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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

応神天皇の時代②(記紀点描㉒)

2021-10-08 15:01:11 | 記紀点描
【応神朝と仁徳朝の並立】
応神天皇紀と仁徳天皇紀とを突き合わせて読むと、次の二つの記事において時系列の混乱が見える。

(1)仁徳天皇の誕生をめぐる記事
(2)盾人宿祢(たてひとのすくね)への賜姓記事

(1)の記事は仁徳元年条に載っており、それによると仁徳天皇と武内宿祢の子の木菟宿祢(ずくのすくね)とは誕生日が同じで、前者の産屋には木菟(ヅク=みみずく)、後者の産屋には鷦鷯(サザキ=みそさざい)が飛び込んだという。これを吉祥とみてそれぞれの産屋に入った鳥の名を交換して名前(幼名)にした、という内容である。

ところがオオサザキこと仁徳天皇と同い年であるはずのヅクノ宿禰は応神3年の時点で、すでに武将として登場しているのだ。その記事は次のとおりである。

<この年(応神3年)、百済の辰斯(シンシ)王、立ちて貴国(倭国)に礼なし。故に、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢を遣わして、その礼無きをころば(叱責)しむ。これによりて百済国、辰斯(シンシ)王を殺してうべな(謝)ふ。紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり。>(応神3年条)

朝鮮の史書『三国史記』によれば、辰斯王の即位は385年で、阿花王の即位は392年である。したがって応神3年条の紀年は「紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり」ということだから、392年に該当する。

この百済叱責の記事の内容は単に百済への4名の武将の派遣ではなく、実は高句麗への派兵でもあったことが、「高句麗広開土王碑」に見える「辛卯の年(391年)、倭人が渡海し、百済を破り、新羅・加羅を臣民となす」で判明する。

つまり紀角宿祢以下の4武将は百済を叱責しながら、高句麗の南下を防ぐための遠征軍でもあったのである。

しかもこの4人の武将は揃いも揃ってすべて武内宿祢の子供たちなのである。武内宿祢の勢力の大きさが知られよう。

この4名の最後に書かれたのが木菟宿祢で、海外派遣の武将の一人に数えられたわけであるから、少なくともこの392年の時点では成人していたとみるのが妥当であり、もし仮に20歳であったとすると、その誕生年は372年。したがってオオサザキ(仁徳天皇)も372年の生まれとなる。

ところが応神天皇は神功皇后が「新羅征伐」を終えた直後の生まれであるから、364年の生まれである。そうなると372年では応神天皇はまだ8歳。これは仁徳天皇の父であるにはいくら何でも若過ぎる。

以上から仁徳天皇は応神天皇の子ではないということが導かれる。

(2)の盾人宿祢への賜姓記事とは、仁徳天皇の12年7月条に載っている記事で、高句麗が鉄製の盾と的(まと)を送って来たというものである。

翌8月にその鉄製の盾および的を群臣に弓で射させたところ、誰もが射貫けない中で、盾人宿祢だけが見事に射貫いたということで誉められ、「的戸田宿祢(いくはとだのすくね)」という姓を賜った。

ところがこの仁徳12年にはじめて「的戸田宿祢」と改姓したはずの同じ人名の者が、すでに応神16年に登場しているのだ。その記事は、

<平群木菟宿祢(平群は地名)、的戸田宿祢を加羅に遣わす。よりて精兵を授け、詔して曰く、「(葛城)襲津彦、久しく還り来ず。必ずや新羅人の拒ぐ所ならむ。汝ら速やかに行きて新羅を討ち、その道路を披(ひら)け」と。>(応神紀16年8月条)

というもので、仁徳天皇の12年になって的戸田宿祢と改姓されたはずの人物が、前代の応神16年に記されているのである。

たまたま同姓同名の武将がすでに応神時代に居たのに、それに気づかず、盾人宿祢を全く同じ姓名に改姓させたのであろうか。しかし仁徳12年にあるように、鉄の盾と的とを射貫いたからこそ与えられた名誉ある姓名が、偶然に前時代にもあったとは考えににくい。

やはり同一人物であろう。


以上の(1)(2)の時系列的な破綻から、私は応神王朝と仁徳王朝は並立する別の王朝であったと考えるのである。



応神天皇の時代①(記紀点描㉑)

