鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

新春の京都三社と伊勢三宮(1)

2019-01-16 11:39:21 | 旅行

平成も31年の正月が最後の正月となる――と思い、京都では皇室ゆかりの二社と参拝客の多いことで有名な伏見稲荷大社、伊勢の内宮・外宮と二見興玉神社を詣でて来た。

参拝客の多いこの時期にこちらから個人で行くのはまず無理で、ツアーのお世話になった。

早朝の鹿児島中央駅から新幹線で一路新大阪駅へ、4時間20分の行程。

新大阪駅からは地元のバス会社のチャーター便らしい45人乗りのバスでまずは京都へ向かう。

阪神高速道路は昔2度か3度走ったことがあるが、バスに揺られのは初めてで、大阪の交通事情の大層なことがよく分かる。これでもかと高速道路が空中を乱舞している様は見事。

約1時間で京都市内のインターで下り、市内の中央部にある平安神宮に詣でる。しかし正月も二週間を過ぎたというのに参拝客が多く、しかも成人式と重なっていたので駐車場に入るまでが一苦労だった。

次の下鴨神社はバスで平安神宮から5分ほどの距離だが、こちらも駐車場は満杯で、道路の脇の入り口でバスから降り、境内に足を踏み入れた。そこはもう拝殿が並ぶところで、本殿に近いには近いが、行きたかった「糺(ただす)の森」というパワースポットへは行けずじまい。

それでも下鴨神社は正式名「加茂御祖神社」だが、その原点である「三井(みい)社」を拝することができて良かった。下鴨神社本殿西に祭られる「三井神社」。奥に三井神社の本殿が見える。

御祭神の「鴨建角身(かもたけつぬみ)命」は南九州の出身であり、神武東征に先立って大和の葛城地方に拠点を構え、その後、北上して奈良と京都の境目にある岡田(現在も岡田加茂神社がある)に移動し、さらに北上して鴨川をさかのぼり、久我(くが)地方を最終拠点とした鴨族の王である。

南九州は魏志倭人伝時代の「投馬国」であり、その王を「ミミ(彌彌)」王妃を「ミミナリ(彌彌那利)と言ったが、「鴨建角身」という名は本来「カモタケツミミ」で、魏志倭人伝はそのミミをちゃんと伝えている。

逆に言うならば、今日の歴史学では否定的な「南九州からの東征(王権の移動)」が魏志倭人伝時代の投馬国(鴨族)の王の東遷と考えるならば、実際にあり得たことだとしてよいことになる。

これは『山城国風土記』に記されたことと一致しており、南九州勢力のからの大和への東遷は史実である(南九州とくに大隅半島部では弥生時代の早期から中期の遺物・遺構の発掘は非常に多いのだが、後期になるとパタッと遺物・遺構が途切れてしまうのはその一端の証明になる)。

第三者である中国大陸の史官が書いた歴史書の内容と、記紀及び山城国風土記に記載されたこととが一致をみている以上、いわゆる「神武東征」が全くの出鱈目(造作)と切って捨てる学者・識者の蒙は開かれなければならない。

話はやや飛躍したが、下鴨神社の参拝を慌ただしく終えたあとは、伏見稲荷大社へ。

京都市内を南下して深草の里に入ると、東側に秦氏の豪族が富貴の証明とばかり鏡餅を弓矢の的に見立てて矢を放ったら、餅の的が飛び去ったという稲荷の峰がなだらかに連なる麓に、稲荷大社がある。

ここは先の二社以上に初詣客が多い。中でも外国人が目に付く。

バスガイドさんの話では、今日はまだ少ない方で、特に目立つのが中国人観光客だそうで、例によってガイドさん泣かせの数々のトラブルを起こすらしい。

伏見稲荷大社は外来の秦氏の勧請らしく、秦氏のルーツは朝鮮半島経由の秦王朝の流れというのが定説だから、つじつまは合っている。中国人参拝客をそう煙たがるわけにはいくまい。大社の本殿奥には個人や会社奉納の鳥居が隙間なく並んでいる。通称「千本鳥居」。

 


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