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以下、ふたたび倉敷市史からの抜粋です。
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児島海開拓の大事業完成に先立つこと一年、文政5年には倉敷村未曾有の大事件たる新六古六の訴訟起り、同7年遂に江戸公事となり、9年に至って内済、事件は一応落着したるも、紛糾容易に解けず、11年正月やうやう村役人全部更迭の善後処置を行ないしが、村人帰依、不帰依を唱へ新旧組分けの論起り、恒例の宗門人別改すら行ふ能はず、6月23日遂に武装足軽の派遣を備前藩に求め、代官所役人出張、村役人同行、足軽を従へて、これを遂行するの事態を惹起せり
備藩足軽借用書には代官父子の連名を以てせり。

この事件の後幾ばくも無く、7月23日、大草代官の喪は発せられ、当分子息太郎左衛門のつづいて事務を見る事となれるは前に記せるが如し。

代官在任中は東奔西走、殆ど安寧な日は無く、手代等の出入往復頻繁にして多額の失費に苦しみ、再び父の履轍を踏まんとするの危機に陥り、その上「新六古六一件」があり、遂に責を引いて自刃するに至る。

而して、子息、門左衛門なほ若く、事後まことに容易ならず、乃ち伯父の後援により備藩に銀95貫目を借り、一時の急を凌がんとす。

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過労死とも思われる名代官の自害と、残された家族の窮状には、胸が潰れる思いです。

文政11年8月3日、大草代官は代官所の南東にある長連寺に葬られました。
しかし代官の死後も、相変わらず倉敷は騒然としていました。
天保6年には、次の古橋代官が古六の年寄をゴリ押しして再び混乱します。
しかし程なく古橋代官が亡くなり、事件は円満解決。
天保12年、高山代官のとき庄屋水沢氏と植田氏が同時に引退し、ようやく倉敷村は平静になりました



それに先立つ天保元年、長野県中野市西江部に大草稲荷が祭られます。
代官所を通じて、倉敷に於ける大草代官の無念の死を、村人が知ったのでしょうか。

「大草稲荷は、西江部神社の境内にあり、五穀の神稲荷社と、幕府領中野陣屋代官大草政郷の神霊を合わせて祀っています。高さ2mの角柱型石碑で、全身石造りです。石碑の上部は笠と稲荷を祀る室、下部は大きな屋根と軸部からなっており、軸部四面の碑文は隣村東江部村の豪農山田松斎の手によるもので、大草稲荷の由来を見事な漢文で表現しています。時代劇の影響などにより、代官の一般的な理解としては「悪代官」のイメージが強くなっていますが、大草政郷のように地元の人々に顕彰される代官がいたという事実は、正しい歴史認識のためにも重要です。また西江部では天保4年(1833)以降今日まで年々祭祀を執り行ってきていることや、名文である碑文など、中野市の有形文化財としての価値も高いものです」(中野市教育委員会HPより)

倉敷では大草太郎右馬政郷を知る者は僅かですが、長野県中野市西江部では今に至るまで手厚く祭られているのですね……

大草代官のお墓は倉敷にありますが、その魂は西江部の人々と共にあるのでしょう。
見事な漢文で表されているという稲荷の碑文を、一度見てみたいものです


(「倉敷代官・大草太郎右馬政郷のおはなし」はこれで・お・し・ま・い・)




つづく

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コメント
 
 
 
大草太郎右馬 (ながれ)
2012-06-21 09:32:39
初めまして、大草太郎右馬の事を調べている者です。検索したところ、こちらのブログに大変詳しく書かれている事がわかり、最後まで興味深く読ませて貰いました。ありがとうございました。
 
 
 
ながれさん (kamokamo)
2012-07-03 14:59:33
コメントをありがとうございました。気がつかなくて申し訳ありません。
大草太郎右馬政郷について何かお役にたてたことがありましたら幸いです。

「近世・近代の地主経営と社会文化環境」という本に、山田松斎の手による大草稲荷碑文が解説されていました。
この本の筆者が中野市西江部における大草太郎右馬の功績をそれほど高く評価していないことが残念でした。
 
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