iPodでエクササイズ

iPodで、退屈なマシントレーニングを楽しいものに変えましょう!






(さらに惣五郎は、翌、安政二年の様子や出来事についても触れています。)


一  備中の内にては、翌卯(安政二年)二月ころまで、二三日ぶり、又また小さき分は日々震り申候、三月に成候而も折々震申候

一  卯二月朔日に加州(加賀)大地震と申噂、くわしき事は相知不候へども、御矢倉弐三ヶ所も損候と申噂に候

一  同三月、土州侯(土佐の殿様)、浜ノ茶屋御通行の節、御家来の内腰掛け休み話すに、銘々は江戸に居候ゆえ、国元の様子見申不候へども、国元より注進(事件等の報告)度々申し越し候趣、土州も大地震に而、其後津波、御城下半潰に而、久しく水引かずと申来り、其の外国中大痛と申事にこれ有り候との咄



  安政二年卯十月二日江戸大地震

十月二日夜四つ時、凡三尺より五尺くらい上り下り、やれ地震と申す間に家崩れ候由、それ故、所々出火多く、死人夥数、前代未聞の事也、家に敷れ、火に焼、死人弐十七八万人と申候へば、実は数知れず町人並御旗本様は、おのおの御注進これ有り、相知候へども、御大名様方は内分(表沙汰にしない)になされ候分数多く、しかと相知り申さず候由

一  十二月に江戸より帰候周作咄に、町家の死人は旦那寺にかぎらず、他旦にても、銘々近場の寺へ訳なしに持込候、櫃儀或は樽等に入、又はむしろに包み、寺々へ持行捨置候のみ、いづれの死人共一向相分からず、寺々も夥しき死人持込れ、大いに当惑し候趣、寺々より死人数何程、何宗何寺、何宗何寺と、寺より注進の分、弐十三万七千余人と相聞申候、其外、何国之者共なく、川に流、焼死にて、一向形地なき者夥しく

(以上、川入、秋岡素平氏編、先考遺筆)

出典   倉敷市史:第九巻

-------------------------------------------------------------

うわぁ、安政地震の次の年に江戸に大震災だなんて……
余りにも天変地異が多過ぎます。
一旦地震が起き始めると、まるで、たがが緩んだように相次ぐものなのでしょうか?


ふぅ~~~……、内容を書き写していて我ながらイヤになってきました。


しかし定期的にこのような大災害を被っても、その都度、ハード面ばかりでなく、日本の精神性や伝統文化を立て直してきた先人達には、只ただ頭が下がるばかりです。

長文を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

おしまい

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




(惣五郎は、東海道方面やその他の地域の被害に関する書付も、写し書き留めています。)


一  上方の様子およそ承り候、尤上方より書付参り候写し
   但、大地震後荒荒書付なり

嘉永七年六月(十四日夜)上方の地震書付写し(省略)

同年十一月の大地震、東海道書付写し

 十一月四日五日六日大地震、それより後少しずつ二十五六日までの様子


 【吉田】:半潰   【二夕川】:半潰   【白須加】:半潰
 【荒井川】:船壱艘もなし   【無坂】:津波   【浜松】:大地震
 【見付】:半潰   【袋井】:丸焼   【掛川】:丸焼
 【日阪】:無事   【金谷】:丸焼   【鳴田】:少し潰
 【藤枝】:半潰   【岡部】:半潰   【まりこ】:半潰
 【江尻】:丸焼   【府中】:江戸川より出火、大火となる   【沖津】:津波
 【由井】:無事   【蒲原】:出火半潰   【岩渕】:半潰  
 【富士川】:水なし歩行渡   【吉原】:丸焼

   右あらましにて、委細相分り申さず候


原宿より沼津、三嶋、箱根、小田原辺より東の様子、未だ相分かり申さず候
尾張、濃州、勢州、大地震。勢州亀山、庄野、石薬師辺、往来破れ、泥吹出し、一円野原となり候咄(はなし)

