ちょうど1か月前の10月10日、鹿児島県で開催された「第12回全国和牛能力共進会」では、鹿児島から出品された黒毛和牛群が9部門中6部門で最高位となり、前回の宮城大会に続いて団体優勝を飾った。
中でも種牛の部では内閣総理大臣賞を獲得し、総合優勝に花を添えた。「種牛」はもちろんオスの黒牛で、繁殖能力の最もすぐれた牛に与えられる。この部門で鹿児島の牛がトップを取ったのは実に30年ぶりという。
今でこそ鹿児島はじめ日本各地で和牛の飼育が盛んで、中でも三重の松坂牛、滋賀の近江牛など高品質のブランド肉牛が有名だが、日本で和牛の肉を食べる文化は明治維新以後のことである。
それまで牛は農耕用の役牛としては全国的に普及していたが、明治になって洋風文化が入ると豚肉とともに食用の牛が飼われるようになった。その際、欧米の体格の良い牛を和牛と掛け合わせ、品種改良が進み、今日の和牛生産の隆盛となった。
ところがこの隆盛を支えたのは実は兵庫県産の但馬牛だったということが分かった。
NHKの報道によると、現在飼育されている黒毛和牛の99.9パーセントは但馬の山中に洋種との交雑なしに細々と飼われていた「田尻牛」だということである。
もともと但馬牛は小柄ながら性質が穏健で役牛として優秀だったそうだが、明治の品種改良ブームの中で奇跡的に他種との交配が避けられていたわずか4頭の牛の中から、田尻という農家がオスとして優れていた一頭の牛を徹底的に保護養育したのがルーツであった。
この牛は生涯1500頭もの子牛を生産した(メスに産ませた)というから、並大抵のオスではない。当時はまだ人工授精という方法はなかく、それだけの種付けを行ったわけで、人間のオスもあやかりたいと思うに違いない(笑)。
ところで但馬と言えば旧但馬国の一宮「出石(いずし)神社」である。この神社を出したのにはもちろん訳がある。
祭神はアメノヒボコ(天の日矛)とヒボコが半島の新羅国から招来した「出石の八前の大神」で、まずアメノヒボコだが、彼は新羅国の王子で、記紀によれば第11代垂仁天皇の時代(西暦300年前後)に新羅国を弟に譲り、自分は聖王の治めるという日本に渡来したくて来たという人物である。
この王子が持参した神宝が「八前の大神」で、珠(玉)と鏡と刀と波を切る領巾(ヒレ)がその内容で、ヒレ以外は皇室の「鏡・剣・玉」と同じである。一見すると皇室の祭祀のルーツが半島の新羅にあるかのようだが、邪馬台国時代の半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓=のちの新羅)は倭人との雑居状態であり、倭人の祭祀からなのか、現地の辰韓に由来するものなのか判断はできない。
邪馬台国時代(西暦180年頃~250年頃)の「三韓」で信仰らしき記事としては、馬韓で見られた「大木に鈴と鼓を懸けて鬼神を祭り、一人を擁立して天君と名付け、天神を祭らせる」(鬼とは祖先のこと)というのと、倭人に似た弁韓と辰韓は雑居しているが「鬼神(祖霊)を祭るやり方に違いがある」ことくらいで、「鏡・剣・玉」の三点セットはない。
ただ半島には当時牛がいたことは確実で、実はアメノヒボコ(別名ツヌカアラシト)が半島から日本列島に渡る伝承の中に、
「ツヌカアラシトが国にいた時に、黄牛(役牛)を連れていて見失ったが、村人に食べられてしまった。そこで村人を問い詰めると牛の代わりに白い石を寄越した。その石を床辺に置くと美しい女になった。その女こそは難波のヒメコソ神社に祭られているアカルヒメで、日本へ渡ったのでツヌカアラシトは彼女の後を追いかけた」(垂仁天皇2年条の分注)
というのがある。この中で黄牛の価値は美しい姫になった白石に等しかったということに着目したい。つまり牛の価値はそのころ大変に高かったことを示しているのである。
その牛の伝承を持つツヌカアラシト(アメノヒボコ)が日本に渡来して難波から近江を経て但馬に本拠地を構えたからには、日本には居なかった役牛を半島から移入し、農耕用あるいは運搬用に使ったのではないかという推理が成り立つのではないか。
そう考えると但馬こそ牛が日本にやって来たルーツであり、かつ現在隆盛の黒毛和牛のルーツだと考えてもおかしくないだろう。二重のルーツを持っているということになる。大変な栄誉ではないだろうか。
(※牛が大々的に飼われるようになったのは、安閑天皇の時代だったらしいことが次の日本書紀の記事に見える。
――(安閑天皇が)大連に詔して曰く、「牛を難波の大隅島と姫島の松原に放て。願わくは、名を後に垂れん」(安閑天皇2年9月条)
時の大連は大伴金村だが、天皇は金村に命じて大隅島と姫島に牛を放牧せよと言った。安閑天皇の2年は535年であるから仮に但馬に牛がもたらされたのが垂仁天皇の時代(300年頃)に但馬に渡来したアメノヒボコの頃とすると、200年余りして日本でも各地で牛の生産が始まったことになる。
