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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

東日本大震災13周年(2024.03.11)

2024-03-11 18:41:22 | 災害

早いもので今日3月11日、東日本大震災が起きて丸13年が経った。

3月11日の午後2時46分、三陸沖で発生した未曽有の巨大地震は、北は三陸沿岸から南は関東地方まで多くの被害をもたらした。

海岸部では津波が15m以上の高さで襲い、岩手県では死者行方不明あわせて5800人、宮城県では1万800人、福島県で1800人が命を落とした。他にも入れると全国で死者行方不明者の合計は18500人に上る。

これは1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の死者数の3倍である。(※ただ阪神大震災では津波の被害が無かったから行方不明者は少なく、確認された死者数の比では3倍に届かない。)

今日の2時過ぎから特別番組があり、被災各地の慰霊のための集会行事が紹介されていた。

現地はもちろんだが、東京の銀座通りでも3.11を偲ぶイベントが行われた。

街角に多くの人が集い、2時46分の「未来への希望の鐘」に合わせて黙禱していた。

現地で実際に被害に遭った人や家族たちがドキュメント風に報道されていたが、震災時の小学生が母親を失ったが今年成人したとか、大学に合格したとか、どこにでもある風景もやはり特別な思いで見てしまう。

震災による避難者の数は当初47万人もいたのだが、被災地の復興でかなり減少した。現在全国に避難している被災者総数2万9000人のうち岩手県が849人、宮城県が1592人と少ないが、福島県は2万6272人と突出して多い。

これは東京電力福島第1原発の事故によるもので、原発が設置されていた福島県大熊町と隣の双葉町の住民は地震による避難ではなく、ほぼ100%原発事故のため、言わば着の身着のままの避難というから気の毒極まりない。

特に大熊町では帰還困難地が多く、もともとあった人口11000人のうち帰ったのは1割程度に過ぎない。

福島第1原発の廃炉はようやく端緒に就いたと言ってよく、これまでに溶け落ちた炉心を冷やすためだけの作業が行われたに過ぎず、炉心内のデブリなど強烈な放射能を発する物体を取り出すのにあと何年かかるのか、専門家ですら分からない状況だ。

この13年間で掛かった費用は40兆円を下らないそうだから、開いた口が塞がらない。福島第1原発が稼働していた期間に東京電力ではどのくらいの「売上」があったのだろうか。多分、廃炉の費用の方が大きいだろう。

「費用対効果」という経済用語からすれば、とんでもなく無駄な代物だったということになる。おまけに廃炉後の核廃棄物の保管にいったいどのくらい金がかかり、年数が必要というのだろう。

原発の専門家でも「人が造ったものだから100%安全とは言えない」と今頃になって言い募っている。

「災害大国日本」の原発は止めるべきだ。

 

 


「ウクライナの永世中立国化」案があった

2024-03-09 09:39:37 | 専守防衛力を有する永世中立国

3月3日付の新聞の4面記事で、ロシアによる侵略が始まって50日後に両国の交渉が行われ、その中でウクライナを永世中立国にし、西側に与せず、兵器を持たないようしようという提案があったと伝えられた。

50日後とはロシアへのの西側制裁に加えて西側諸国のウクライナへの軍事援助が始まり、ロシア軍が苦戦していた頃だから、停戦に向けての交渉が現実味を帯びていた頃である。

プーチンは「大規模軍事演習」の名のもとにウクライナ東部4州を侵略し、それなりの成果は上げていたのだが、西側諸国の相次ぐウクライナ支持にかなり動揺していたのだろう。

それよりも何よりも、プーチンの最大の誤算はロシアの東部4州進撃を受けて「3日もすればゼレンスキ―大統領は国を捨てて亡命するだろう」と高をくくっていたのが、全く狙いが外れたことだ。

ゼレンスキ―は本業は喜劇役者で、たまたま大統領になるという役柄を演じたのだが、本当に選挙で大統領に選ばれてしまったのだった。「瓢箪から駒」とはまさにこのことだろう。

ウクライナの大統領選挙に関して具体的にどう施行されているのかは知らないが、プーチン好みの独裁専制選挙ではないことは確かだろうと思う。

ともかく「自由選挙」によって選出された全く政治経験も行政経験もないド素人が大統領に上り詰めたのだ。プーチンの面白かろうはずがない。

「俺様の息のかからない、全く知らないやつが大統領になるなんて許せぬ」とばかり大規模軍事演習という名のペテンで「東部4州のロシア系人民の安全を守る」という「大義」で軍事侵攻したのであった。

この50日後の和平案(永世中立案)はウクライナ側から拒否されて白紙になったが、ウクライナ側からすれば永世中立になりほぼ丸腰(日本の自衛隊程度)になったらロシアの思うつぼなので、吞めないのは当たり前である。