2021-10-06 11:13:36 | 記紀点描
 【応神治世年代の特定】
応神天皇の時代も母の神功皇后時代と同様、半島情勢に深くかかわっていた。

日本書紀では応神紀において、事績を載せた紀年が元年から69年までで23年分ある中で、9年分が半島とかかわりのある記事である。

その中で、次の記事によって応神天皇治世年代を特定できる。(※崩御年を古事記が記しているので、最後に挙げた。)

・元年・・・皇太子(応神天皇)、即位せり。この年は太歳、庚寅(かのえ・とら)。
・3年・・・この年、百済の辰斯(シンシ)王、立ちて、貴国の天皇に礼なし。故に、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟(づく)宿祢を遣わし、その礼なきをを噴譲(ころば)しむ。百済国、辰斯王を殺して謝りぬ。紀角宿祢ら、すなわち阿花を立てて王とし、帰りぬ。
・16年・・・この年、百済の阿花王、薨ず。天皇、直支(トキ)王を召して曰く「汝、国に帰りて位を継げ」と。
・25年・・・百済の直支(トキ)王、薨ず。すなわち子の久爾辛(クニシン)、立ちて王となる。
(※古事記・・・割注で崩御年を「甲午の年の9月9日」とする。)

3年条、16年条、25年条は、おそらく660年に滅亡後の百済から、渡来人(亡命王族)が持参した『百済記』による記事のようだが、3年の「阿花王の即位」は西暦392年、16年条の阿花王の死亡年は405年、25年の直支(トキ)王の死亡年は420年である。

以上から応神天皇の即位の年である「庚寅」は西暦390年と特定できる。神功皇后は「己丑(つちのと・うし)」の年に崩御したとあるので、これは完全に整合している。

即位の年はこれでいいとして、古事記による崩御年が「甲午(きのえ・うま)」なのが引っ掛かる。この応神治世に最も近い甲午は西暦394年であり、そうなると390年に即位してわずか5年で崩御したことになり、これはあり得ない。

とすると「甲午」なる年は誤りであり無視するか、「甲」か「午」のどちらかに誤りがあるのか、と選択を迫られる。

無視するのは簡単だが、これまで古事記に書かれた天皇の崩御年(干支)では、応神天皇の前後に治世のあった9天皇にその崩御年が記されており、おおむね年代的には正しいだろうとしてきた。

成務天皇(乙卯=355年)、仲哀天皇(壬戌=362年)、神功皇后(己丑=389年)、応神天皇(甲午=394年?)、仁徳天皇(丁卯=427年)、履中天皇(壬申=432年)、反正天皇(丁丑=437年)、允恭天皇(甲午=454年)、雄略天皇(己巳=489年)

であるが、応神天皇以外はほぼ間違いない年代特定であると思われるのに、ただ一人応神天皇だけが誤謬である、とするのは若干気が引けるのだが、上記の16年と25年条の百済王の死亡年を考えると、この甲午年はやはり誤りだと考えるほかない。

それでは「甲午」のうち「甲」が誤りか、「午」が誤りなのか、どちらだろうか。

「甲」が誤りだとしてこの前後の「午年」を探すと、406年が「丙午」であり、その次は418年の「戌午」である。

また、「午」の方が誤りだとすると、「甲」の年は、404年に「甲辰」があり、その次は414年の「甲寅」がある。

この4者を崩御年とみると、404年なら治世は15年、406年なら17年、414年なら25年、418年なら29年である。

そこで応神天皇紀で記事の記された紀年を見ると、元年から崩御の41年までに23年分あることが分かる。その23年が実際の統治年ではないかと考えると、414年崩御が最も近いことになる。

したがって私はこの414年崩御、すなわち390年から414年までの25年というのが応神天皇の統治期間としておおむね正しいと考える。

 【王宮を書かない日本書紀】
ところで、古事記には応神天皇の王宮として「軽明宮(かるのあきらのみや)」が記載されているのだが、日本書紀にはそれがないのである。

書紀には母の神功皇后が「磐余若桜宮」という王宮を建てたとあり、そうであるならば応神天皇も即位時に「若桜宮」を引き継いでもよさそうなものだが、それすら記されていない。応神にとって母の起こした宮殿は「そんなの関係ねー」存在だったようだ。

