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古日向論(3)神武東征と古日向③

2019-06-16 23:17:17 | 古日向論

前項の②では「古日向からの東征はあった。その主体は投馬国王タギシミミである」という結論を導いた。

これのほかに九州島からの「東征」はもう一つあった。

その主体は、第10代天皇である崇神天皇である。

この崇神天皇こと「ミマキイリヒコ・イソニヱ」については戦後まもなく江上波夫が発表した「騎馬民族の頭領である崇神は朝鮮半島のミマキ(スメミマの治めていた任那)にまで南下し、さらに海を渡って北九州に上陸し、その後、騎馬軍団の戦闘力によって大和中央にまで進出した」という衝撃的な学説が一世を風靡した。

そして早稲田大学教授の水野佑はこれを踏まえて、「神武天皇以下9代目開化天皇までのいわゆる欠史8代は架空の作り話だが、10代崇神王朝は古王朝、16代仁徳王朝は中王朝、そして21代雄略王朝は新王朝」とし、三王朝交代説を唱えた。

江上波夫の「騎馬民族大和征服説」は考古学的な発掘による古墳時代初期の様相からは否定され、後者の三王朝交代説は現在でも一定の支持者はいる学説である。

このどちらも「崇神天皇が大和王朝を開いた初代である。神武天皇も崇神天皇もともに「初国知らす天皇」(はじめて王権を築いた天皇)という和風諡号を持っているが、このうち神武天皇のそれは造作である」という。

しかし崇神天皇を初代天皇と考える人たちも、崇神天皇と垂仁天皇の両天皇に見える和風諡号の「五十」という共通の名辞について、考察を加える人はまれである。

崇神天皇の和風諡号はは「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこ・いそにゑ)」、垂仁天皇のは「活目入彦五十狭茅(いきめいりひこ・いそさち)」。(※古事記は「五十」を書かず、「印」だったり、「伊」だったりする。古事記は書紀に比べ、より一層大和王朝が列島内自生王朝でなければならないとする立場なので、わざとぼかしているのであろう。)

この「五十」は仲哀天皇紀と筑前国風土記逸文によって、福岡県糸島市のことであることが判明している。これを踏まえて両天皇の和風諡号が意味するところを解釈すると、

崇神天皇は「天孫の領域である任那に入り、五十(糸島)に渡り、そこで瓊(に=玉=王権)を殖やしたお方」と解釈され、もともとの出自は朝鮮半島の辰韓の王であったが、弁韓(任那)にも勢力を伸ばし、半島情勢の不穏を嫌って九州島の北部「五十」(糸島)に渡り、王権を築きかつ勢力を扶植した人物であった、となる。

また垂仁天皇は「活目(倭人伝に登場する女王国の一等官・伊支馬)として邪馬台女王国に派遣されていたことがあり、五十(糸島)という狭茅(狭い地域)で生まれたお方」と解釈され、父である崇神天皇が半島を離れて五十(糸島)に本拠を移してから生まれた人物であった、となる。(※「活目(いきめ)」とは監督官のことで、女王国の一等官が「伊支馬」であった。垂仁は若い頃に女王国へ監督官として赴任していたことがあったのだろうと考える。)

糸島に本拠地を移してさほど時を置かずに勢力を北部九州一帯に伸ばした崇神天皇の時代に、崇神王権を核として北部九州諸国連合のようなまとまりができた。これを倭人伝では「大倭」と書いている。

この崇神勢力「大倭」が半島からの干渉に危機感を持ち、畿内の中心部へ王権を移したのがもう一つの「神武東征」で、「大倭」はのちに卑語の「倭」を「和」に代えた。これが今日に続く奈良県「大和」の語源であろう。

また崇神天皇の三年条にある「都を磯城(しき)に遷した。瑞牆宮という」の「磯城」も「いそき」と読むべきで、この「いそ」は「五十(いそ)」の地名遷移と思われる。(※「磯城」はすでに神武天皇が大和を平定する説話の中で、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という抵抗勢力が名を負って現れているが、この磯城も古い時代に「五十」から移住した人物かもしれない。)

崇神王権が大和にとっては外来勢力だったことをほのめかす記事が、崇神5年から6年にかけて見える。

疫病や抵抗勢力による反旗があったりして国内が騒然とした時に神々に安穏を祈るのだが、アマテラス大神と大和大国魂神とを分けて祭るのが良いとして、アマテラス大神を皇女トヨスキイリヒメに、大和大国魂神を皇女ヌナキイリヒメにそれぞれ祭らせた。