  右者、大地震後由来候写し



追々承り候処、讃州丸亀弐歩通り位、家潰候由、此辺より参込居申者も、数日舟留故、よう帰り申さず候、阿州も大地震、土州予州の様子相知申さず候

下筋は、備後、安岐、此辺右同様、九州も大損と申候へども、委敷(くわしき)事相知らず
北国筋沙汰なく、然る処、十二月末、伯州の者、年越に四国へ参候由に而話に、雲州伯州も、先この辺と同様くらひと申候

-------------------------------------------------------------------
う~~~ん、ゾッとするような広範囲の被害です。
同じ事が今の日本に起こったらどうなるのだろう?
この地震は定期的にやってくるので、起こることは確実なのだけれど……

しかも、前回の昭和南海地震が小規模だったため(蓄積されたエネルギーの1/10程度しか放出していない)、次に起こる地震は、この文書にある「安政」、もしくはもっと大きかった「宝永(安政地震のひとつ前でM8.6)と同規模になることが予想されているそうです。



惣五郎は、次の年、安政2年の出来事にも触れています。
次回が最終回となります。

つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




(地震当時の惣五郎自身の周辺の様子や、その後のことなどが記録されています)

一  五日地震之時分、往来いたし、歩行居候者共は、一向歩行相成らず、目舞致す様にて足たたず。

一  私(川入村名主秋岡惣五郎)宅に居申者も残らず逃出候へども、婦人子供に、立ちながら居る事ならず、皆かがみ申候

一  大地震後、十一月二十五日、朝より八つころ迄、大成音、地江響き、十数度鳴渡り、其音、此辺計にこれ無し、追々ききあわせ候に、上下は及レ及レ申(不レ及レ申?)、松山奥辺迄も同様響候趣、其時分、いか様の変事これ有り哉と、惣方心配、跡に而承り候へば、海の鳴りたる由、尤所々津波これ有る沙汰、此津波にて大阪、伊勢、其外海岸は大損之由 児嶋郡にて朔日志ほより壱丈五六尺(およそ4.5m)高く来ると後日に承り候

一  五日大地震の節、当所(川入)より未申(南西)に当り、日吉、八王寺辺に大に声立、何事と思ふ内にゆり出し申候、其節諸方之声、甚恐ろしき声に候、則其時より夜通し、六日昼、同夜七つころ迄も、宮寺山伏祈祷、村々少しの間も止時なし、昼夜太鼓、ほら、不相止、いづれも生たる心地はなしと言

一  地震もゆりく(揺り来?)時分には大き成音のする物也


-------------------------------------------------------
大地震の後も、余震による津波がやってきていたのですね。
地震の直前には、南西の方角から恐ろしい「声」(地鳴り?)が聞こえたようです。
地震直後、神社仏閣では夜通し祈祷が行われたのでしょうか。


さらに、惣五郎は上方や東海道などの様子を記した書付も、写しています。

つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




(川入村の東方、岡山方面の村々の様子)

一  定杭大痛、潰家十三四軒、半潰多く、無事成家はなし、撫川庭瀬之内にても七八軒潰、撫川大橋、柱ゆり込橋落る。目もあてられぬ事に候

一  びくに橋、三四軒潰、地面ひくく成田地もこれ有り、又青土吹出候家もこれ有り

一  一ノ宮も大痛に候へども、撫川程にはこれ無し

一  浜村之内、中樋の東、田の中に青土吹出し居候に付、見物に参候所、所々に穴明き吹出候と見、吹出す時分はおよそ弐三尺(60-90cm)も吹上げ由候、其穴へ三間(5.4m)くらいの棒は少しも障りなしに、這入申候

一  岡山にても弐軒三軒ヅゝ所々に潰家これ有り

一  御野郡大痛之由、上道新田は別而大痛、家たおれ、又ずり込、数多き由

一  山寄村々は痛無レ数、子位庄、浅原、西坂、生坂辺<地図>は家壁等に痛なし

一  びくに橋は大痛に候へども、弐丁か三丁行、野殿村は痛数無し、往来より北手、山へ付候家は痛なし、往来より南手に有レ之家は壁損じ居申候

一  庭瀬、撫川、定杭は格別大痛に候へども、花尻にては一向損じこれ無し


----------------------------------------------------------------------
以上が惣五郎が見て歩き、書き留めた近隣の村々の様子です。 
「液状化で青土が噴出した跡の穴の中に長さ5m以上の棒がスッと入った」など、生々しいですね。