そもそも神功皇后も大和の地に無縁だったように見えるのだ。だからというわけではないが、応神も大和とはかなり縁がないように見える。

その代わり、22年条に不可解な記事がある。

<22年の春3月、天皇、難波に御幸(いでま)し、大隅宮にまします。>

はじめて王宮が記されるのが、何と22年目の記事である。その名は「大隅宮」。

この宮で、妃の吉備からやって来た兄媛(えひめ)が望郷の念を起こし、ついに吉備に帰るというストーリーが描かれ、さらに天皇自身が吉備を経巡り、吉備各地の豪族に出会い、それぞれの土地を安堵するという「巡見説話」が続く。

この大隅宮については逆に古事記には記されていないのだが、これも不審を倍加させる。

この大隅宮を注釈では、安閑天皇の2年(535年)条に見える「難波大隅島」のこととしている(今の大阪市東淀川区の東大道町と西大道町にかかる地域)。

しかし安閑天皇はこの「大隅島」に牛を放牧せよと命令しており、ここが応神天皇の大隅宮所在地であれば、応神崩御後まだ120年ほどしか経っていないわけで、旧跡においてそのような「不敬」なことはさせないであろう。

したがって大隅宮がそこにあったとは考えられない。ではどこだろうか?

私は古日向(南九州)の大隅半島にあったと考えている。もちろん応神時代に大隅が大隅と呼ばれていたわけではなく、7世紀後半に生まれた「大隅」という地名を昔にさかのぼらせてそう書いたのである。

41年条は応神天皇の崩御の年で、<天皇は明宮に崩御せり。時に御年111歳。(割注)、あるいは曰く、大隅宮にて崩御せり、と。>と書いているが、明宮とは古事記の宮殿名「軽島明宮」のことで、日本書紀では崩御の時にようやく古事記と同じ王宮名を書いている。

要するに、日本書紀にとって「軽島明宮」という王宮名は書きたくなかったとしか思われないのだ。特に「軽島」の方は、最後にやっと正式な王宮名を書いたと思っても単に「明宮」でしかない。

その理由を考えてみたいが、それは「軽島」を解釈した時に、ああ、なるほど、と納得がいったのである。

「軽島」は、大和の橿原市にある大軽町にあったというのが、通説である。だが、この辺りから宮殿跡を示すものは何も発見されていない。春日神社に王宮跡という石碑があり、付近には軽寺もあり、飛鳥時代の頃から開かれていた土地だが、軽島明宮の伝承地にはなっていない。

研究者によっては、応神天皇は仁徳天皇の仮託(分身)で、対半島政策を仮の応神天皇名で推し進めたように潤色した。そのため大和に王宮を建てたと書く必要がなかった、と考える人もいる。

私も応神天皇の「軽島明宮」が大和にあったとは考えていない。

それではどこにあったのか。

「軽島」を私は「カニ島」が本義と見るのである。応神天皇が宇治の木幡村で出会った「ミヤヌシヤカワエヒメ」に言問うた(言い寄った)時に、歌を詠み「この蟹は いずこの蟹 百伝う 角鹿の蟹」と言ったとあるが、この蟹がヒントになる。

角鹿は現在の敦賀のことだが、この敦賀は「笥飯(気比)宮」の所在地で、応神天皇がまだ幼い時に武内宿祢に伴われて角鹿に行き、笥飯大神を奉拝した所であった。また、大加羅国の王子のツヌカアラシトが漂着した場所であり、半島南部との交通の開けた所でもあった。

この「角鹿の蟹」こそが、「蟹(かに)島」こと「軽島」ではなかったか。

同時にまた「カニ島」は「鹿児(かに)島」の含意であるとも考える。南九州の鹿児島である。

南九州クマソの大首長であった武内宿祢は、腹違いの弟のウマシウチノスクネによって「武内は筑紫(九州)はもとより、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)をも糾合して、応神王権とは別に独立しようとしている」と讒言されたほどの勢力を南九州に有していた。

武内宿祢は仲哀天皇を産んだヤマトタケルの本身であるから、応神天皇にとっては実の祖父に当たる南九州の王である。武内の有する南九州の水運は朝鮮半島への渡海に精通しており、半島出兵の水軍も掌握していたから、応神天皇時代の半島攻略には欠かせない存在だった。