ところが、大和大国魂の方を祭ろうとしたヌナキイリヒメは「髪が落ち、体が痩せて祭ることができなかった」というのである。

ヌナキイリヒメが祭ろうとしたのは大和大国魂(やまとおおくにたま)で、大和国最大の国津神である。国津神とは「土地の神」であって、大和の土地の神であるならば、すでに初代の神武天皇以来9代にわたって祭ってきたはずであろうに、何を今さら祭れないというのだろうか。(※仮に9代以前は「造作」であるとしても、ヌナキイリヒメのこの失態は書かずともよかった。)

崇神天皇が大和自生の天皇であれば、大和の土地神を祭れないということはそもそもあり得ない。これを書かざるを得なかったということは、崇神王権が外から大和に入って来たことを示すものだろう。

もう一つ、崇神王権が「東征」したとする根拠がある。

それは古事記に記載の「神武東征」は16年余りの東征期間だったのに、日本書紀に記載の「神武東征」はわずか3年余りで果たしていることである。

読み比べてすぐに年数の違いに気づいたのだが、年数などというものはいい加減で、参考にした文書などの書き間違いや転記の際の誤認などもあったのだろうから、とあまり気に留めずにいたのだが、古事記と日本書紀の編纂完成が8年ほどしか違わず、両方に目を通すことのできた太安万侶などがいたはずで、双方の照合で簡単に数字の訂正ができただろうにと不審が募った。

そこで記紀それぞれの東征に要した年数(月数)を書き出してみたところ、同じ東征を記録しているのにもかかわらず、年数(月数)の違いがあまりにも出鱈目すぎることが分かった。次に古日向出航から各寄港地で要した滞在期間(年月)を挙げてみる。

 

ⅰ宇佐(足一謄宮) 古事記は不明 書紀は一か月未満

ⅱ遠賀(岡田宮)  古事記は1年 書紀は一か月余り

ⅲ安芸(多祁理宮) 古事記は7年 書紀は二か月余り

ⅳ吉備(高嶋宮)  古事記は8年 書紀は3年

所要年数      古事記は16年余り 書紀は3年4か月

 

これら各地での滞在年月が、古事記と日本書紀では著しく違っていることにすぐ気づくだろう。

古代の記録など、特に年数などは間違いが多いだろうから、と最初は寛容を以て望んだのだが、待てよ数字なんて両書ですり合わせれば簡単に訂正一致ができるではないか、そうしなかったのはなぜなのか、といぶかしく思うようになった。

総所要年数の比は16年対3.3年で、約5対1。この比の値が各地での滞在年月の比にも当てはまるかというとそうではなく、全くまちまちで、いわば出鱈目。

こんな出鱈目では、いかにも「神武東征なんて架空の話」だと言っているようなもので、神武東征及び「欠史8代」など造作だとする史学者によって「それ見たことか」と鬼の首を取られかねない。

出鱈目にもほどというものがあって、出鱈目でもせめて各地の滞在期間の比の値を一定にするとか、いっそのこと滞在期間など書かなければ「馬脚」も現れまいに、と歯がゆい思いもしたのだが、ある日ふと、これは違う「東征」をほのめかしているのではないかと、思い至ったのである。

それなら違っていて当たり前なのだ。では違った「東征」、つまり古事記に記載の16年余りかかった東征と、書紀に記載の3年余りで成し遂げた東征とは何なのか。

古事記の「東征」こそが古日向(投馬国)からの東征であろう。古日向からの東征は「東遷」もしくは「移住」なのである。移住地を求めて、瀬戸内海の安芸国に7年、吉備国に8年も滞在した。両国に土着した古日向人もいたのだろうが、最終目的地は畿内であった。

日本書紀に記載の3年余りという短期間での「東征」は北部九州からの「崇神東征」であり、これは最初から畿内中原を目指した「武力討伐」に近いものだったろう。

古事記に記載の古日向からの「東征」の動機は、おそらく活発化する火山活動からの避難が主だったもので、したがって「移住」と言い換えてもよいと思う。

日本書紀に記載の北部九州からの「崇神東征」は半島情勢のひっ迫によるもので、朝鮮海峡を挟んだだけの地である北部九州は半島を席巻する大陸王朝の侵攻勢力の標的に晒されかねないことからくる危機感が動機であったろう。

以上のように考えれば、古事記と日本書紀が同じ「神武東征」を描きながら、東征を果たすまでの所要年数の著しい違いも了解できるものになる。

北部九州からの「崇神東征」を神武東征のように描かなかったのは、「大和王権列島内自生史観」が書かせなかったのである。崇神天皇及び垂仁天皇の時代は、ソナカシチとかツヌカアラシトとかアメノヒボコなど半島からの渡来人の記述が多量に見られるが、それらの記事も崇神王権の半島とのかかわりを十分に示唆している。

 

 


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