これに似た提案が出されそうになったことがある。

終戦後の日本に連合国総司令官として君臨したマッカーサーの考えに、一時日本をどの国とも同盟関係を結ばず、また兵器を持たないという「永世中立国化案」があったのだ。

日本国憲法は別名「マッカーサー憲法」と言われているように、例の第9条が永世中立との関係で定められたとも言える。もちろん憲法前文が大事だが、9条によって「止めを刺された」と言ってよい。

第1条1項では「交際紛争を解決する手段としての戦争は放棄する」とあり、同2項では「そのための戦力は保持しない」とある。

かつて革新勢力はこの条文を以て「軍備放棄」と解釈し、これは同時にマスコミなどもそう報道していたが、2項の戦力不保持はあくまでも1項規定の「対外戦争をするための戦力」は持たないというだけで自国防衛のための戦力まで否定するものではない。

例えば「内乱」「大規模な国内テロ」などを鎮圧するための武力は必要だし、外国兵が日本に侵攻して来た時に排除する戦力は当然無くてはならない。

日本の永世中立化案は、中国大陸において国民政府が排撃されて共産党中国が樹立(1949年10月1日)され、朝鮮半島でコミンテルンの指示を受けた金日成軍が南朝鮮へ侵攻した朝鮮動乱が勃発することで立ち消えになった。

日本本土に連合国軍の駐留が必要になったためである。

ロシア侵略50日後のウクライナ永世中立国化案ではウクライナがEUに加盟することは認めるが、西側との軍事同盟入りをしないと釘を刺されたのだが、この点もウクライナの拒否へとつながったようである。

ウクライナが日本の自衛隊程度の軍備を保有しても、万が一攻められた場合、ロシアの圧倒的な戦力に対抗すべくもないからだ。

EUではあの中立国スウェーデンが政策を変更して加盟申請をし、つい最近加入を認められたという。ロシアとの間に長い国境を持つフィンランドも申請中だ。

ウクライナがいつEUに加盟できるかでウクライナ戦争の趣旨が変わってくる。停戦への道のりは長いのか短いのか、最も望ましいのは「終戦」だが、今度の大統領選挙で確実に5選を果たすに違いないプーチンの出方次第。

ウクライナ戦争という「藪」から「棒」(軍事力)ではなく「蛇」(ウクライナのEU加盟)が出てきたら、プーチンも真っ青だろう。

 


キスミミをめぐる大隅の隠された歴史

2024-03-06 16:27:02 | 古日向の謎

 【大隅半島で最も古い塚崎古墳群】

大隅半島の肝属郡肝付町に所在する「塚崎古墳群」には、同じ古日向にある宮崎県宮崎市の「生目古墳群」と並んで最も古いタイプの前方後円墳が築かれている。

生目古墳群は古墳の宝庫といわれる宮崎県の中でも、築造年代の古さと規模の大きさで突出している。前方後円墳が8つあり、そのうち3つが墳丘長100メートルを超えている。

1号墳(136m)、3号墳(143m)、22号墳(101m)がそれで、とくに1号墳は4世紀初めと言われ、宮崎県内の前方後円墳では最初に全長が100mを超えた古墳として名高い。

それに比べると塚崎古墳群内の前方後円墳は規模として最大の「花牟礼古墳(40号墳)」が墳丘長66mであるから、生目古墳群の前方後円墳の長さの半分程度である。

しかし築造年代の古さではそう変わりはない。最も古いと考えられている花牟礼古墳は後円部に比べて前方部の高さが低く、しかも幅が狭い古式古墳の形態を持ち、おおむね4世紀初頭の築造と推定されている。

この古墳の主は、塚崎を含む肝属平野部と肝属川河口域を含む地域を支配した首長であったとみられる。

わたしは鹿児島県と宮崎県の両地域を「古日向」と名付け、またこの領域は魏志倭人伝に登場する「投馬国」そのものであると考えている。

倭人伝によれば、投馬国の王を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」といった。

そして記紀によれば、古日向は「鴨着く島」であり、そこで皇孫ホホデミと竜宮の姫になぞらえられたトヨタマヒメとのロマンスがあり、生まれた子がウガヤフキアエズであった。このウガヤフキアエズとトヨタマヒメの妹タマヨリヒメとの間に生まれたのが神武天皇であった。

さらに神武天皇が吾平のアイラツヒメ(古事記では阿比良ヒメ、書紀では吾平津媛)を娶って生まれたのが、ここから問題の箇所となるが、古事記ではタギシミミとキスミミの2皇子、書紀ではタギシミミのみであった。

タギシミミは「神武東征」に参加し、伯父のイツセノミコトやイナヒノミコト、ミケヌノミコトたちが脱落する中、神武とともに橿原王朝を樹立するが、大和で生まれた腹違いの弟・タケヌマカワミミによって誅殺されてしまう。