したがって応神天皇は「角鹿宮」とともに、南九州の宮すなわち「大隅宮」を建てていたと考えて無理はない。

応神天皇は仁徳天皇の分身で、主に半島出兵などにかかわっていた時代の仁徳天皇の仮託であり、実在しない架空の天皇であるーーという研究者の説を、私は次のように言い換える。

応神天皇は414年頃まで仁徳天皇と併存していた天皇で、主に九州に在住し、半島政策に没頭し、特に高句麗との戦いに出兵していた天皇であり、最後は祖父の武内宿祢の地、南九州(古日向)の「大隅宮」(鹿児(かに)島宮)で亡くなった可能性のある天皇であるーーと。


 




神功皇后③(記紀点描⑳)

2021-09-29 20:50:41 | 記紀点描
【神功皇后は斉明天皇の仮託ではない】
古代史学者の多くは、神功皇后は、百済支援のために西暦660年(斉明天皇6年)に「この年、百済のために、まさに新羅を討たんと欲し」、翌年の正月に筑紫を目指して自ら出陣した斉明天皇の姿を、数百年さかのぼらせて造作した皇后であるーーという見解を採っている。

要するに神功皇后は架空の存在に過ぎず、神功皇后紀の事績の描写は斉明天皇の事績の潤色(手を加えてもっともらしく見せたもの)であるというのだ。

しかし神功皇后紀と斉明天皇記を照らし合わせると、「手を加えてもっともらしく見せた」というレベルをはるかに超えた神功皇后紀にしか見られない事績が、とんでもなく多過ぎるのはどういうことだろうか。

まず、斉明天皇は筑紫に出陣する際に「難波津」から船出しているのだが、神功皇后は角鹿(敦賀)からである。もし斉明天皇が神功皇后のモデルであるのならば、神功皇后も同じ難波津から船出したように書いた方が良いだろう。

それと、神功皇后の筑紫における「神懸かり」に「ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ命」(天照大神)はじめ4神が登場するのだが、斉明天皇が筑紫の磐瀬行宮(那の津)や朝倉宮(福岡県朝倉市)などで「神懸かり」になったという事績は全くない。

極め付けは、神功皇后紀の次の紀年、39年、40年、43年、55年、64年、65年、66年、69年の記事である。

・39年・・・(分注)この年、太歳「己羊」。魏志に曰く、明帝の景初3年6月、倭の女王、大夫・難升米らを遣わして・・・朝献す。
・40年・・・(分注)魏志に曰く、正始元年、建忠校尉・梯携らを遣わして詔書印綬を奉りて、倭国に到らしむ。
・43年・・・(分注)魏志に曰く、正始4年、倭王、また、大夫・伊声耆ら8人を遣わして、上献す。
・55年・・・百済の肖古王、薨ず。(※「近肖古王
・64年・・・百済の貴須王、薨ず。王子・枕流王、立ちて王となる。
・65年・・・百済の枕流王、薨ず。王子・阿花、歳若し。叔父の辰斯、奪いて立ちて王となる。
・66年・・・(分注)この年、晋の武帝の泰初2年。晋の「起居注」に曰く、武帝の泰初2年10月、倭の女王、訳を重ねて貢献せり、という。
・69年・・・皇太后(神功皇后)、若桜宮にて崩御。冬、10月15日、狭城盾列陵に葬りまつる。この日に皇太后を追いて尊び、気長足姫尊と申す。
      この年、太歳、己丑。

この中で実年(西暦)のわかっているのが、39年の239年、40年の240年、43年の243年、55年の375年、64年の384年、65年の385年、66年の266年である。

ところが、39年、40年、43年の三か年はおなじみの魏志倭人伝からの分注であるから、西暦年は容易に添付できるのだが、55年から66年までの四か年については「百済記」による記事で、こちらの方は『三国史記』の「百済本紀」との照合から55年が西暦375年、64年が384年、65年が385年と判明している。

また66年条の記事は『晋書』からの挿入で、この年代(泰初2年)は266年であり、同じ中国の正史である魏志倭人伝の記事につながっている。(※この時の倭の女王はヒミコの後継のトヨであろう。)

そうなると39年、40年、43年、66年は「干支2巡」(120年)古く見せていることになる。この四か年の分注は、挿入した編纂者の思い違いだということになる。神功皇后を邪馬台国女王ヒミコに見立てた選者がいたということだ。(※これはこれで興味ある史実である。)

