我拝師山  延命院    曼荼羅寺
本尊:大日如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
元は世坂寺と称し大師の先祖佐伯氏の氏寺として、推古4年(596)建立。
大師が、唐から持ち帰った両部の曼荼羅を納めた。玉依御前菩提を弔うため、唐・青龍寺の伽藍を模したという。

第七十三番 我拝師山  求聞持院   出釈迦寺
本尊:釈迦如来
宗派:真言宗御室派
開山:空海
七歳の大師が身を投げた。もし自分が人々を救済できるなら、証を見せて欲しいと祈って。釈迦が現れ、天女が大師(真魚)を抱き止めたと伝える。
西行は、この寺について次のように書いている。「奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。寂本も「険しいため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。」と書いている。往時の苦労が偲ばれる。

第七十四番 医王山   多宝院    甲山寺(こうやまじ)
本尊:薬師如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
弘仁十二年、築満濃池別当に任じられた大師は、農民を動員し三カ月で完成させたという。このとき朝廷から与えられた資金で、建立した。
山の形が毘沙門天の甲(かぶと)に似ている。これが寺名の由来。

第七十五番 五岳山   誕生院    善通寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
大師誕生の地。高野山、(京都)東寺と共に、空海三大霊地。「お大師さん」と呼ばれている。東院は寺院としての伽藍、西院は誕生遺跡が並ぶ。
唐から持ち帰った八カ寺の砂を撒き、唐・青龍寺を模して建立。大同元年に発願し、七年後の弘仁四年に七堂伽藍が完成した。
大師誕生の地については、海岸寺と善通寺の二説がある。御影堂の地下に、暗黒の中、89mを壁伝いに歩く「戒壇めぐり」がある。


コラム 「イヤダニマイリについて」

 

イヤダニマイリとは何か。
弥谷寺は死霊の行く山とされる。亡くなって間もない人の霊(具体的には髪の毛や着物)を背中に背負って弥谷寺まで運んでくるという習俗が、古くから行われてきたというものである。
いくつかのガイドブックにもこの地方の奇習として紹介されている。
この習俗は、多度津在住の民族学者、武田明が1950年頃発見し、学会に発表、認められるようになった。
私事にわたり恐縮ではあるが、実は武田氏の夫人は、私の母の妹なのである。そういうこともあり、イヤダニマイリについては以前から興味を持っていた。
武田夫妻は故人になられてすでに久しい。直接お話を伺う機会は永久に失われてしまった。

最近出版された、森正人「四国編路の近現代」(創元社)の中でも、イヤダニマイリとその発見の経緯が紹介されている。
森氏は、人間の霊は山に行くという当時の先祖観や死生観の流れの中で、武田氏によって創りあげられた習俗ではないかとのニュアンスで述べられている。
しかし、私の母(岡山出身)は幼い頃から、祖母より霊が集まる場所としての弥谷の話を幾度も聞かされたと記憶していると語っていた。
近隣の地にこういう言い伝えが何かの形で残されていたとも考えられる。
事実はすでに闇の中である。

私は、弥谷寺への道を歩きながら、湿ったような岩陰に、樹木の陰に、多くの石の仏を見、この地が霊が集まるところであるという思いを拭い去ることができなかった。
思えば、地球上のある地点は変わることがない。そこに、何百年、何千年と人の生活と思いが蓄積し、澱のように沈んで行く。
この不思議に思いを馳せた、私の弥谷寺参りであった。

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