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iPodでエクササイズ

iPodで、退屈なマシントレーニングを楽しいものに変えましょう!






さて
マスターズにエントリーするためには、直近のタイムを申告しなければなりません。
スイミングサークルの後、そのためのタイム測定が行われました。

kamokamoは久しぶりに出席した平泳ぎの講習が腰に響いている上に、満員電車で風邪をもらって帰ったらしく、朝から体の節々が痛く絶不調 しかし、これが申込み締切前の最後の記録会なのでパスする訳にはゆきません。

おまけに、サークルでは中級レーンが10名以上で満員御礼のため、3名しかいなかった上級者レーンへ強制移動させられました。
う~~ん、泣きっ面に蜂とはこのことかしら……

ほとんど休息のない上級者メニューにすっかり顎が上がったところで、いよいよ記録会へ。


えっ?kamokamoが一番最初に泳ぐの??
ちょっとぉ、ジョーダンでしょ? 年寄りはいたわるものですよ!

平泳ぎはたった二人しかいないので仕方ないですって??



結果は………  一緒に泳いだおじいちゃんに負けてしまいました。
しかも、去年のタイムより悪いではありませんか!!!

………へこみます

基礎体力づくりをおろそかにしてきた結果が、こんなときに分かるなんて………




帰宅するやいなや引き出しの奥からiPodシャッフルを取り出し、トレーニング用プレイリストの見直しを始めたkamokamoでした。

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五重塔が再建された文政・天保・弘化は、一体どんな時代だったんだろう?


現在岡山倉敷総社の市街地となっている広い平野は、古代条里制の時代から近年に至る怒濤のような干拓によって形成されたものです。
高梁川分流の川底だった現在の総社市街地は平安時代に作られた十二ヶ郷用水によって、また海の浅瀬だった倉敷周辺は戦国時代からの干拓と酒津村から開削された八ヶ郷用水によって、整然と区画された農耕地へと姿を変えて行きました。

江戸初期の「倉敷村」(現在の美観地区あたり)には水夫屋敷が並んでいたといいますから、その頃倉敷はすでに米など様々な産物の集散地だったようです。
そこらあたりの事情に目をつけられたのか、1642年に倉敷は幕府直轄の天領となり代官所が置かれました。

幾人もの代官が倉敷へ赴任しては、また帰って行きました。
中には

「下津井屋、そちもなかなかの悪よのう」
「いやいや、桜井様ほどではござりませぬ」

時代劇も真っ青の悪代官も……



そんな歴代代官のエピソードから、「文政」当時の倉敷代官「大草太郎右馬 政郷」のお話を拾い読みしてみました。
(以下は「倉敷市史」からの抜粋です)

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文政年間は倉敷史上、最も多事の時代にして、外に児嶋海開拓の大問題あり、内に新六古六の大紛争あり、而して当時の代官大草太郎右馬は、傑出せる手腕家にして、且つ最も薄倖多難の人なりき。

備中の倉敷の御代官、大草太郎右馬君と云へるは、孝子の聞へありて、然かも豪傑なる由。先頃大阪の同心組入り込み、賄賂を貪り不法の振舞いなりしを直ちにを掛け、からめ捕りして、備中一円に聞き伝え、知るも知らざるも畏服し、詩人は詩を詠じ、歌人は歌に連ね、賞誉することなりき。

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へぇ~~
「詩人は詩を詠じ、歌人は歌に連ね」かぁ………



つづく

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備中国分寺五重塔の二重鬼瓦の作者「梶谷 定次郎」はどんな人物だったのだろう?
阿吽の鬼瓦と額の紋章は、当時はどんな意味を持っていたのだろう?

本を読んでも核心に迫る部分には至らず、手がかりも掴めないまま日々が過ぎてゆきます。


しか~~し、鬼瓦に刻まれた銘が
初重「備中宿、高谷七三郎」
二重「同国(備中国)窪屋郡酒津村住人梶谷定次郎」
三重は

「下道郡服部村住瓦師瀬崎文吉・国広 当村高谷七三郎」

である事が分かりました。



「備中国分寺五重塔保存修理報告書」には、三重鬼瓦の作者は

「服部村 瓦師高谷七三郎」

とだけ記載されています。

kamokamoはその「報告書」を読んで、高谷七三郎は「初重」と「三重」のたった3年のあいだに「宿」から「服部」に工房を移したのかと思っていましたが、七三郎は「当村」ですから工房は「宿」のままだったことが分かりました。

納得しました。



でも………

公文書に近い「保存修理報告書」がそんないい加減なことでいいの?
やっぱり納得出来ないわよ~~~~!!


それにしても、三重鬼瓦が三人がかりとは驚いたわね……
しかも、新たに加わった「瀬崎文吉」は当時近隣では有名な瓦師だったそうです。
銘の無い四重五重は、一重三重と似ているから、三重の作者と同じ「瀬崎 高谷」のグループでしょう。


鬼瓦の作風から見ると、恐らく紋章のある二重鬼瓦だけが「梶谷定次郎」ね……
どうしてだろう?