したがって「百済記」からの引用記事の年代こそ、神功皇后の時代であったとして問題ない。

そして最後の69年条の記事によると、皇后は己丑(きのとうし)に崩御しているのは確実で、その年代は389年と特定できる。

夫の仲哀天皇は362年に亡くなっているから、皇子の応神天皇にバトンタッチするまでの362年から389年まで、ほぼ女帝の状態であったことになる。大和での存在感は極めて薄く、皇居とした「若桜宮」が大和にあったというのは疑わしい。(※この点はまだ追究半ばである。)

いずれにしても、統治年代が362年から389年であったのは史実だろう。これをしも「斉明女帝の引き写し」ということは不可能で、「神功皇后は斉明天皇をモデルにした造作説」は成り立たないのである。



神武皇后②(記紀点描⑲)

2021-09-26 20:11:03 | 記紀点描
 【伽耶王・仲哀天皇に嫁した神功皇后】
武内宿祢は腹違いのウマシウチノスクネに「筑紫を倭国から分離し、さらに三韓(馬韓・弁韓・辰韓)を味方に引き入れ、ついには天下を取るつもりのようです」と応神天皇に讒言される(応神天皇9年条)ほど、筑紫では大きな勢力であった。

この讒言により誅殺されかけた武内は、「壱岐直の祖・真根子」が身代わりになって自死した間に、「船で南海を巡って」紀国に到って難を逃れている。

武内宿祢の身代わりになった「壱岐直の祖・真根子」とは「壱岐の根子」すなわち壱岐国の土着の王という意味であるから、これは神功皇后の父・気長宿禰王と重なる人物である。(※この真根子は武内宿祢と瓜二つであったという。武内とは母系のつながりであろうか。)

さて、ウマシウチノスクネの讒言にあったように、武内宿祢は筑紫はもとより、海峡を越えた三韓にも通じていた。武内宿祢も海を越えて任那(弁韓)に行っていた可能性もある。そして現地のフタジノイリヒメに子を産ませたのかもしれない。それがタラシナカツヒコこと仲哀天皇ではなかったか。

「足仲彦(タラシナカツヒコ)」は「仲(なか)を統治した王」と解釈できる。この「仲」とは、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の中に位置する弁韓、すなわち伽耶のことで、仲哀はそこの王であったのではないか。

この仲哀に壱岐の島から嫁いだのが「イキナガタラシヒメ」こと神功皇后だったのだろう。

仲哀天皇の崩御年は書紀によると「壬戌(ジンジュツ)の年」で、西暦362年が該当する。この時代の三韓では、馬韓が百済に統一され、辰韓が新羅に統一されるというまさに一大混乱期であった。

その混乱状態の中で馬韓と辰韓の中間にあった弁韓も、おおいに揺れ動いていたはずである。

この百済と新羅の間にあった弁韓は「任那」(伽耶国)となるわけだが、特に新羅とは不仲に成りつつあった。その新羅と筑紫(九州島)のクマソが連携したら、伽耶国にとっては大きな脅威になるのは明らかであった。

 【仲哀天皇の筑紫への渡来】
そこで仲哀天皇は海峡を渡ってクマソを征伐しようとした。

仲哀天皇の8年条に、

「春正月、筑紫に出でます。時に岡の県主の祖・熊鰐(くまわに)、天皇の車駕を聞きて、・・・(中略)、周芳(すおう)の沙麼(さば=佐波)の浦に参上せり。」

とあるが、福岡県の遠賀川河口の岡地方の県主の熊鰐が、周防(山口県南部)の佐波に出迎えの船を出したとある。

ところが仲哀天皇は前年の9月、すでに瀬戸内海を通って長門(山口県西部)に豊浦宮を造営していたと、仲哀紀には記されている。

ここは首をかしげるところで、時系列から言うと、熊鰐は仲哀天皇が大和方面から長門豊浦宮に到達する前に、より大和に近い周防の佐波に出迎えていなければつじつまが合わないのである。

ところが仲哀天皇が半島南部からやって来たのであれば話は合う。長門に渡来した仲哀天皇一行に対して岡の県主熊鰐が、もうそれ以上大和へ(東へ)は行かせないと行く手を阻んだのだろう。

では、仲哀天皇は半島南部のどこの港から船出をしたのだろうか?

