【応神朝と仁徳朝の並立】
応神天皇紀と仁徳天皇紀とを突き合わせて読むと、次の二つの記事において時系列の混乱が見える。
(1)仁徳天皇の誕生をめぐる記事
(2)盾人宿祢(たてひとのすくね)への賜姓記事
(1)の記事は仁徳元年条に載っており、それによると仁徳天皇と武内宿祢の子の木菟宿祢(ずくのすくね)とは誕生日が同じで、前者の産屋には木菟(ヅク=みみずく)、後者の産屋には鷦鷯(サザキ=みそさざい)が飛び込んだという。これを吉祥とみてそれぞれの産屋に入った鳥の名を交換して名前(幼名)にした、という内容である。
ところがオオサザキこと仁徳天皇と同い年であるはずのヅクノ宿禰は応神3年の時点で、すでに武将として登場しているのだ。その記事は次のとおりである。
<この年(応神3年)、百済の辰斯(シンシ)王、立ちて貴国(倭国)に礼なし。故に、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢を遣わして、その礼無きをころば(叱責)しむ。これによりて百済国、辰斯(シンシ)王を殺してうべな(謝)ふ。紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり。>(応神3年条)
朝鮮の史書『三国史記』によれば、辰斯王の即位は385年で、阿花王の即位は392年である。したがって応神3年条の紀年は「紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり」ということだから、392年に該当する。
この百済叱責の記事の内容は単に百済への4名の武将の派遣ではなく、実は高句麗への派兵でもあったことが、「高句麗広開土王碑」に見える「辛卯の年(391年)、倭人が渡海し、百済を破り、新羅・加羅を臣民となす」で判明する。
つまり紀角宿祢以下の4武将は百済を叱責しながら、高句麗の南下を防ぐための遠征軍でもあったのである。
しかもこの4人の武将は揃いも揃ってすべて武内宿祢の子供たちなのである。武内宿祢の勢力の大きさが知られよう。
この4名の最後に書かれたのが木菟宿祢で、海外派遣の武将の一人に数えられたわけであるから、少なくともこの392年の時点では成人していたとみるのが妥当であり、もし仮に20歳であったとすると、その誕生年は372年。したがってオオサザキ(仁徳天皇)も372年の生まれとなる。
ところが応神天皇は神功皇后が「新羅征伐」を終えた直後の生まれであるから、364年の生まれである。そうなると372年では応神天皇はまだ8歳。これは仁徳天皇の父であるにはいくら何でも若過ぎる。
以上から仁徳天皇は応神天皇の子ではないということが導かれる。
(2)の盾人宿祢への賜姓記事とは、仁徳天皇の12年7月条に載っている記事で、高句麗が鉄製の盾と的(まと)を送って来たというものである。
翌8月にその鉄製の盾および的を群臣に弓で射させたところ、誰もが射貫けない中で、盾人宿祢だけが見事に射貫いたということで誉められ、「的戸田宿祢(いくはとだのすくね)」という姓を賜った。
ところがこの仁徳12年にはじめて「的戸田宿祢」と改姓したはずの同じ人名の者が、すでに応神16年に登場しているのだ。その記事は、
<平群木菟宿祢(平群は地名)、的戸田宿祢を加羅に遣わす。よりて精兵を授け、詔して曰く、「(葛城)襲津彦、久しく還り来ず。必ずや新羅人の拒ぐ所ならむ。汝ら速やかに行きて新羅を討ち、その道路を披(ひら)け」と。>(応神紀16年8月条)
というもので、仁徳天皇の12年になって的戸田宿祢と改姓されたはずの人物が、前代の応神16年に記されているのである。
たまたま同姓同名の武将がすでに応神時代に居たのに、それに気づかず、盾人宿祢を全く同じ姓名に改姓させたのであろうか。しかし仁徳12年にあるように、鉄の盾と的とを射貫いたからこそ与えられた名誉ある姓名が、偶然に前時代にもあったとは考えににくい。
やはり同一人物であろう。
以上の(1)(2)の時系列的な破綻から、私は応神王朝と仁徳王朝は並立する別の王朝であったと考えるのである。