その放牧された牛も、半島から但馬にもたらされた「但馬牛」の子孫だったかもしれない。)
中でも種牛の部では内閣総理大臣賞を獲得し、総合優勝に花を添えた。「種牛」はもちろんオスの黒牛で、繁殖能力の最もすぐれた牛に与えられる。この部門で鹿児島の牛がトップを取ったのは実に30年ぶりという。
今でこそ鹿児島はじめ日本各地で和牛の飼育が盛んで、中でも三重の松坂牛、滋賀の近江牛など高品質のブランド肉牛が有名だが、日本で和牛の肉を食べる文化は明治維新以後のことである。
それまで牛は農耕用の役牛としては全国的に普及していたが、明治になって洋風文化が入ると豚肉とともに食用の牛が飼われるようになった。その際、欧米の体格の良い牛を和牛と掛け合わせ、品種改良が進み、今日の和牛生産の隆盛となった。
ところがこの隆盛を支えたのは実は兵庫県産の但馬牛だったということが分かった。
NHKの報道によると、現在飼育されている黒毛和牛の99.9パーセントは但馬の山中に洋種との交雑なしに細々と飼われていた「田尻牛」だということである。
もともと但馬牛は小柄ながら性質が穏健で役牛として優秀だったそうだが、明治の品種改良ブームの中で奇跡的に他種との交配が避けられていたわずか4頭の牛の中から、田尻という農家がオスとして優れていた一頭の牛を徹底的に保護養育したのがルーツであった。
この牛は生涯1500頭もの子牛を生産した(メスに産ませた)というから、並大抵のオスではない。当時はまだ人工授精という方法はなかく、それだけの種付けを行ったわけで、人間のオスもあやかりたいと思うに違いない(笑)。
ところで但馬と言えば旧但馬国の一宮「出石(いずし)神社」である。この神社を出したのにはもちろん訳がある。
祭神はアメノヒボコ(天の日矛)とヒボコが半島の新羅国から招来した「出石の八前の大神」で、まずアメノヒボコだが、彼は新羅国の王子で、記紀によれば第11代垂仁天皇の時代(西暦300年前後)に新羅国を弟に譲り、自分は聖王の治めるという日本に渡来したくて来たという人物である。
この王子が持参した神宝が「八前の大神」で、珠(玉)と鏡と刀と波を切る領巾(ヒレ)がその内容で、ヒレ以外は皇室の「鏡・剣・玉」と同じである。一見すると皇室の祭祀のルーツが半島の新羅にあるかのようだが、邪馬台国時代の半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓=のちの新羅)は倭人との雑居状態であり、倭人の祭祀からなのか、現地の辰韓に由来するものなのか判断はできない。
邪馬台国時代(西暦180年頃~250年頃)の「三韓」で信仰らしき記事としては、馬韓で見られた「大木に鈴と鼓を懸けて鬼神を祭り、一人を擁立して天君と名付け、天神を祭らせる」(鬼とは祖先のこと)というのと、倭人に似た弁韓と辰韓は雑居しているが「鬼神(祖霊)を祭るやり方に違いがある」ことくらいで、「鏡・剣・玉」の三点セットはない。
ただ半島には当時牛がいたことは確実で、実はアメノヒボコ(別名ツヌカアラシト)が半島から日本列島に渡る伝承の中に、
「ツヌカアラシトが国にいた時に、黄牛(役牛)を連れていて見失ったが、村人に食べられてしまった。そこで村人を問い詰めると牛の代わりに白い石を寄越した。その石を床辺に置くと美しい女になった。その女こそは難波のヒメコソ神社に祭られているアカルヒメで、日本へ渡ったのでツヌカアラシトは彼女の後を追いかけた」(垂仁天皇2年条の分注)
というのがある。この中で黄牛の価値は美しい姫になった白石に等しかったということに着目したい。つまり牛の価値はそのころ大変に高かったことを示しているのである。
その牛の伝承を持つツヌカアラシト(アメノヒボコ)が日本に渡来して難波から近江を経て但馬に本拠地を構えたからには、日本には居なかった役牛を半島から移入し、農耕用あるいは運搬用に使ったのではないかという推理が成り立つのではないか。
そう考えると但馬こそ牛が日本にやって来たルーツであり、かつ現在隆盛の黒毛和牛のルーツだと考えてもおかしくないだろう。二重のルーツを持っているということになる。大変な栄誉ではないだろうか。
(※牛が大々的に飼われるようになったのは、安閑天皇の時代だったらしいことが次の日本書紀の記事に見える。
――(安閑天皇が)大連に詔して曰く、「牛を難波の大隅島と姫島の松原に放て。願わくは、名を後に垂れん」(安閑天皇2年9月条)
時の大連は大伴金村だが、天皇は金村に命じて大隅島と姫島に牛を放牧せよと言った。安閑天皇の2年は535年であるから仮に但馬に牛がもたらされたのが垂仁天皇の時代(300年頃)に但馬に渡来したアメノヒボコの頃とすると、200年余りして日本でも各地で牛の生産が始まったことになる。
その放牧された牛も、半島から但馬にもたらされた「但馬牛」の子孫だったかもしれない。)