話は前後するが、その答えは仲哀3年条にある。

仲哀天皇の3年条は臣下である武内宿祢の誕生記事である。臣下の誕生を載せるのは他にない稀な記事なのだが、その中で仲哀天皇が紀伊国から船出をしたのが「徳勒津(トクロツ)」であった。

この徳勒津は岩波本の注釈では和歌山市の「得津・薢津(とくつ)」ではないかと比定しているが、それでは「勒(ろ)」が抜けてしまう。

これに対して、私は弁韓の一国「弁辰瀆盧国」の港ではないかと考えたい。「弁辰」は弁韓が辰韓から分離したことを表す書き方で、これは無視してかまわない。残りの「瀆盧国(とくろこく)」を俎上に載せると、「徳勒津」とは「瀆盧津」すなわち瀆盧国の港のことではないかと思い至るのである。

書紀は仲哀天皇が即位したときの王宮名は記さず、いきなり2年2月に角鹿(敦賀)に行幸して「笥飯(けひ)宮」を建て、3月にはこれも理由は示さず、皇后一行を角鹿に置いたまま、紀伊国に行き、「徳勒津宮」を造営している。

そしてまさにこの時に「クマソが叛(そむ)いた」と書かれ、天皇自ら船出して穴門に到り、そこでようやく皇后たちを角鹿(敦賀)から呼び寄せている。

ところでこの角鹿こそ、垂仁天皇紀によると「大加羅国(弁韓=任那)の王子ツヌカアラシト」が漂着したことに因む地名であった。

ここに「笥飯(けひ)宮」を造営したということは、仲哀天皇自身が大加羅国すなわち弁韓の出身であったことを示唆している。そして神功皇后をその角鹿から呼び寄せたということは、皇后を弁韓から呼び寄せたという含意だろう。

要するに仲哀天皇と神功皇后は半島南部の弁韓の支配者であり、そこから九州島に渡来したことを表明しているのである。

 【北部九州の詳細な描写と大和周辺の空疎な描写】
仲哀天皇の即位に当たっては、前々代の景行天皇が最期を迎えた志賀(大津市)の高穴穂宮も、崇神王建以降の大和纏向(磯機)の宮も登場せず、2年になっていきなり登場するのが、大加羅国(弁韓=任那)から渡来したツヌカアラシト王子が漂着したことに因む「角鹿」の笥飯(けひ)宮であった。

3年条では、これもいきなり「南国に巡狩して、紀伊国に至り、そこに徳勒津(トクロツ)の宮を建てた」とあり、その時にクマソが反したので征伐に行くーーというストーリーになっている。しかもこの時は天皇のほぼ単独行で穴門(長門)の豊浦宮に到り、その後、角鹿に置いたままだった皇后や百官を豊浦宮に呼び寄せている。

天皇が角鹿(敦賀)から紀伊に行く途中には、志賀(大津)があり、大和がある。せめてそこまで皇后たちを一緒に連れてきて、大和の纏向宮などにとどめおいてから紀伊に行くのであればまだしも、皇后たちを角鹿に置いたままというのは全く解せない。

天皇にしても皇后にしても大和周辺における存在感は、書紀の描写からは微塵も感じられないのである。

仲哀天皇は、即位時に大和存在を思わせるものは何もなく、角鹿(敦賀)と紀伊のみ。そして、死して後に皇后が新羅から凱旋後に大和に入った時、亡骸を河内の長野御陵に葬ったことだけが見えるだけで、あとはすべて長門(山口県西部)と橿日宮(福岡市)においてクマソ征伐の準備をする場面だけである。

神功皇后も、凱旋後に「磐余に都を造る。(割注)これを若桜宮という」(3年条)とあり、また死亡後に「狭城盾列陵(さきのたたなみりょう)に葬りまつる」と見えるだけである。(※磐余は大和の中心部。狭城盾列陵は奈良市郊外)

仲哀天皇は、橿日宮滞在中に神の罰を受けて死んだとも、クマソとの交戦で死んだともいわれ、北部九州でも存在感は小さい。その一方で、神功皇后は極めて大きな存在感を示している。