この誅殺のストーリーは、古日向が天武時代に指向された「大和王権列島内自生史観」による中央集権化、すなわち法律(律令)と仏教の国教化による統治に反発したがゆえに最初期の王権を樹立したにもかかわらず、王化に逆らうものとして貶められたことに起因する。(※この点については当ブログのカテゴリー「記紀点描」の綏靖紀に詳しい。)

 【キスミミの後裔が塚崎古墳群の主】

さてこの塚崎古墳群を築いたのは当地の豪族であるが、その豪族の出自は投馬国王であったキスミミ(岐須美美)で、キスミミ(岐須美美)については先のブログ「塚崎古墳群と東田遺跡」で述べたように、肝属川河口の港(岐=ふなと)を擁する肝属ラグーンを支配地とした「美美(ミミ=投馬国王)」だろう。

肝属川河口のラグーンは大陸から鴨をはじめ多くの渡り鳥が蝟集する所で、鴨はまた「鴨船」の象徴でもあり、南九州から北部九州、瀬戸内海、遠くは朝鮮半島への水運の一大拠点でもあった。

ここを支配していたのが兄のタギシミミが「神武東征」したあと、母のアイラツヒメと現地に残った大隅最大の首長キスミミ及びその一族であった。

わたしはタギシミミすなわち投馬国王による「神武東征」の年代を中国の史書『魏志倭人伝』や『後漢書』に記録されている「桓帝霊帝の時代(西暦148年~188年)に、倭国で大きな争乱があった」という西暦140年代から180年代の頃と考えているので、4世紀初頭以降の築造という塚崎古墳群に眠る被葬者はキスミミ本人ではなくそれより100年から120年くらい後の子孫だと思う。

ただしここで次の疑問が浮かんでこよう。

――古事記には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミの2皇子が書かれているが、日本書紀には神武天皇の皇子としてはタギシミミだけでキスミミは書かれていない。書かれていない人物を肝属川河口一帯の豪族と考えていいのか――という疑問である。

まず古事記だが、これは編著者が太安万侶であり、彼は橿原王朝のカムヤイミミという投馬国(古日向)由来の名を持った皇子の末裔であるので、書き落とすことはしなかったのだ。

その一方で日本書紀の方は編集者の代表が舎人親王であり、この人は天武天皇の皇子であったから南九州の天武王権への反発を敵視して「王化に属さぬ蛮族」という視点を持っており、南九州でその巨魁であったキスミミの一族の存在を抹消したのだ。

そのキスミミの一族で天武王権が企てる列島全域を法令(律令)による中央集権的支配に大反発をしたのが「肝衝難波(キモツキナニワ)」という大隅半島の首長であった。

 【キスミミの後裔・肝衝難波の反乱】

天武王権(672~682年)の下では九州南部や南島への調査団が派遣され、南九州人が隼人と呼ばれ、またトカラや奄美の人々も大和へ朝貢に出る時代になっていた。

隼人とは天武王権時代に列島の南部を守る霊長の「朱雀」になぞらえて王権側がそう名付けた呼称だが、白村江の海戦で壊滅した九州の海人たちの内、九州南部(鴨着く島)の古日向域の海人「鴨族」にとって本当は苦々しい名付けであった。

さて列島を中央集権で支配しようとした天武王権は、九州南部の古日向(鹿児島県+宮崎県)域を3つの国に分割しそれぞれに「国司」を派遣して統治しようとした。

古日向を薩摩国、大隅国、日向国の3か国に分割し終えたのが713年(和銅6年)の4月のことであったが、大隅の雄族キスミミの一族はこれに異議を唱えた。

『続日本紀』にこの反乱について具体的な記述はないが、同じ年の7月に時の元明女帝(707~715年)は次の詔を出している。

<授くるに勲級を以てするは、功有るによる。もし優異せざれば、何を以てか勧奨せん。今、隼賊を討てる将軍ならびに士卒等、戦陣に功有るもの1280余人に宜しく労にしたがいて勲を授けん。>

 

功労ある将士に対する勲位を授けるという詔だが、何の戦いなのかは直接記録にはなく、ただ「隼賊」(隼人の賊)を討った戦いであったことが分かるだけである。

戦闘の模様は一切書かれていないのだが、功のあった将士が1280名もいたという点からかなり大規模な戦いであったことが推測できる。

わたしはこの戦いで死んだのが肝衝難波という当時の大隅の首長であったとみる。そしてこの人物はキスミミの苗裔であり、「吾こそは大隅に残ったかの橿原王朝を築いた神武(タギシミミ)の後裔だ。大隅は我らの王国である。大和王権の勝手にはさせぬ」という自負を持っていたに違いない。