「瓦師」ではなく「住人」というところも気になります。

こうなると
ますます二重鬼瓦に銘を刻んだ「梶谷定次郎」の素性を知りたくなっちゃうわ。



それにしても、五重塔が再建された文政、天保、弘化にわたる20年間はどんな時代だったのだろう?
平穏な時代だったのか、それとも動乱の時期だったのか?



つづく

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「不都合な真実」と「バイオエタノール」
どちらも「大気中の二酸化炭素量」に焦点を合わせてはいるんだけれど
何だろう、この両者に共通して感じる不快感は……

地球温暖化に対する「今更ながらの問題提起」と「数字合わせの解決法」のマッチポンプとして見えてしまうのは気のせいかしら?

まぁともかく、政治がらみの「不都合な真実」が上映されるまで、アメリカの一般人が大気中の二酸化炭素増加による地球温暖化の深刻さを全く知らされていなかったという、「驚くべき真実」も伝えてほしいわね。

ゴア氏のプレゼンに使われたグラフ、kamokamoは何年も前に日本の週刊誌とか新聞の家庭欄とか色んなところで見たわよ。 ゴア氏が「不都合な真実」で平和賞を貰ったことを、京都議定書に参加しなかったアメリカは恥じるべきだわよね。

しかし、その京都議定書では、「バイオエタノール利用によるCO2は排出量としてカウントされない」と定義されているらしいじゃないの。

広大な熱帯雨林を焼き払い「エメラルド砂漠」と呼ばれる見渡す限りのサトウキビ畑に変えて、サトウキビを絞った後はまた焼き払うという方法で作られたエタノールで「二酸化炭素の総量が増えない」……ってチョット考えられないけど、一体どういう計算をしているのだろう?

それまで草一本生えていなかった不毛の砂漠で栽培したサトウキビを使ったなら、CO2収支がトントンになると素人にもすぐ理解できるんだけど? よくまぁ、抜け道を考えるものだわ。

将来、石油に替わるCO2の心配がない恒久的エネルギー(身近な核融合炉としては太陽もあるんだけどね)の利用が進みバイオエタノールが見向きもされなくなったとき、熱帯雨林を切り開いた「エメラルド砂漠」が放棄されて本当の砂漠になってしまう可能性は無いでしょうね?


CO2排出量の呪縛から手っ取り早く逃れるためとはいえ、天候や病害虫に生産を大きく左右される農作物にエネルギーを依存するのはリスクが大きすぎるし、人間は安価な人工甘味料を使った菓子などを食べさせられているというのに、車庫の車はサトウキビから作られるラム酒で走っているなんて、想像しただけでも血が逆流しそうじゃない。



「ナショナルジオグラフィック」10月号で、「地球の悲鳴 バイオ燃料:救世主、それとも悪魔?」という特集が組まれていました。 それによると、関係者の大変な苦労にもかかわらず、バイオエタノールによる将来像はかなり悲観的です。

今後エネルギーと食糧の需要はますます増加する一方、温暖化による影響で農業生産性は先細り。
今でも毎日25000人もの人間が餓死しているなか
「バイオエタノール」の影響でますます食物需給がひっ迫すると、一体この先どんな修羅場がまっているのだろう?
これから身の毛もよだつ食物争奪戦が始まるだろうけれど
食料自給率が低い日本はとんでもないことになりそうね。


kamokamoは数年前、Jr.から「バイオエタノールは、さとうきびの搾りカスや雑草から作られるんだよ」と聞いたことがあり、この夢のような技術が早く実用化されればと思っていたんだけど、その「セルロース系エタノール」は「まだ実験段階にあり、実用化されていない」ですって。

ちょっとぉ、人間の食料ではなく、雑草とかトウモロコシの実をとったあとの軸とか、サトウキビの搾りカスとかから作る「セルロース系エタノール」が実用化されてから、バイオエタノールに移行してくれないかしら

だいたい誰が、食料を削ってまで車に乗ろうだなどと………






げげげ、毎日車に乗っているじゃない!
kamokamoも、アメリカ人とどっこいどっこいかぁ……

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さて、一心不乱にバタフライに精を出した(ホンマかいな?)kamokamoです。
後半に失速しながらも、なんとか25m先の向こう岸に辿り着けるようになりました。
やったー

そういえば、最近はバタフライと背泳ぎのレッスンしか受けていなかったわ……
他の講座といえば、たま~~に、偶然、行き会わせたとき、気が向けば、クロールのレッスンを受けているくらいかも。

平泳ぎに至っては、前回講習を受けた時を思い出せないくらいです。
前回のマスターズ以来だから、かれこれ1年になるかな。


普段も滅多に泳がなくなったな~~、平泳ぎ。
好きなんだけど、なんか経験的に腰に悪いし、クロールの方がずっと楽だし。


久~~~しぶりに、お昼の講座に参加しました。
そういえば「イヴ姫(ボストンテリア)」がやってきてからは、ずっと夜の講座だったからね。

昼の部の「サークル」は夜の部より距離も長く休みも少なく、かなりハードです。
また、昼と夜ではメンバーもガラッと入れ替わります。

「あら~~かもちゃん、久しぶりね、元気だった~~??」
「体でも壊してるんじゃないかと、皆心配してたのよ。」

昼のサークルにくるのはホント何か月ぶりだろう?