皇后に関して大和周辺では角鹿(敦賀)以外に所縁の地名はないのだが、北部九州では微に入り際にわたる。

長門(山口県西部)、名護屋、モトリ島、アベ島、シバ島、逆見海、山鹿岬、洞海、五十、引島、松浦川・・・と佐賀県北西部から福岡県の北東部まで、古代の地理を学べるほど多量の地名が皇后の行動範囲に取り入れられている。

神功皇后が壱岐の島の出身であれば、このような北部九州の土地名はかなり親しんでいたのではないだろうか。

その皇后が半島南部の弁韓王だったタラシナカツヒコこと仲哀天皇に嫁ぎ、4世紀前半、勃興して来た新羅との紛争を経験し、やがて半島情勢の逼迫によって筑紫(九州島)に渡来したのだろう。

そう考えると、もともと弁韓の出身であれば、大和における異常なまでの存在感の薄さの説明がつく。




神功皇后①(記紀点描⑱)

2021-09-24 23:25:56 | 記紀点描
 【はじめに】
武内宿祢が4世紀の男のスーパースターなら、同時期の女のスーパースターは神功皇后だ。

武内宿祢は南九州クマソ(武日)国の「内」(ウチ・ウツ)の生まれで、景行天皇紀では3年条に、臣下としては異例の出生譚が載せられている。

その一方で、神功皇后の出自は、古事記の第9代開化天皇の条に詳しい。

それによると、神功皇后の父は息長宿禰王で、開化天皇から数えて男系の5代目。

母は葛城高額比売で、母方は新羅系の渡来人「アメノヒボコ」が但馬に定着して始まった家系とされ、垂仁天皇の命により「トキジクノカグノコノミ」(季節にかかわりなく輝き実っている果実)を「常世」(とこよ)に採りに行き、数多の年を経たために天皇は他界してしまい、墓前に供え自死したというタジマモリが4代目にいる。(※タジマモリは三宅連の先祖にもなっている。)

要するに父方は皇族の分流で、母方は半島の新羅系ということである。ただ、垂仁天皇の3年の時に渡来して来たという天日槍(アメノヒボコ=古事記では天之日矛)の時代を私は西暦300年代の初期とみているので、新羅はまだ「辰韓」と呼ばれていた。いずれにしても母方が半島由来であることに変わりはない。

 【「気長足姫」は「イキナガタラシヒメ」】
神功皇后の本名(幼名)を、古事記では「息長帯比売」と書き、日本書紀では「気長足姫」と書く。父も古事記では「息長宿禰王」と書き、書紀では「気長宿禰王」と書く。明確に「息」と「気」の違いがある。(※帯と足はどちらもタラシで、互換性があるからここでは問題にしない。)

この違いはどうして起きたのだろうか? これについてはほとんどスルーされている。どの道、造作なのだから一字の違いなどどうでもよいと思われているようである。

しかし、たった一字の違いなら、造作であるにせよ統一させるのは「超簡単」だ。それをしなかったことの方に意味があるのではないか。

通説では「息」と書いて「オキ」と読ませるわけだが、これは近江の坂田郡に「息長水依姫」にまつわる「息長」という地名があり、それを「おきなが」と読むことから、誰もそれを是としてそう読むわけだが、本来なら「いきなが」である。

したがって古事記の「息長帯比売」は「イキナガタラシヒメ」と読む方に分がある。問題は書紀の「気長足姫」で、これはどう読んでも「キナガタラナヒメ」としか読めない。これを「オキナガタラシヒメ」とは絶対に読めない。「オキ」と読ませたいならだれでも間違わない「沖」を使っただろう。

私見では古事記の本来の読み「イキ」に従いたいのだが、書紀の、何かの間違いではなかろうかと思われる「気(キ)」の採用について、非常に気(キ)になるので、少し考えてみたい。

「イキ」と強く発音してみるとすぐ分かることが、「キ」の強勢、つまり「歯擦音」の強さである。「イ・キーッ」の「キーッ」の大きさはその長さとともに耳に強く印象付けられ、「イ」の方が全く霞んでしまう。

