iPodでエクササイズ

iPodで、退屈なマシントレーニングを楽しいものに変えましょう!






大会も間近に迫ってきました。

プールの講習では、大会出場者には別メニューが組まれ、少なくとも1000mは泳ぎ込むようになっています。サークルでは1700mを泳ぎます。
ブクブク・パーから始めてこんなに泳げるようになるなんて、ホント思いもよらなかった。
時々大会があることも励みになって、有り難いことだわ。

一緒に頑張っている仲間たちも個人種目ではライバル、kamokamoの方がタイムが悪かったら「次は負けないぞ」と心密かに誓い、練習に励みます。
一方リレーでは同志、連帯感も増してなかなかいい感じのバランスです。



そんなこんなで
シャッフルをポケットに忍ばせてのトレーニングにも、熱が入ります。
しかし、回を重ねるとマシンの負荷をかけすぎてしまうことも。
うっかりするとピッと電気が走り、その後三日くらいは腕や足が上がらなくなります。

ついこの前もそれをやってしまって、ようやく回復したところです。
調子に乗って同じ事をなんども……懲りないわね、マッタク。

少し筋力が衰えた気もするけど、まだまだこれから。
大会まで、残りわずか。
さぁ、またガンガンやるわよ!



サークルの後

「大会も近くなって来ました。これからは今までの疲れを回復し、本番に備えて十分英気を養って下さい。今後の講習は流す程度にとどめます」

えぇえ~~、kamokamoはこれからトレーニング再開なんですけれど……

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年一回、恒例のグルメ団体旅行に行って来ました~
(このための積み立て貯金もしていますよ~~)

今回、皆の話題はメイン店より「吉兆」でのランチと朝食に集中。
なにしろ団体予約だから、今さら変更は出来ません。

しかしよ~く聞くと問題を起こしている船場吉兆とは関係が無い事がわかり、かつて東京サミットでも供されたという日本料理の粋を、安心して味わうことにしました。

京都の「花吉兆」、無論お味は言うこと無いですが、最後に出てきた温泉玉子と湯葉のあんかけ雑炊の美味しさには感動しました。 さり気ないメニューですが、これは流石です。

また、大阪某ホテルの「吉兆」、こちらは大阪の本吉兆の経営ということです。
焼き立てのふっくら塩サバとあつあつのお味噌汁、こちらも特に変わったところも無いメニューですが、大変美味しい朝食でした。

どちらにも共通していたことは、あの固形燃料を使う小さな一人用の鍋が無かった事です。
あの鍋、ロウ燃料の臭いが周囲に立ちこめて気持ちが悪くなるのよね。
店によっては味噌汁や魚の干物まであの固形燃料で暖めるため、1人前で2つ以上の鍋を使い、充満するロウの臭いでクラクラしてくることもあります。
団体でも、それを使わなくてもあつあつの焼き物や汁物を出し、ごく普通の料理が特別においしい「吉兆」は、さすがという他ありません。




さてさて、それはさておき

今回のメイン店は、大阪北浜のイタリアン。
行き先は、団体さんは滅多に入れないけれどメンバー某氏のコネで団体予約ができたという、とっても有難い店だそうです。

店に入ると、各席には25cm四方くらいのガラスのプレートが置いてあり、それを挟むように大量のフォークとナイフが配置してあります。
なかなか始まらないとヤキモキしていたところ、30分程経っておもむろにプレートが取り除かれました。
あれ?
この上にオードブルかスープを置くんじゃないのね?

ボーイさんに某某さん:「このプレートはなに?」
ボーイさん:「シェフのイニシアルでございます。」
某某さん:「いや…その…… なにに使うの?」
ボーイさん:「このプレートは使用いたしません。」

イタリアンといえばスパゲッティ・グラタンドリアとピザだと思っていたんだけど、そうじゃないみたい。
出てくる料理はシェフの創作料理なのか、滅多に口にすることもない珍しい素材を使ったものばかり。

しか~~し
この歳で、初めて口にするものに臭いの強いオリーブ油コッテリ料理が何皿も……は、やっぱりきつい。
しかも団体の平均年齢に対する配慮なのか、味のベースは醤油。
ほとんどの料理の味付けが大量のオリーブ油と香辛料と醤油のコラボ………
おまけに、熱くあたためられた皿に冷たい生肉が盛られていたりして……
とうとう口と胃が受け付けなくなってしまいました。

さらに
パンにまで青臭いオリーブ油をつけて食べるのはもううんざりとバターを頼んだら、30分以上たった後、何度も催促してようやく業務用バターを荒く削ったようなブロックが出てきました

