「邪馬台国in南九州研究会」という会に招かれ、11月3日の午後、「邪馬台国時代の南九州」というテーマで講演して来た。場所は鴨池の市民球場に近い鴨池公民館である。
この会の会長である濱田博文という人は、頂いた名刺によると「医学博士・鹿児島大学名誉教授」で専門は「高次脳機能障害」の研究者であった。現在は鹿児島市内の米盛病院に勤めておられるそうである。
濱田氏が研究会を立ち上げたのは今年の5月だそうで、詳しくは聞けなかったのだが、ご自身の魏志倭人伝解釈によって邪馬台国は南九州に所在したという。
行程論では邪馬台国の直前に出て来る「投馬国」を宮崎県の西都市に比定され、そこから南へたどったところ、すなわち、南九州こそが邪馬台国であると結論を出されたようだ。
実は同じ説が5,6年前に話題になった『大隅邪馬台国』(河野俊章著)という本で唱えられており、投馬国は上で触れた宮崎県西都市とし、そこから「南、邪馬台国、女王の都する所、水行十日、陸行一月」行った所に女王国があると考え、死後の陵墓を肝属郡東串良町に鎮座する大塚神社のある場所だという。
これと全く同じ説なのだろうか、つまり河野説では「水行十日」はそのままだが、「陸行一月」のほうは「陸行一日」の誤りとして解釈し、唐仁大塚古墳こそが女王・卑弥呼の墓だとしている。
しかし唐仁大塚は墓型が円墳ではなく「前方後円墳」だし、昭和10年頃に後円の頂上にある大塚神社の真下が調査された際に、石槨の中に石棺と刀や甲冑が見つかっており、この副葬品からして女性の墓ではないことが分かっているのだ。
南九州における濱田博文氏の比定する邪馬台国の場所はどこなのか、また「径百余歩」と倭人伝に書かれている卑弥呼の墓がどれなのか、いつかじっくりと聞きたいものである。
講演会では、南九州には当時「投馬国」があり、肝心の邪馬台国については福岡県筑後地方の八女市に比定している私の説を披歴したわけだが、そんな相容れない説にもかかわらず、このような機会を与えていただき感謝申し上げたいと思う。
この会の会長である濱田博文という人は、頂いた名刺によると「医学博士・鹿児島大学名誉教授」で専門は「高次脳機能障害」の研究者であった。現在は鹿児島市内の米盛病院に勤めておられるそうである。
濱田氏が研究会を立ち上げたのは今年の5月だそうで、詳しくは聞けなかったのだが、ご自身の魏志倭人伝解釈によって邪馬台国は南九州に所在したという。
行程論では邪馬台国の直前に出て来る「投馬国」を宮崎県の西都市に比定され、そこから南へたどったところ、すなわち、南九州こそが邪馬台国であると結論を出されたようだ。
実は同じ説が5,6年前に話題になった『大隅邪馬台国』(河野俊章著)という本で唱えられており、投馬国は上で触れた宮崎県西都市とし、そこから「南、邪馬台国、女王の都する所、水行十日、陸行一月」行った所に女王国があると考え、死後の陵墓を肝属郡東串良町に鎮座する大塚神社のある場所だという。
これと全く同じ説なのだろうか、つまり河野説では「水行十日」はそのままだが、「陸行一月」のほうは「陸行一日」の誤りとして解釈し、唐仁大塚古墳こそが女王・卑弥呼の墓だとしている。
しかし唐仁大塚は墓型が円墳ではなく「前方後円墳」だし、昭和10年頃に後円の頂上にある大塚神社の真下が調査された際に、石槨の中に石棺と刀や甲冑が見つかっており、この副葬品からして女性の墓ではないことが分かっているのだ。
南九州における濱田博文氏の比定する邪馬台国の場所はどこなのか、また「径百余歩」と倭人伝に書かれている卑弥呼の墓がどれなのか、いつかじっくりと聞きたいものである。
講演会では、南九州には当時「投馬国」があり、肝心の邪馬台国については福岡県筑後地方の八女市に比定している私の説を披歴したわけだが、そんな相容れない説にもかかわらず、このような機会を与えていただき感謝申し上げたいと思う。