不思議な紋章を額に刻んだ「備中国分寺五重塔:二重鬼瓦」に銘を残した「酒津村住人 梶谷定次郎」……
僅かな手がかりを求めて倉敷市史を読み進めたところ、ようやく酒津村の庄屋を務めた「梶谷家」について記述された一節に辿り着きました。それは文政十三年十一月、「(梶谷)伊平次」の帯刀の申請をするため、酒津村の名代や庄屋が推薦人として倉敷代官古橋新左衛門に当てた書状です。
その中に次のような記述を発見しました。
「……親類之もの不残取立 其上神社仏閣之寄付等之儀数多取計 近辺無並信心篤実之ものに御座候………」
これによると、梶谷家のひとびとはこの頃神社仏閣に多額の寄進をしていたようです。
この書状が文政13年、二重鬼瓦の「梶谷定次郎」の銘は文政12年……
何となく符合を感じるのはkamokamoの気のせいかしら?
さらに、多額の上納金のご褒美に「備中国窪屋郡酒津村 百姓 梶谷伊平次 <中略> 其身一代帯刀御免被仰付之……」の記録を発見。
この2通は「申請」と「許可」の関係ですから、日付けはなくても後者のほうが後ですよね。
こちらは「午」年ですから「文化7年」「文政5年」「天保5年」のいずれかですが、申請が「文政13年」ですから許可されたのはそれ以降の「天保5年」ということになるのでしょうか。
今の感覚だと時間がかかり過ぎって印象があるけれど、ひょっとすると何回も申請しつづけたのかもしれません。
さらに「許可」の書状には苗字「梶谷」が記されていることに気付きます。
ちなみに他の資料によると「伊平次」は「夘」年に永々名乗りが許されているようです。
この頃で「夘」年というと、「文化4年」「文政2年」「天保2年」です。
もし帯刀の申請と許可の間に名乗をゆるされたのなら、苗字名乗は「天保2年」です。
すなわち
「帯刀申請(文政12年)」→「苗字名乗り(天保2年)」→「帯刀許可(天保5年)」
という流れになります。
しかし、倉敷市史によると梶谷氏はもともとは近江・佐々木源氏の流れをくむそうです。
佐々木源氏は源平藤戸合戦ゆかりの「佐々木盛綱」の一党ですが、倉敷の名士にこの系統が多いのは何故だろうと、いつも不思議に思います。
元武士ならば以前から「苗字」を名乗っていたのではないかという疑問も。
それとも、いちど百姓になってしまうとたとえ元武士でも名字を名乗ることは許されなくなるのかしらん??
これに関しては勉強不足で何とも言えません。
少し調べてみたいと思います。
ちなみに名乗りは永代、帯刀は一代限りだったようです。
と、ともかく、「瓦師」ではなく「住人」として銘を刻まれた定次郎は、その作者ではなく寄進者だっただ可能性も大いにあるわけです。
はたして、鬼瓦の「梶谷定次郎」は伊平次の親戚か、はたまた赤の他人か……
つづく
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