鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

鬼ノ城が「最強の城」に

2024-03-16 09:19:00 | 古代史逍遥

昨夜のNHK「最強の城スペシャル」では4つ挙げられた名城のうち、ゲスト4人の話し合いの結果、岡山県総社市にある「鬼ノ城」が選ばれた。

この番組の司会者は鹿児島県出身の恵俊彰で、ゲスト出演者のひとり高橋英樹は芸能界では知る人ぞ知る城マニアだ。また今回は出ていなかったが、落語家の春風亭昇太も同様で、いつも番組では城巡りの蘊蓄を語っている。

今回取り上げられたのは、千葉県にある大多喜城、赤穂浪士の故城・赤穂城、鹿児島島津氏の鶴丸城、そしてこの鬼ノ城だった。

大多喜城は現在地元の高校の敷地に掛かっており、その分価値が減るように思われるが、いすみ鉄道路線との相性がよく、インスタ映えのする人気の城である。

赤穂城は水城と言ってよく、掘割にそそり立つ石垣の屈曲が見事で、私などはこの城を第一に挙げた。

鹿児島市の黎明館に藩主館のあった鶴丸城はもともと天守閣がない城として有名で、後背に聳える城山と一体化して防御が考えられており、近世の城というよりも中世の山城を彷彿とさせている。

そして今回ゲスト4名から「最強の城」の栄冠を勝ち得た岡山県総社市の「鬼ノ城」。

これを地元では「きのじょう」と呼ぶらしいが、鬼城(きじょう)山という標高約400mの頂上一帯が城の敷地で、その周りを土塁が延々と囲っている(ゲストの上方に映し出されているのは鬼ノ城の西門)。

土塁の幅は7m、高さも7mほどあり、土を突き固めた版築工法で造られている。その距離は2.8キロというから半端ではない。そこにこれほどの土をどうやって運び上げ、崩さないように土壁に仕上げたのかがよく分からないようだ。

また築造について、日本書紀などの古史料には記載がないため、そもそも何の目的で誰が築いたのかが不明である。

大方の推測は次のようである。

あの白村江の海戦で倭の水軍が壊滅し、救援に行ったはずの百済は完全に滅び、その王族はじめ多くの百済人が日本列島に渡って来た。

彼らの中には石を多用した山城(いわゆる朝鮮式山城)を築く技術に習熟した者が多く、倭王権(大和朝廷)は敵対した唐と新羅の連合軍がいつか攻めて来るのを予想し、百済人亡命者を使って防御用の堅固な城を築かせた。

対馬の金田城、九州の太宰府にある水城、長門の城(城の名は不明)、四国屋島城、畿内の高安城などが主な朝鮮式山城だが、この岡山県総社市の鬼ノ城もその一つではないかと考えられているようだ。

たしかに土塁とはいえ、こんな高い山頂部(麓からの比高は300m近くある)に高さ7mもの壁を周囲2.8キロにわたって築き上げる技術は、魏志倭人伝(韓伝)時代の3世紀以降、国家間(三韓・高句麗・大陸王朝間)の争いが絶え間なかった半島人の獲得したものだろう。

番組ではこの城跡からの眺めの内に、総社市はもとより岡山平野から遠く瀬戸内海までが視野の内に入っているとして、半島からの進攻への監視所的な城でもあるような捉え方をしていた。

ところで上の番組内で映された「西門」をよく見ると、その上部にあたかも居酒屋のメニューのような楯状の板があり、そこに書かれたデザインがあるものにそっくりなことに気付かされた。

全部で15枚の板があるが、真ん中から左右対称に掲げられた中で、それぞれ片側には一つ置きにクエスチョンマークに似た「鉤(かぎ)型」が見える。しかもその上下には三角形のギザギザがあるではないか。

これは俗に言う「隼人の盾」そっくりなのだ。

一体これはどうしたことだろうか?

番組ではそんな指摘はなかったので、インターネットで総社市の観光案内を調べてみたが、やはり言及はない。

鬼ノ城が日本100名城であり、最強の城であることに異論はないが、ひとつ謎が増えてしまった。

 

(追記)

隼人の楯について>

昭和38年(1963)に奈良の平城京跡地の井戸底から出土した「隼人の楯」。長さ5尺(約150㎝)、幅1尺8寸(約54㎝)、厚さ1寸(約3㎝)を測る。

延喜式の隼人の楯に関する記述通りの寸法のまま発掘された。ただし、鮮やかな色は復元されたもの。

隼人の司に従い、元日式や即位式、また国外からの使者に対する儀礼の場に居並び、魔除け的な役割を担った隼人たちが所持していた。

真ん中に描かれているのは「鉤(かぎ)型」と呼ばれ、赤・白・黒三色でうず巻き文様が上下対称に描かれている。たての上と下に見える三角形の波文様とともに「魔除け」の意味を持つとされている。

鬼ノ城の西門の上に掲げられた10数枚の板状の物のうち特にこの隼人の楯に似た板は、実は「楯」をモデルにした「魔除け」で、門からの敵の侵入を防ぐためのものだったのかもしれない。