長時間にわたる大きな揺れにもかかわらず、山寄りの固い地盤に立つ家は損傷がほとんど無かったと記録されています。

しかし
裏を返せば、埋め立て地は液状化が激しく被害も大きいということです。
岡山の主たる市街地のある岡山平野は、ほとんどが埋め立て地なんだけど……
(ブログトップの、鬼ノ城から撮影したパノラマ写真に写っている平地のほとんどが、干拓によるものです)

安政地震後も干拓は積極的に行われ、埋め立て地はさらに広がっています。
(都道府県の中で最もゼロメートル地帯が広いのは、岡山県だそうです)


惣五郎はこのあと、地震当時の身の周りの様子や、その後見聞したことを書き留めています。

つづく

コメント ( 2 ) Trackback ( 0 )




五日大地震之節、近辺痛ミ

(当時、筆者「秋岡惣五郎」は川入村…倉敷チボリ公園の北西一帯…<地図>の名主でした)


一  川入にては、或は本家長屋一棟同様に付居申分、震候時分はおよそ壱尺五寸ヅゝ明き、是に而考候へば、瓦葺にて上み重き家は、壱尺五寸弐尺もかたむき候哉に被レ存(思われ)候、家々壁割れ、間には落候もこれ有り、ひさし等も痛み、落候もあり、

(壱尺は約30cm、一寸は3cm 壱間は182cm)

 大内村にては、東之方、北より南へ通し大痛、家々ひさし落、家ねじれ、地割れ、五寸位口を明け、青きどろを吹出し候家もこれ有り、又田地弐三尺もおし出し、すぐき畑大にゆがみ候も有、又壱間方、地面ずり込、其土いづれに行哉相知り申さず候、不思議千万、

又、下辺四十瀬新田之辺に而は、家も大痛、間には四五寸より壱尺位も地中にずり込候もこれ有り

一  水江村に、くりわた商ひ仕、舟積み場所、川原へ出し、俵数積かさね置候処、地震にてくずれ候節、砂場大に割れ、其割目へ壱俵転び込、其上へ砂かかり候故、其場居合候者、綿主へ知参候処、急ぎ参見候へども、壱俵紛失、いかがと疑念いたし候所、其所に高瀬舟居合、申には、相違もなく其割れ目へこけ込これ有り、掘て見よと申に付、砂にうもり居申候けしからぬ事に候

一  中嶋新田にては、ひさしなど落、急ぎ外へ出候へども、地面割、甚危くに付、歩行板、又ははしごなどに乗居候由、もっとも立ちながらは居られずと申位




--------------------------------------------------------------------------------------
う~~ん、地割れに俵が転がり込んだとは……
高瀬舟が居合わせ様子をつぶさに見ていて「間違いなくその割れ目に転がり込んでいるから、掘ってみなさい」と言わなければ、「俵がひとつ足りない」と一悶着起きたかもしれません。




近所一帯を見て回った惣五郎は、岡山方面にも足を伸ばします。

つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




甲寅大地震  嘉永7年甲寅(2514)   ……西暦1854年
十一月 地方希有の大地震あり。

 嘉永七寅十一月四日朝五つ過ころ大地震、五日晩七つ半ころ、格別ニ大地震、其節痛(破損)所により大造に候、

同月夕五ツ時、又大地震、其間々に小き分は数知れず、五日七つ半大地震より翌六日晩迄には、およそ三十五六度、間には小き分共には五六十度これ有るなど申候、

六日七日同様、尤、追々小くは成申候、

平場之村々は三四夕ヅゝは、外庭に小屋掛、昼夜居住、間には十四五日も外居住に仕候者もこれ有り、

後には昼夜に五度七度、十一月末より十二月に成候而は、二日に壱度、又三日に壱度、又一日に弐三度もこれ有る時も有、
既に二三十日壱度、卯正月朔月に壱度、五日に昼夜三度、十二日之夜大き成分壱度、小き分二度、十八日に夜大小弐つと申位に御座候、