応神天皇紀と仁徳天皇紀とを突き合わせて読むと、次の二つの記事において時系列の混乱が見える。
(1)仁徳天皇の誕生をめぐる記事
(2)盾人宿祢(たてひとのすくね)への賜姓記事
(1)の記事は仁徳元年条に載っており、それによると仁徳天皇と武内宿祢の子の木菟宿祢(ずくのすくね)とは誕生日が同じで、前者の産屋には木菟(ヅク=みみずく)、後者の産屋には鷦鷯(サザキ=みそさざい)が飛び込んだという。これを吉祥とみてそれぞれの産屋に入った鳥の名を交換して名前(幼名)にした、という内容である。
ところがオオサザキこと仁徳天皇と同い年であるはずのヅクノ宿禰は応神3年の時点で、すでに武将として登場しているのだ。その記事は次のとおりである。
<この年(応神3年)、百済の辰斯(シンシ)王、立ちて貴国(倭国)に礼なし。故に、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟宿祢を遣わして、その礼無きをころば(叱責)しむ。これによりて百済国、辰斯(シンシ)王を殺してうべな(謝)ふ。紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり。>(応神3年条)
朝鮮の史書『三国史記』によれば、辰斯王の即位は385年で、阿花王の即位は392年である。したがって応神3年条の紀年は「紀角宿祢ら、すなわち阿花王を立てて王となして帰れり」ということだから、392年に該当する。
この百済叱責の記事の内容は単に百済への4名の武将の派遣ではなく、実は高句麗への派兵でもあったことが、「高句麗広開土王碑」に見える「辛卯の年(391年)、倭人が渡海し、百済を破り、新羅・加羅を臣民となす」で判明する。
つまり紀角宿祢以下の4武将は百済を叱責しながら、高句麗の南下を防ぐための遠征軍でもあったのである。
しかもこの4人の武将は揃いも揃ってすべて武内宿祢の子供たちなのである。武内宿祢の勢力の大きさが知られよう。
この4名の最後に書かれたのが木菟宿祢で、海外派遣の武将の一人に数えられたわけであるから、少なくともこの392年の時点では成人していたとみるのが妥当であり、もし仮に20歳であったとすると、その誕生年は372年。したがってオオサザキ(仁徳天皇)も372年の生まれとなる。
ところが応神天皇は神功皇后が「新羅征伐」を終えた直後の生まれであるから、364年の生まれである。そうなると372年では応神天皇はまだ8歳。これは仁徳天皇の父であるにはいくら何でも若過ぎる。
以上から仁徳天皇は応神天皇の子ではないということが導かれる。
(2)の盾人宿祢への賜姓記事とは、仁徳天皇の12年7月条に載っている記事で、高句麗が鉄製の盾と的(まと)を送って来たというものである。
翌8月にその鉄製の盾および的を群臣に弓で射させたところ、誰もが射貫けない中で、盾人宿祢だけが見事に射貫いたということで誉められ、「的戸田宿祢(いくはとだのすくね)」という姓を賜った。
ところがこの仁徳12年にはじめて「的戸田宿祢」と改姓したはずの同じ人名の者が、すでに応神16年に登場しているのだ。その記事は、
<平群木菟宿祢(平群は地名)、的戸田宿祢を加羅に遣わす。よりて精兵を授け、詔して曰く、「(葛城)襲津彦、久しく還り来ず。必ずや新羅人の拒ぐ所ならむ。汝ら速やかに行きて新羅を討ち、その道路を披(ひら)け」と。>(応神紀16年8月条)
というもので、仁徳天皇の12年になって的戸田宿祢と改姓されたはずの人物が、前代の応神16年に記されているのである。
たまたま同姓同名の武将がすでに応神時代に居たのに、それに気づかず、盾人宿祢を全く同じ姓名に改姓させたのであろうか。しかし仁徳12年にあるように、鉄の盾と的とを射貫いたからこそ与えられた名誉ある姓名が、偶然に前時代にもあったとは考えににくい。
やはり同一人物であろう。
以上の(1)(2)の時系列的な破綻から、私は応神王朝と仁徳王朝は並立する別の王朝であったと考えるのである。