でも
口直しのシャンパンのお菓子は美味しかった~~
こういう、シェフの肩の力が抜けた余裕メニューを色々と食べてみたかったのに。
残念だわ……


ここでは次の皿が出てくるまでの間がともかく長く、入店してデザートが終わるまでにかかった時間はなんと3時間半。(30分に一皿くらいのペースかな)
最後は、切れそうになった同行のご老人をなだめることに終始し、非常に疲れました。

団体さんだから時間がかかったのかと思っていましたが、近くの一般客にも同じようなペースで料理が出されていたようです。 同じ頃に入店し、3時間半後もまだいたという某某某氏の近くに座っていたカップルは、男性が3時間半のあいだずっと女の子を口説いていたそうです。

「ああいう目的には、時間がかかる方が好都合なんだろうな……」
とは、某某某氏の弁。


おまけに
足の短いkamokamoは、椅子の足が長過ぎて踵が床に着かず、座面でずっと圧迫され続けて血行が悪くなっていたためか、3時間半ぶりに立ち上がったときに太腿裏の筋肉が痙攣を起こしてしまいました。

ふぅ………

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NHKで放映された「かぐや」の月の映像、素晴らしかったぁ~!
45分がアッという間で、もっと見たいと思っている間に終わってしまったわ。

思わずキャプチャ映像を繰り返し何度も見てしまう……
編集で月画像だけにして、パソコンのスクリーンセイバーにしたいわね
(キャプチャでは画素数が足りないか…)
月画像だけのハイビジョンDVDが販売されたら買っちゃうわ。
ともかくこれ、永久保存版にしておこうっと。

jaxaサイトでかぐやのフラッシュも公開されているわね。
これからも、時々かぐやの映した月世界を見せてもらえるのかしら?
ワクワク


さてさて、唐突に再登場したシャッフルです。
引き出しの奥に長い間眠っていた間に、なんだかバッテリーがヘタっちゃったかも。
ヴォリュームもあまり大きくならないし……
まぁジムのトレーニングマシンの音が大きいから、ヴォリュームが大きくならない気がするだけなのかもしれないわね。
なにしろウォーキング、ランニング系のマシン数十代台が常時フル稼働で、ガンガラガンガラと結構ウルサいからね。

まっ、音質がどうこうって環境じゃないし、バッテリーは1時間保てばいいし
1時間以上トレーニングすると体が壊れそうになっちゃうじゃないの。
この前のようなこともあるから、年寄りの冷や水は厳禁よね。
ナンチャッテ、またまた負け惜しみはよしなさ~~い

トレーニングのメニュー変更は、BPMと時間を見ながら曲を並び替えるだけなので、超簡単です。
曲に飽きたら、同じBPMのものと入れ替えて気分一新です。

そんなこんなで……
とうとう、kamokamoのシャッフルはトレーニング専用iPodになってしまいました
でも、ジムの会費一か月分のお値段で、こんなに長期に渡って健康づくりに貢献してくれるシャッフルって、ホントに有り難いわん。

古い機種だけど、大切に使わなくては……

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以下、ふたたび倉敷市史からの抜粋です。
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児島海開拓の大事業完成に先立つこと一年、文政5年には倉敷村未曾有の大事件たる新六古六の訴訟起り、同7年遂に江戸公事となり、9年に至って内済、事件は一応落着したるも、紛糾容易に解けず、11年正月やうやう村役人全部更迭の善後処置を行ないしが、村人帰依、不帰依を唱へ新旧組分けの論起り、恒例の宗門人別改すら行ふ能はず、6月23日遂に武装足軽の派遣を備前藩に求め、代官所役人出張、村役人同行、足軽を従へて、これを遂行するの事態を惹起せり
備藩足軽借用書には代官父子の連名を以てせり。

この事件の後幾ばくも無く、7月23日、大草代官の喪は発せられ、当分子息太郎左衛門のつづいて事務を見る事となれるは前に記せるが如し。

代官在任中は東奔西走、殆ど安寧な日は無く、手代等の出入往復頻繁にして多額の失費に苦しみ、再び父の履轍を踏まんとするの危機に陥り、その上「新六古六一件」があり、遂に責を引いて自刃するに至る。

而して、子息、門左衛門なほ若く、事後まことに容易ならず、乃ち伯父の後援により備藩に銀95貫目を借り、一時の急を凌がんとす。

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過労死とも思われる名代官の自害と、残された家族の窮状には、胸が潰れる思いです。

