(株)カプロラクタム-blog

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関ケ原町

2014年01月18日 | Weblog
ドライブがてら、関ケ原町を探索してきました。

滋賀方面に向かう時は必ずと言って良いほど通る町なのですが、思えば不思議なほどいつも素通りしてしまっていました。関ヶ原と言えば歴史上、何度か天下分け目の合戦あった町ですし、最近では大河ドラマの黒田官兵衛つながりで戦国時代に興味をもってきたので、長浜でのっぺいうどんを食べた後、帰りに寄ってみることにしました。

とりあえず歴史民俗資料館と言う所へ行って情報収集。関ヶ原の合戦の陣形の説明を見てから、実際の場所へ行ってみることにしました。古来から交通の要所であったようで、四方を山に囲まれた開けた土地は、まさに両軍が激突するのに好都合な場所であったと言えるでしょう。石田三成軍の陣跡は小高い丘の上にありますが、駐車場からものの3分も登らないうちに到着し、しかも四方が全て見渡せる絶景ポイントでした。斜面が戦場になる場合、上手から下手に攻めたほうが有利なのは明らかですし、しかも味方(のはずの)小早川軍、毛利軍が陣を張った山も良く見渡せます。立地上、家康の軍を3方から攻める最高の場所に陣を張ったと言うことが分かりました。

一方家康軍はと言うと、最終的には先の資料館のあったところに陣を置いたようですが、最初は三成の場所からは見えない、2kmほど離れた桃配山と言う所に陣を張ったそうです。もちろんそこでは双方とも動向が見えないので、黒田・竹中(2人ともドラマに出ている軍師の実子)がその中間に陣を張り、のろしを上げて戦況を知らせたとのことでした。その最初陣跡、何と21号沿いにあるということでしたが、その道は何度も通っているにも関わらず、今まで全く気づきませんでした。史跡巡りというのは、やはりある程度勉強して知っていないと楽しめませんね。出光のガソリンスタンドがある辺鄙な崖に旗が立っているのを発見し、登ってみましたが、恐らく当時とは多少景観が違うにしても、三成側に比べてやはりあまり良い場所であるとは思えません。では、なぜ家康はココに陣を置いたかと言うと、実はこの山、1300年前にあった天下分け目の合戦、壬申の乱で勝利した天武天皇(大海人皇子)が陣を張った場所でもあったわけです。「桃配山」の由来も、大海人皇子が兵士に縁起の良い桃を配ったことが由来となっています。思い出してみると、その兄である天智天皇は白村江の戦で朝鮮出兵したものの大敗を喫し崩御、その後に皇位継承問題が起こったわけです。秀吉もまた、唐入りの最中に病死し、同じように継承問題を抱えていました。歴史に明るかった家康が、この話を利用しないわけがありません。実際、家康の取った戦術は大海人皇子のそれとほとんど同じだったとか。つまり地の利を取った三成に対し、家康は歴史の理をとったわけですね。

時間もあまりなく寒かったので、資料館と両陣跡しか回れませんでしたが、もらったパンフによると、ちゃんと壬申の乱の頃の史跡も残っていますし、小早川秀明のいた松尾山はちょっとした登山ができるようになっているので、是非近いうちにもう一度訪れてみたいと思います。