「わぉ、皆さんお揃いで嬉しいわん! イヴ姫のお付きの者が誰か帰宅してからプールに来ていたから、ずっと夜の講習に参加していたのよ。」

「まぁ、ワンコちゃん、おりこうさんにお留守番が出来るようになったのね。」
「じゃ、マスターズのエントリーしておくから。 メドレーリレーで、かもちゃんは平泳ぎ。」
「そうそう、平泳ぎがいなくてメドレー組めなくて困っていたのよ。良かった~~」
「かもちゃんなら大丈夫。期待してるわよ!」


「えっ、えぇぇぇええ~~???」



散々おだて上げられて断れなくなったkamokamoでした。
う~~~ん

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名月「玉兎」つながりで恐縮です

鬼瓦の額の紋章に使われた「金烏」「玉兎」
この言葉を適当に受け流そうとしましたが、やっぱり避けて通れなくなったのが「陰陽道」です。
映画で一躍ブームとなり脚光を浴びた陰陽師・安倍晴明(kamokamoは見ていません)に、門外不出の秘術として受け継がれた奥義が「金烏玉兎集」と名付けられているそうです。 そこでAmazonで陰陽道に関する本を数冊取り寄せて読んでみました。

陰陽道は、もともと天文や暦・気象や地理学を「秘伝」として伝えたものだったようです。「月食の予言に失敗したことでその信頼を失った」という話もあるそうですから、かなり正確に日食月食を予測していたのでしょうか?? これには驚いてしまいます また、星の間を動き回る惑星の位置を観測して吉兆を判断し、いち早く帝に伝えるのも陰陽師の役割だったそうです。なんだか現代の国立天文台の役割に似ていますね。

kamokamoは占いなどは半信半疑だけど、古代に天体を観測して日食や月食を予測した「秘伝」には敬服せざるを得ません。(古代の満天の星は素晴らしかっただろうなぁ


都の造営にも影響を及ぼした陰陽道の一要素「風水」も、今では「風水占い」「西に黄色」などと何やら胡散臭く迷信にすぎないと思われがちですが………  
たとえば沖縄地方では、どの家も「琉球風水」に基づいてフール(豚便所)を必ず母屋の北西に配置しました。 また家畜小屋も西に置き、台所のカマドも母屋の北西隅に据えていました。(沖縄県中城村の中村家住宅を実際に見てきました。)
これにはきっと理由があるに違いないと宮古島気象台の風向度数を見たところ、地上付近でほぼ常時東風が吹く貿易風帯にある宮古島では、年間を通じて西~北西の風が極端に少ないことことが分かりました。 沖縄本島も貿易風帯ですから、西~北西にそれらを配置しておけば、フール(豚便所)の臭いやカマドの煙が母屋に入って来ることは、ほとんど無いわけです。

このように、帰納法的・経験的な地理・気象データに基づいた暮らしの知恵を(呪術的な脚色を加えて)世に知らしめたものが、「風水」本来の姿だったのかもしれません。

ところで
この「風向度数表」を見て気が付いたのですが
もし北東に豚便所やカマドがあったら………最も頻度が高い北東方向からの風に乗って、強烈な悪臭や煙が家の中に四六時中充満し、大変なことになりますよね……… 
偏西風帯(上空で西風が吹く)にある日本列島では理由も分からず不合理にも思える北東の「鬼門」も、貿易風帯の琉球諸島ではまさに「トイレはタブー」の「鬼門」となるんだけれど……
もしや、ひょっとして「北東の鬼門」って………??



道教や密教の思想と深い関係を持ち、惑星の位置による占いで朝廷貴族に重用されていた陰陽道はその後、時の政権(秀吉)によって断絶の憂き目に遭いました。 貴重な書物や機材も破棄され、学術的な技も途絶えました。 江戸期には再興を果たしますが、技は野に放たれ劣化し百家争鳴状態になり「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のまじないとなったそうです。しかし何故か「庚申」(書籍「ミサキと荒神」によると「庚申=荒神=金神」)や「怨霊」「鬼門」などなど、下々にもてはやされ爆発的に流行したそうです。
今でも名残があるかも。

自然科学が学問として導入されると陰陽道の「天文、暦、地理、気象学」はその役割を終え、明治政府から禁止令も出されて「祈祷」や「お払い」など呪術の要素を「神社」に譲り表舞台からその姿を消したそうです。


しか~~し
五重塔鬼瓦が作られた「文政」といえば、まだまだ陰陽道が現役で日常に生きていた時代。
阿吽の鬼瓦に描かれた「金烏」「玉兎」は、一体どういう呪術的な意味をもっているのだろう?


つづく

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