これが結局のところ「イキ」から「イ」の脱落を生むのではないか。よって書紀では「イキ」と書かずに、「気(キ)」だけで済ますことにしたのではないだろうか。

以上から、発音上の要請から「息(イキ)」が「気(キ)」になった要因だと思われるのだが、実はイキ(息)を使いたくなかった大きな要因が書紀の方にあったのである。

私は「息」をそのまま「イキ」と読み、「息」を「壱岐」の意味にとり、「イキナガタラシヒメ」とは「壱岐国の首長であり、統治していた女王」ということであったと考えている。同様に父・息長宿禰王は「壱岐国王」であった。

古事記は「イキ」を、さすがにずばり「壱岐」とは書かずに「息」と書いたのだが、書紀の方はその「息」すら書かずに「気」とし、「イキ」の方は完全にぼかした。それは要するに神功皇后が「壱岐国」の女王であってはまずいからである。

日本書紀は「日本の王統ははるかな昔から天孫の後裔であり、日本列島の中で代々王統を繋いで来た」というのがテーゼであったから、列島から外れたちっぽけな島「壱岐」の女酋が、天皇の地位にあってはならないのであった。

まして、この後見ていくように、壱岐国から嫁いだ仲哀天皇とともに朝鮮半島南部の弁韓(のちの任那)から九州に渡来したことが知れてしまうような「息長」は使用できなかったのであろう。

 【琴を弾く仲哀天皇・武内宿祢・神功皇后】
壱岐国王「気長宿禰王」の娘「気長足姫」は、半島南部の弁韓王こと仲哀天皇の嫁になるわけだが、この仲哀天皇(和風諡号タラシナカツヒコ)の属性を見ると、まず、ヤマトタケルの皇子であることが挙げられる。

このブログの「ヤマトタケル(記紀点描⑭)」において、私はヤマトタケルは武内宿祢の仮託、すなわち分身であるとしたが、これから敷衍すると仲哀天皇は武内宿祢の息子ということになる。

そう考えると、仲哀天皇の嫁、つまり神功皇后は武内宿祢にとっては息子の嫁、すなわち義理の娘である。(※のちに生まれる応神天皇は武内宿祢の外孫に当たることになる。)

実はこの3人には共通の「趣味」があった。それは「琴を弾くこと」である。

もちろん記紀に「趣味」と記されているわけではない。その利用法は「神がかり(鎮神)を演出する道具」としてである。

まず、仲哀天皇は、古事記に「天皇、筑紫の可志比(橿日)宮にいまして、クマソを撃たんとし給いし時、御琴を弾かして、建内(武内)宿祢大臣、沙庭に居て、神の命を請いき」とある。

次に、武内宿祢は、日本書紀の神功皇后即位前紀(仲哀天皇9年)に、「皇后、吉き日を選びて斎宮に入りて、みずから神主となり給う。すなわち武内宿祢に命じて琴を弾かしむ」とある。

神功皇后は即位前紀の12月条で、すでに新羅征伐を終え、筑紫に凱旋してから応神天皇を「宇美」で産んだという事績が記されたあと、分注の中で、「一に云う。足仲彦(仲哀)天皇、筑紫の橿日宮におわします。ここに神ありて・・・(中略)・・・すなわち神の言に随いて、皇后、琴を弾き給う。」とある。

以上のように、仲哀天皇、武内宿祢、神功皇后の三者はそれぞれ琴を弾いている。

(※琴を弾く描写のあるのは、もう一人、19代の允恭天皇がいる(允恭天皇7年11月条)が、この時は「新室(にいむろ)の宴」(新築祝い)における余興であった。仲哀天皇時代は神がかりのための楽器だったのが、100年ほど後の允恭天皇の時代になると余興にも用いられるようになったのである。)

この「琴」という楽器については、何と言っても有名なのが「伽耶琴」である。伽耶から日本にもたらされた当時は神事に使用されていたようだが、古墳時代中期(500年代)になると、各地の埴輪に「琴を弾く男子像」がいくつか見られるようになる。

同時代の3人が、揃いもそろって琴を弾くというのは、この仲哀天皇と神功皇后の時代にしか見られない。これは何を意味するのだろうか?

神功皇后こと「イキナガタラシヒメ」は壱岐の出身であり、武内宿祢は南九州(古日向)の出身である。したがって、本来、琴を弾く習慣を持っていない。

とすると、仲哀天皇に琴を弾く習慣があった。つまり仲哀天皇こそが伽耶の出身であったことを示唆してはいないだろうか。