何分にも長き地震、前代未聞に御座候





次回は、惣五郎が主に川入村近辺を見て回り、その様子を記録した
「五日大地震之節、近辺痛ミ」です。


つづく

----------------------------------------------
古い言葉づかいでも、地震の概要が分かるかな~~と思います。

原文は一つづりの文でしたが、読みづらいので数行に分割しました。
また、漢数字とカタカナが紛らわしいので、カタカナをひらかなに直しています。
また、返り点のあるものは読み直してみました。(これがチョット心配)

ともかく「古語辞典」片手にチャレンジです
間違いなどがございましたら、御指導ください。


コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




岡山県備前県民局の冊子には、「秋岡家文書 先考遺筆」がダイジェスト版で掲載されています。
その内容をここでご紹介するつもりでした。

ところが図書館で冊子の参考文献にあたったところ、「倉敷市史 第九巻」に「秋岡家文書:先考遺筆」のオリジナルが記載されている一節を見つけました。

目を通すと、ダイジェスト版にはない緊迫感が伝わってきます。
そこで急遽予定を変更して、オリジナルの全文を少しずつ紹介することにしました。



しかし、なにぶん敵は古文書。
悲しいことに、kamokamoには古文書を読み解くスキルも、現代文に翻訳するスキルもありません。

せいぜいカタカナをひらかなに直すくらいかなぁ……
えっ、そんな必要は無いですって?? 失礼いたしました


この間、エクササイズやMac君関係の日記はこちらに掲載しますよん。



つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




新聞もテレビもなかった150年前の安政大地震と、61年前の昭和南海地震がどうして比較できるのでしょうか?
それは震災の後、当時の名主や大庄屋が自分の村やその周辺を見て回り、被害状況を克明に記録していたものが古文書として残っているからです。 ホー

しかし多くの岡山県民はそのような古文書があること自体知りませんし、図書館の書庫に保管されたこれらの古文書を目にすることも一生無いでしょう。ネットで検索しても、その概要さえ定かではありません。
そこで、手元の冊子から抜粋して、一部をここで紹介することにしました。

手元にある「岡山県南部における南海地震の記録:昭和南海地震・安政南海地震」は当時の古文書や「岡山県三国地図」や新聞報道などを使用して、大変わかりやすく興味深くまとめあげられています。

「岡山県備前県民局」が制作した渾身のこの冊子には、25ページのものと29ページのものの2種類ありますが、蔵書検索の結果、岡山県下の図書館には現在25pのものしか所蔵されていないようです。29pの方が余程面白く価値もあると思うのですが…… 
29pの方も、そのうち収蔵されるのかなぁ?



以下は29ページの冊子を参照したものです。


■【日笠家文書】【矢吹家文書】による安政南海地震の概要

11月4日朝五つ時(1854年12月23日午前8時頃)過ぎにかなり大きな地震があり、同日の夕方にも3度地震があった。
5日の晩七つ時(24日午後4時頃)に大地震が起こり、長い間揺れた。南西の方角からどろどろという大きな音が聞こえて、実に恐ろしく記述出来ないほどの大変な揺れであった。

地震の揺れは長い揺れにつき、3~4丁(330~440m)離れたところへ行って帰るほど長時間揺れた。(1分間に70m歩くとして10分強)

5日夕方の大地震の後、夜五つ時(午後8時頃)頃再び大揺れし、夜通し休み無く揺れが続いた。
6日朝にも一度相当な揺れがあった。
同日から10日頃にかけては、日中に3、4度、夜には3~5度、10日には一日に2、3度14、15日頃には小さい揺れが一昼夜に2、3度くらいとなり、次第に収まった。


■【虫明村記録】による津波の記録

安政元年の大地震の際には、海嘯(津波)があった。
一昼夜に海水の進退は2、30回におよび、満潮時には一時平水よりおよそ7尺(約210cm)も高くなり、このために瀬溝海峡(長島と本土の間)はおよそ3尺余(約90cm)の土砂で塞がれ、扇浜(虫明地区)は泥土2尺(約60cm)で埋まってしまった。それまでは300石摘の船舶が停泊していたが、いまは漁船が入るのみ。





つづく

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )




先日、南海地震関係の大変興味深い資料を見せてもらいました。

その中からいくつか抜粋して、昭和南海地震(以下昭和)と安政南海地震(以下安政)の両地震を比較してみました。


【起こった日 震源 マグニチュード】
昭和 1946年12月21日午前4時19分 震源:和歌山沖 M8.0
安政 1854年12月24日午後4時頃  震源:土佐沖  M8.4
(安政地震のエネルギーは昭和の4倍)


【同時発生した東海・東南海地震】
昭和 2年前に「昭和東南海地震」 震源:三重県志摩半島沖 M7.9
安政 32時間前に「安政東海・東南海地震」震源:遠州灘 M8.4

過去の南海地震のパターンを見比べると、多くの場合まず東海・東南海が発生し、それから数時間(この場合はほぼ同時と考えられている)もしくは1~3年後に、南海地震が起こるようですね


【岡山の震度】
昭和 震度4~6 湯原:軽震 西大寺:烈震
安政 震度4~6 被害甚大。しかし山辺の浅原、西坂、生坂では被害家屋はほとんどなし
震度の違いは、地盤の固さによるものだとはっきり分かるわね


【揺れた時間】
昭和 湯原1分 岡山5分 矢掛・福渡10分 
安政 美作で10分以上(美作の矢吹文書による)
1分でもゾッとするのに、10分以上って……想像も出来ないわ
 
【津波】
昭和南海地震 岡山県1.0m以下 高知県・徳島県では5~6m
安政南海地震 岡山県は虫明2.1m児島で5~6m 高知県11m 徳島県9m 大阪湾2.5m
       長時間にわたり何度も襲来。
う~~ん、安政では岡山にも高い津波が押し寄せたのか。


【液状化と地盤沈下】
昭和 広範囲に液状化 江戸時代以降の新しい干拓地が30~60cm沈下
安政 昭和より広範囲に液状化。泥水が吹き上げ地面低くなり、家が地面に潜り込み田畑が歪んだという記録多数

液状化が起こった地区では家屋への被害も著しく、南海地震では建築物倒壊の主な原因は液状化みたいです。
現在、市街地のほとんどが埋め立て地なのに


つづく

コメント ( 2 ) Trackback ( 0 )




ジリジリと焼き尽くすようなこの猛暑はいったい……
こんなときは、やっぱりプールにかぎるわね。
芋の子を洗うような人数でも、整然と泳ぐ講習なら大丈夫。
お盆なら参加者も少ないだろうと、久しぶりにサークルに参加しました。

ところが
予想に反して大盛況、2レーンでは足らず3レーンのサークルとなりました。
ここらあたりは田舎だから、帰って行く人より帰ってくる人の方が多く、お盆期間の路上は県外ナンバーの車で溢れます。お母さんたちは皆、帰ってきた子供たち(家族)と仏さまの世話で大忙し(kamokamoも)。
そんなお盆の真っ只中、まさかまさか、こんなにサークル参加者が多いなんて……

泳ぐ距離は1200m。
しかし一気に1200ではなく、十分休みをとりながらなので、病み上がりでもそれほど負担にはなりません。


「まったく非常識で理解を超えている」
家族にはすっかり愛想を尽かされているけどね




さて
14日は和尚さんに家に来ていただき、ありがたいお話をうかがいいました。

「仏具、ぴかぴかですね。 kamokamoさんが磨くんですか?」
「はい……」
「大変でしょう?」
「汗だくにはなりますが、エクササイズだと思ってやってます」


「それは………自分を磨いているんですよ」


おぉ………
お盆の準備でほとんど死んでいたkamokamoは、この言葉で目が覚め生き返りました。


さらに続けて

「神社のご神体は鏡が多いでしょ? あれは自分を映すための鏡です」

「神社では、鏡に映った自分自身を拝んでいるのです」

(うゎ、そうだったのか。 拝んでも恥ずかしくないように自分を律し、磨いておかなければ……)

「まず自分、余力があれば他です。 まずは自分自身を大切にしなさい」




その夜

「和尚さんの御墨付きももらったし、これからも自分を磨くために泳ぐわよ!」

改めて家族に宣言して、サークルに出かけたkamokamoでした。




「おいおい、今日の説話はそういう意味ではないと思うんだが……」

コメント ( 0 ) Trackback ( 0 )



« 前ページ