文政11年8月3日、大草代官は代官所の南東にある長連寺に葬られました。
しかし代官の死後も、相変わらず倉敷は騒然としていました。
天保6年には、次の古橋代官が古六の年寄をゴリ押しして再び混乱します。
しかし程なく古橋代官が亡くなり、事件は円満解決。
天保12年、高山代官のとき庄屋水沢氏と植田氏が同時に引退し、ようやく倉敷村は平静になりました



それに先立つ天保元年、長野県中野市西江部に大草稲荷が祭られます。
代官所を通じて、倉敷に於ける大草代官の無念の死を、村人が知ったのでしょうか。

「大草稲荷は、西江部神社の境内にあり、五穀の神稲荷社と、幕府領中野陣屋代官大草政郷の神霊を合わせて祀っています。高さ2mの角柱型石碑で、全身石造りです。石碑の上部は笠と稲荷を祀る室、下部は大きな屋根と軸部からなっており、軸部四面の碑文は隣村東江部村の豪農山田松斎の手によるもので、大草稲荷の由来を見事な漢文で表現しています。時代劇の影響などにより、代官の一般的な理解としては「悪代官」のイメージが強くなっていますが、大草政郷のように地元の人々に顕彰される代官がいたという事実は、正しい歴史認識のためにも重要です。また西江部では天保4年(1833)以降今日まで年々祭祀を執り行ってきていることや、名文である碑文など、中野市の有形文化財としての価値も高いものです」(中野市教育委員会HPより)

倉敷では大草太郎右馬政郷を知る者は僅かですが、長野県中野市西江部では今に至るまで手厚く祭られているのですね……

大草代官のお墓は倉敷にありますが、その魂は西江部の人々と共にあるのでしょう。
見事な漢文で表されているという稲荷の碑文を、一度見てみたいものです


(「倉敷代官・大草太郎右馬政郷のおはなし」はこれで・お・し・ま・い・)




つづく

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大草代官を苦しめた【新六古六の争】

「新六」は新勢力、「古六」は旧勢力の意味です。
倉敷は全村が真っ二つに割れ、その争いは宝暦明和の頃から天保まで続きました


以下は「新六古六の争」の概略です。

大草太郎右馬政郷が倉敷にやって来る60年以上前から、倉敷では新旧の勢力が対立していました。
旧勢力とは水夫屋敷十三組の組頭・いわゆる十三軒衆の旧家です。
これらの旧家がおよそ200年もの間、倉敷の村役全ての職を独占してきました。
長い年月の間には旧家とは名ばかりに没落したもの、あるいは村役には力量の足りない者もおり、それを快く思わない人々が出てくるのも、まぁ自然の成り行きというものです。
力をつけてきた百姓たちは、十三軒衆による村役独占を不服として、機会ある毎に会合を持ち書状をしたため反抗を試みていました。

大草太郎右馬政郷の支配となった後紛争は激しさを増し、文政7年とうとう江戸公事となりました。
文政8年3月、村役に江戸奉行所に出頭するよう命令が下った時、嘆願書を持った数百人が役所に押し掛け、門訴してこれを阻止しようとしました。
全村両派に分かれての深刻な対立となり、双方道で遭っても全く口も聞かず、数年間氏子の祭りも出来なくなったそうです。


文政9年5月26日、この江戸公事は新派の勝利で決着します。

十三軒衆の村役独占を認めない。
現在の村役人の総辞職。
村役人は高得総百姓の公選による。

以上のように、200年ぶりの村政大改革となりました。
しかし、この後も村役公選を巡って両派の対立は続きます。



そんな中
文政11年7月29日、「かねてより病気療養中のところ……」と大草代官の死が発表されます。

大草代官の墓碑には、逝去が発表された文政11年7月29日が歿日として記されています。
しかし、寺の過去帳には「幸徳院殿上沢良栄居士 文政九丙戌五月十日 大草太郎右馬様」とあるそうです。
代官所の記録にも「実は……」という記述があるそうです。
本当の歿日は文政9年5月10日、2年間もその死が伏せられていたんですね

伝えられるところでは、新六古六の一件の責任を取って切腹したということです。
文政9年5月10日………それは江戸での訴訟が決着するわずか16日前のことでした。





つづく

注)
「新禄古禄」かとも思いましたが、倉敷市史に「新六古六」とありましたので、そのまま掲載しています。

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どのような生い立ちが「名代官:大草太郎右馬 政郷」を育んだのでしょうか?


