昨日は旧盆に「母を想う」として母のこと、特に私ら4人の子ども時代に母が普通の母親のようには寄り添ってくれなかった状況について、弟の不登校から始まった我が家の「不都合な」出来事を書いた。
こんな不特定多数の人々が見るであろうITメディアに載せるべき話題ではないと、否定的な心情が頭をもたげるのだが、もう歳も歳だし、オープンにして嗤われても構うまい。
とにかく我が家は核家族でありながら両親が教員生活をフルタイムで送っていた家であった。家事万端は住み込みの女中さんに任せていた。
といって、一人の女中さんがすべてを消化し切れる仕事量ではなかったので、母も早朝に起きて何らかの家事をこなし、夕方の帰宅後はたいてい台所に立って料理の大半を取り仕切った。
繕い物なんかもすべてではなかったが、大方やっていたように思う。やっていたようだ、という書き方だが、具体的にどのような姿でどうやっていたかの記憶はない。多分、もう眠りについていたのだろう。
姉が一番上(唯一の戦前生まれ=1941年)で、下は3兄弟(1946年生、1950年生、1951年生)であった。
3兄弟が揃って小学校に入っていた時、兄が6年生、私が3年生、弟は1年生であったが、この成長期の3兄弟が全部小学校にいるとなれば、炊事・洗濯、学校関係の行事や提出物、持ち物の準備、など親はかなり忙しいはずで、専業主婦のほかにもう一人お手伝いが欲しいくらいだったと思う。
ところが我が家はフルタイムのサラリーマンかつ「ダブルインカム」で、母は男性教員と同様の仕事量があったから、我々との密接な関係はかなり阻害されていた。
姉などは思春期以降、母を「あんた」と呼んでいたが、それくらい母子関係は希薄であった。娘は家庭の中で母の行動を見習い、あるいは手伝いをさせられて成長して行くのが当時、当たり前の姿であったのだが、姉はそれを阻害されていた。
姉にとっては「お母さん」という女としての成長の先の一つの目標であるはずの「母親の姿」が見えなかったことへの不満が「あんた」という母への「軽称」だったに違いない。
男3人の兄弟にしても面白かろうはずはなかった。私も兄もそんな母親の姿が容認できなかったのだが、反抗期になってもそれへの波乱は起こさなかった。
ところが弟は元来おとなしいタイプなのだが、中学2年の不登校以降は母親に対して反抗的な態度をしばしば見せていた。
弟の反抗も空しく、母のフルタイム教員生活は続行された。「中今」(なかいま=今最優先すべきことに取り組むこと)の原則からすれば、弟の登校拒否を防ぐためには母が教員を辞めて家庭に入り、子どもたちに寄り添うことが弟(のみならずすべての兄弟)にとって最上の方途であった。
しかしその最上の方策は取られず、母が教員生活をやめることはなかった。
母が教員生活をやめると、せっかく30年近く勤めて来たことによる収入のみならず、辞めた時の退職金や60歳まで勤めればすぐにもらえる「恩給」(と母などは言っていた)の額が少なくなる、などと計算が働いたらしい。
今から思えば、情けない話である。こんな計算的知恵はどうも父が振りかざしたようなのだ。
そこで今度は「父を思う」に話を移したい。
ここのカテゴリーは「母性」なのだが、話の飛躍は許してもらいたい。
父は明治40年(1907年)の生まれ、鹿児島県奄美大島の名瀬市の出身で、旧制大島中学を卒業後に代用教員として母校に赴任したが、期限後に鹿児島市にあった教員養成の夜間学校(戦後に新制鹿児島大学の教育学部)に通って正式の教員免許を取得し、再び大島中学に赴任したが、1年で辞めて東京に出た(おそらく昭和3年=21歳の頃)。
運よく東京府の小学校教員に採用され、赴任校で同僚として知り合った母と結婚したのが昭和14年(1939年)だった。戦時中は国民学校とは別の青年学校などで教えたが、軍隊への応招はなかった。
戦後は一時、新制高校の教壇に立ったが、すぐに新制中学校に移り、やがて教頭を経て校長になったのが昭和27年(1952年)だった。45歳くらいで中学校の校長はかなり若いが、当時の東京では学徒動員かれこれの戦争がらみで教員不足だったようだ。
戦争には招集されず、校長には若くしてなるという幸運に恵まれた教員生活だったはずだが、どうも金にはうるさかった。「戦時国債に応募したのだが、返されなかった」などと愚痴るのを聞いたことがあったが、「戦争に行った人はそれどころではなかったのに、ケチなことを今さら・・・」などと思ったことがある。
また郷里の奄美大島に家族そろって帰ったことはなかった。
奄美は1953年まで米軍の統治下にあり、確かにしばらくは帰ることが不可能だったのだが、日本への返還後は誰でも自由に渡航できた。両親とも教員だったのだから夏休みなどの長期休暇に一家そろって行けば行けたはずなのに、そうしなかったのは、今から思えば旅行費用が掛かり過ぎるからだろう。
またテレビも、日本国中で一大普及期だった上皇様と美智子さまとのご成婚の時には購入せず、奄美大島の林業試験場に勤めていてちょうど退職を機に東京の我が家にやって来た伯父(1901年生)が資金を提供してくれてやっと購入するという有様だった。
このような父だったから、母が教員生活を辞めるなんてことは許さなかったに違いない。母としてももうその頃はすっかり教員(サラリーマン)生活が「収入と恩給の得られる天職」だから辞めたくないと考えていた。つまりオヤジ流の「金(かね)本位主義」の妄執に引っ掛かってしまったのだ。
父が私に口癖のように「K大の理財科に進学したらどうだ」と、くどく言ったのを覚えている。K大を出れば大手の金融機関に就職でき、特に金融機関は給料もボーナスも高額だというわけである。こっちの希望よりもまず収入(給料)なのであった。
それよりも何よりも兄弟たちの切望は「母の寄り添い」だったのだ。母親の寄り添いこそが子どもの自己肯定・自己実現の最上のクスリだ。
結局、兄弟3人のうち誰も金融機関はおろか教員になった者もいなかった。ほぼ正式な就職はできなかった。姉だけは教員と結婚したが、弟は32歳で死んでしまった。
子どもへの寄り添いよりも「金(収入)への寄り添い」を優先した家族の姿がそこにあった。
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