鴨着く島

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今岳神社の謎

2018-08-11 14:12:31 | 鹿児島古代史の謎

 枕崎に観光に行ったついでに、・・・というか、以前から気にかけていた場所を訪れた。

 それは枕崎市の北東にそびえる下山岳(416m)の麓に鎮座する「今岳神社」である。

 この神社の社殿自体は、約440年前の天正年間に当地が「鹿籠郷」(今の枕崎市)と呼ばれていた時代の領主・喜入氏5代目の季久が、下山岳山頂にまつられていた祭神をここへ勧請したものだ。

 その理由はよくある「山頂では祭式に事欠く場合があり、行き来(管理)のしやすい麓に社殿を建立して祭る」ことで、山頂の奥宮に対する「里宮」の発想であった。

 鹿籠の領主なら「鹿籠氏」になりそうなものだが、5代目の喜入季久の時に武功があって島津氏から鹿籠郷を与えられ、それ以前すでに喜入郷を領有していたために喜入氏となっていたのを、名前の基となった喜入郷を返納して鹿籠郷に移ったので姓はそのまま喜入を捨てずに幕末に到ったという経緯がある。

 さて、その枕崎の喜入氏が440年ほど前にここに社殿を建立して祭ったという今岳神社の御祭神が意外な人なのだ。

 その名は「建小広国押盾命」(たけおひろくにおしたてのみこと)という聞きなれない神様で、実は第28代天皇の宣化天皇。

 宣化天皇がなぜここに祭られているのかーーこれが今岳神社の由来を知った時の驚きであった。

 神社の由緒によるとこうである。

 

 宣化天皇は西国巡検で船で当地にやってきたが、沖に流されてとある島に着いた。その島民は畏れ多いとして天皇を本土にお連れ申した。その上陸地が枕崎中心部から東へ5キロほどの「板敷の唐浜」であった。

 天皇はよき所と定められて板敷と下山岳の中間にある「俵積田」という地に御殿(木花御殿)を建てて滞在された。しかしやがて亡くなったので遺体を下山岳の山頂に納め、当地の人々の祭る霊山になった。

 その後、約千年余り経って、上記の喜入季久が新たに社殿を麓に建てて崇敬の社とした。

 

 というもので、宣化天皇が当地に来たという伝説には驚きを隠せなかった。なぜなら古事記は無論のこと日本書紀の宣化天皇紀にもそれを裏付ける記事は皆無だからだ。

 古事記には、同じ継体天皇の皇子で兄にあたる安閑天皇(第27代。西暦533年頃、在位2年)の没年と御陵の両方を記すが、弟である宣化天皇(西暦535年頃。在位4年)については没年も御陵もどちらも記していない。

 ところが不可解なことに日本書紀では宣化天皇について、「檜隈廬入野宮にて崩御。時に御年73歳。冬11月、天皇を大和国の身狭桃花鳥坂上陵に葬しまつる」と実に具体的に記されている。

 古事記の方が書き忘れたのかーーと最初はそう思ったが、他のほとんどの天皇について、まして前代の兄の安閑天皇にさえある没年と御陵の記載が次代の天皇にないのはちょっと考えられないのではないか。

 そう思ったときにこの今岳神社のことを知り、どうしても現地を見てみたかったのである。

 今岳神社は予想よりはるかに小綺麗で堂々とした造りであった。もっとも今のはコンクリート製だが・・・。

 鳥居も階段もしっかりと造られ、境内も雑草など生えておらず、すがすがしい趣きである。

 振り返ると鳥居越しには青々とした茶畑が広がり、その向こうに海がわずかに霞んで見える。

 地元の尊崇が強いのだろうなと思われる神社だ。

 板敷の浜からは直線距離にして5キロほどだろうか、下山岳の特徴ある山容は海浜からも即座にそれと分かる。そういう山の頂は霊地(聖地)にふさわしく、宣化天皇云々は別にしても、そんな場所に偉大な統治者の霊廟が営まれることは往々にしてあることだ。

 古事記に没年も御廟も記されないのはそれなりの理由があると考えてみたい。

 当時の朝鮮半島南部は、倭国の一つである任那(伽耶国)が新羅によって侵攻されつつあった。大伴狭手彦が将軍となって任那を救援に行ったのもこの天皇の時代だった。この朝鮮半島南部の動乱との関係で何かあったのかもしれない。

 また、次代の欽明天皇(継体天皇の第3皇子で、宣化天皇の弟とされる)との間に何らかの諍(いさかい)いのようなものがあり、それとの関係かもーーと思ったりもする。

 天皇が九州南部にやってくるとすれば、以上の二点が原因として浮かび上がる。要するに天皇ともあろう人がここで命を落とすのは俗に言う「客死」(逃避・遠流)で、尋常なことではない。

 地元の語り伝えは今風の「観光宣伝事業」とは全く違う。存外な真実を含んでいることが多い。もう少し調べを進めてみよう。