【生い立ち】

1778年生
大草太郎右馬政郷の父・太郎左衛門は、わずか15歳で累代の官職と共に多額の借財を受け継ぎました。
それが遠因で48歳のときに八丈島送りとなります。

元禄12年に赴任した第12代倉敷支配にも「大草太郎左衛門 正清」の名が見えますから、代々の代官職を受け継ぐ中で、大草家は借財を重ねたのでしょうか……

息子である政郷も、父の罪に連座して追放の身となりました。
彼は健気にも直ちに役所に願い出て父のいる八丈島へ赴き、九年間父と辛苦を共にしました。
その孝養が賞せられ、寛政10年、父子ともに罪を赦されます。

良かった良かった……

文化11年、念願の官職復職を果たした大草太郎右馬政郷ですが、代官として最初に赴任したのは恐らく稲荷にその名が残る長野県中野市でしょう。

大草代官は、前任地「中野」でも、困窮する人々を救うために奔走していたのですね!
これは嬉しい驚きに満ちた発見です。

昔なら到底探る術もないところですが、検索によってこのようなワクワクする事実を知ることが出来るネットって、ホントにありがたいと思います。

しかし、中野陣屋での懸案が解決した文政元年7月の直後、同8月には既に倉敷代官として赴任していますから、中野の人々とゆっくり祝杯を上げ、別れを惜しむ時間も無かったことでしょう。





「傑出せる手腕家」「孝子の聞へあり」「豪傑」……
倉敷人のみならず、備中一円の民も絶賛した倉敷代官・大草太郎右馬政郷。

長野県中野市では顕彰碑が建てられ、「大草稲荷」の祭神として祀られている大草太郎右馬政郷。


にもかかわらず
「最も薄倖多難の人」

とは、一体どういうことだろう?




つづく

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文政元年、倉敷に着任した大草太郎右馬政郷は「大阪与力一件」を数日で解決した後、直ちに「児島海開拓問題」に着手します。

【児島海開拓一件】

「干拓地の所属」「国境」「農業用水」「沿岸民の漁業保証」「倉敷川の通船」………
数々の難題をかかえた児島海開拓は、郷土の大土木事業家「津田永忠」が調停に失敗し断念して以来、数度の失敗を繰り返しながら百数十年間も解決を見ないままでした。

大草政郷はその人柄と情熱と粘り強い交渉力により、山のように立ち塞がる困難な問題をひとつひとつクリアしてゆきました。
文政三年調停がまとまり、四年に着工の運びとなりました。
文政七年、めでたく興除新田が完成します。

へぇ~~~、興除新田の用水は、湛井十二ヶ郷用水と酒津からの八ヶ郷用水の両方から引いているのかぁ……
地図で見ると確かに、両方の用水が興除村で整然とした長方形の網の目状に合流しているわね。 両用水の余り水を貰うということだったらしいど、利権意識の強かった双方から水を貰えるなんて、並大抵の力量じゃないわ

用水問題ひとつとっても、大草代官の卓越した人物像が分かるというものです。



一体、どのような生い立ちが「名代官・大草太郎右馬政郷」を育んだのでしょうか?



つづく

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久しぶりにシャッフルを首にぶら下げてジムに出かけました。
ジムは何か月ぶりだろう?

ありゃりゃ、若いお姉さんがシャツの裾にクリップのようにシャッフルを止めてるじゃない。
そういえばシャッフルもデザイン一新していたんだわ。
白い紐で首にぶら下げるのはもう流行遅れかしらん……
でもkamokamoはオバサンだから、案外古い機種の方が好感を持たれるかも。
それに汗をかいても惜し気がないし。

って、新しいシャッフル持ってるわけじゃないんだから
負け惜しみもいい加減にしなさ~~い


「新しい」と言えば、MacOSもレパードになったわね。
やっとタイガーに馴染んだところだったのにさ。
何だか面倒になっちゃって、新OSを速攻で使ってみようかって元気が出ないじゃない。
やっぱトシよね~~~
OS10.5.4くらいになったら使うかな。




さてさて
こういう時に気を付けなくてはいけないことは、焦ってトレーニングマシンの負荷をかけすぎて、筋肉や筋や関節をいためることよね……今までその過ちを何度やったかしら??
まずは自転車漕ぎだけど、軽い負荷から始めようっと。
チョットサドルが低い感じがするけれど、ま、良いか。

うわっ、なんてペダルが重いのかしら……
何か月も遠ざかっているとこんなになっちゃうのかな

などと思っていると、突然股関節の古傷が痛みだしました。
どうやらサドルが低過ぎて、ひざを深く曲げた態勢でかなりの力を入れざるを得なかったために負担となってしまったようです。

なんと……僅か10分でリタイアしてしまいました。
ガ~~~~~~ン

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