しかしついに大隅のキスミミ王権は敗れ、天武朝以降に指向された列島中央集権国家の一部に組み込まれた。

天武天皇の皇子である舎人親王が日本書紀を編纂し終えたのは720年(養老4年)であったが、その7年前の713年にこのキスミミの後裔である肝衝難波が王権に楯突いたことにより祖先のキスミミのことが抹消されることになった。

古事記(712年に完成)には書かれていたキスミミ皇子のことが日本書紀には書かれていないのは、そうした理由があったからである。

 


千葉県東方沖地震の頻発

2024-03-04 09:42:53 | 災害

今朝の谷原章介のニュースショー「めざまし8」で、最近多くなっている千葉県房総半島の東方沖での地震が取り上げられた。

この頻発地震の特徴が「スロースリップ現象」ではないかということで注目されているようだ。

スロースリップ現象は陸側プレートの下へ海側プレートが沈み込む現象のうち、陸側の沈み込みが大きくならないうちに小刻みに元に戻る現象で、そのため突発的な戻りがあるよりもより小さな地震が数多く起こるそうである。

先週の木曜日・金曜日・土曜日、と3日連続で震度4を記録する揺れがあり、御宿という海辺の街の人にインタビューしていたが、その家ではもっと大きな地震があったらすぐに避難所に逃げられるように、玄関に防災グッズを準備しているとのことだった。

正月元旦の能登大地震の余韻がまだまだ続いている中、こうして地震が頻発したら誰もが身構えるだろう。

避難しなければならないような大地震が来ないことを祈るしかないが、千葉県では東方沖地震の最大値を想定して次のような被害を見積もっている。

マグニチュード8.2の地震が起き、30分余りで高さ8.8mの津波が押し寄せ、死者の最大値は5600人になるという。能登半島地震の死者が300人足らずだったのに比べると約20倍である。

今日ゲスト出演していた東大の地震専門家は――東方沖では5~6年間隔でスロースリップ現象が何度も起きており、陸側プレートの元への戻り方がゆっくりなので、巨大地震になることは考えられない――という見解だった。

しかしスロースリップでもこう頻発すると、30年くらいのスパンで見たら巨大地震の前触れに相当するのではないかという危惧は捨てきれない。

またこの現象が他の地域の地震を誘発することは無いのだろうか。

一番に心配なのが、首都直下型地震への影響だ。

南海トラフ地震、東南海トラフ地震、そして首都直下型地震がこれから30年の内に起きるであろう巨大地震の三本の指だが、このうちで千葉県東方沖の活発化しているプレートの動きに最も近いのが首都直下の地盤だ。

首都防災の観点からすれば最大の良策は「首都分散」なのだが、そんな悠長なことは言っていられない(国策にはない)とならば、個人個人がバカ高いタワーマンションの賃貸や購入に見切りをつけて、自ら安全な地方へ「疎開」するしかないだろう。

(※かつて交通渋滞による排気ガス被害、光化学スモッグ被害など公害が社会問題だったころに、首都から茨城県つくば市へいくつかの国立の機関が「疎開」したが、大規模な首都分散の機運は立ち消えになった。日本はブラジルの首都移転やインドネシアやタイが取り組んでいる過密対策を逆輸入したほうが良い。)

 

 


ひな祭り(R6.03.03)

2024-03-03 13:58:11 | 日記

今朝は思いがけなく寒い朝だった。氷点下まではいかなかったが多分2℃か3℃くらいだったろう。

昼前に娘一家がやって来るということで、家内はちらし寿司作りに没頭し始めた。

自分はと言えば、好天気になったので庭の手入れをしていたが早めに切り上げ、右大臣ではないが「少し甘酒聞こし召し」出した。

甘酒ではなくもちろん焼酎だ。炭酸割りが去年からの定番となった。

今日はそうは酔ってはいられないので、ごく薄めにして2杯ほど飲んだ。

11時半頃に娘一家がやって来てさっそく昼食会。

子どもたちの成長は早いもので、もう長女は4月から小学3年生、長男は1年生、次女は年中さんだ。

言葉も言い回しもすっかり板についている。表情もいっぱしの大人の趣が出て来ている。

そんな孫たちだが、デザートとなると幼児に戻る(子もいる)。

ちょうどNHKの「のど自慢」の真っ最中。

「あんた、何してんの」と姉。

「だっておいしいんだもん」と妹はケーキのまわりに張ってあったセロハンをなめ出した。

「ははは」と父親や爺。

誰しも通る道だよ――と昔の俺もこんなだったよなと面白がって見ている。

しばらくしてのど自慢は終わり、ゲストの千昌夫の「古希祝い」が流れた。

そのあとは特別賞とチャンピオンの発表だ。

「お父さんの見立ての女の人がチャンピオンでしたね」と婿。

満更でもない昼が、ゆっくりと過ぎて行った。