goo blog サービス終了のお知らせ 

鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

安康天皇~押木の玉縵~(記紀点描㉗)

2021-10-22 21:23:38 | 記紀点描
安康天皇は允恭天皇と皇后オオナカツヒメとの間に生まれた5皇子4皇女のうち、第3皇子である。

幼名は穴穂皇子で、本来なら太子となるべき長兄の木梨軽皇子が失脚した後を受けて即位している。

この天皇の時代で特記しなければならないのが「押木の玉縵(おしきのたまかずら)」である。

「押木の玉縵」というのは注釈ではどんなものか不明とされているが、私は「金冠」のことだと思っている。

まず「押木」だが、これは「押金」だろうと考える。つまり金を延ばして板状にしたものを「押型」(金型)で打ち抜くことを意味していると解釈する。

次に「玉縵(たまかずら)」だが、押し型で抜いた形が「縵(かずら)」のようにくねくねと上に伸び、その縵(かずら)に多数の玉をあしらう。

それを頭に巻く鉢巻のように丸くした金の板上の物に取り付けると出来上がる「金製の冠」であろう。



土台に当たる鉢巻状の金の輪から立ち上がる「縵(かずら)」とそこに付けられた多数の玉が見事である。この手の金冠は5世紀から6世紀の新羅の王墓から多数見つかっている。仲哀天皇の「クマソ征伐説話」で、神がクマソよりか「金銀をはじめ目映い種々の宝物がたくさんある国を討て」と言ったのは新羅のことであった。

この「押木の玉縵」を所有していたのは、仁徳天皇の妃となった南九州出身の髪長媛が産んだ「大日下王」(大草香皇子)であった。

金冠は王様クラスの者が被る装飾品で、なぜ大草香皇子が持っていたのだろうか。

私は髪長媛の出身地である古日向(南九州)の王者、端的に言えば当時の髪長媛の父である「諸県君牛諸井」が半島とのつながりの中で入手したものと考える。機内王権が手に入れにくい、あるいは、機内王権より先に半島からの到来物を手に入れることが可能だったことを「押木の玉縵」が証明しているのだ。

その金冠「押木の玉縵」を巡っては概略次のような経緯がある。

<安康天皇は弟の大長谷(おおはつせ)皇子(のちの雄略天皇)の配偶者として、大草香皇子の妹若日下皇女を考えていた。そこで根臣(ねのおみ)を遣わして申し込んだところ、大草香皇子はそれを受け入れ、証拠の品として「押木の玉縵」を差し出した。

ところが使いの根臣は「押木の玉縵」に目がくらんで我が物としたうえに、「大草香皇子は同族といえども妹はやれない」と断ったと讒言したのであった。

安康天皇はそれを聞いて怒り、大草香皇子を亡き者にし、あろうことか大草香皇子の妻「ナカシヒメ」を自分の皇后にしてしまう。>

ところがあに図らんや、ナカシヒメの連れ子である「眉輪王(まよわのきみ)」に殺されるという大失態のために、即位後わずか3年で安康天皇の時代は終わるのである。

(※これは「親の仇を討つ」の類だが、在位中に天皇が暗殺されたことがはっきり書いてあるのは、この安康天皇と崇峻天皇の2例しかない。安康天皇は皇后の連れ子によるが、崇峻天皇の場合は蘇我馬子にそそのかされた東漢直駒(ひがしのあやのあたい・こま)という臣下による暗殺であった。)

南九州(古日向)からやって来た髪長媛の血を引く大草香皇子が弑逆され、その妻が皇后になるという事件は、古日向勢力と安康王権との相克であろうとの見方も成り立つ。しかし肝心の天皇自身が暗殺されてしまっては元も子もないだろう。

允恭天皇~探湯と琴と~(記紀点描㉖)

2021-10-21 21:22:55 | 記紀点描
允恭天皇は仁徳天皇と磐之媛の間に生まれた4皇子の末子で、病弱だったのだが、新羅からの使節の中に薬師がいて、その処方によって快癒したという経歴を持つ。

その後は精力旺盛だったのか、皇后オオナカツ姫との間に9人の子を授かっている(このうち二人が安康天皇と雄略天皇となる)。

允恭天皇の事績で最も優れたものが「氏姓(うじかばね)」の乱れを回復したことである。

氏は家の名で、姓は古くから皇室によって与えられた称号のようなもので、時代が下がるにつれて勝手に名乗る者が多くなった。これを「探湯(くがたち)」によって正そうとしたのであった。

即位して4年目に次のように詔勅を出している。

<群卿や諸国の国造たちは「帝室に連なる家系であり、天降った家である」と言ったりしている。(中略)一つの氏が繁栄して、そこから多くの姓が生まれ、実情が分からなくなっている。そこで諸氏は斎戒沐浴して盟神探湯せよ。>

ここでは探湯の本来の意味である「盟神探湯」、すなわち「神に誓って湯を探る」という作法を髣髴とする言葉を使っているが、要するに、煮え湯に手を入れて火傷をしなければその者は正しいとする行為である。拷問的な刑罰と言ってよい。

実際に煮え湯に手を入れたらどのくらいの割合で火傷を負ったものがいたかは記録されていないが、偽っている者の多くは怖気づいて、手を入れようとしなかったとあり、その後は偽りが正され、もう偽ろうとする者はいなくなったようである。

7年目に、允恭天皇も自ら琴を弾いたという記事があるので紹介しておきたい。

<7年の冬12月に、新室に宴(うたげ)す。天皇、みずから琴を弾きたもう。皇后、起(た)ちて舞いたまう。>

何かを新築した際の祝いの宴で、允恭天皇自らが琴を弾き、それに合わせて皇后のオオナカツヒメが舞いを舞ったというのである。

天皇または高位の者が琴を弾くという描写があるのは、仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢の3人がおり、この允恭天皇を入れて4人ということになる。仲哀天皇と神功皇后はそもそも半島の弁韓すなわち伽耶から九州に渡来した王であり、伽耶琴を弾くことはできておかしくない。また武内宿祢は筑紫(九州)から半島の弁韓まで勢力圏としていたことがあり、伽耶琴に触れて習熟した可能性がある。

ところが允恭天皇と半島との関りは薄い。それなのに琴を弾くことができたのは、母の父、つまり祖父の葛城襲津彦(ソツヒコ)がたびたび半島に使者として遣わされたことに由来がありそうである。ソツヒコが琴を招来したのかもしれないのだ。それなら触れている可能性が高い。

さて、新築祝いの話の続きだが、舞いを舞った後には必ず女子を天皇に紹介しあてがう決まりがあり、皇后は妹の「オトヒメ」を紹介した。オトヒメの美しさは衣装を通しても光り輝くほどのものであり、それゆえ別名を「衣通娘女(そとおしのいらつめ)」と言ったという。

天皇は衣通娘女のために河内に「茅渟宮(ちぬのみや)」を造り、またのちには「藤原宮」も造り、寵愛した。

23年には皇子の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)を皇太子に立てるのだが、軽皇子は実の妹の軽大郎女と深い仲になって、世を揺るがし、古事記では二人ともに死んだとし、書紀では軽大郎女だけが、伊予の国に流されたとしている。

そんな世情の中で、天皇は42年に突然死んでいる。

<42年の春正月の戊子(14日)、天皇崩御せり。時に年若干。>(允恭天皇紀、42年条)

普通、天皇が崩御する際には「病が重くなって」など前触れの記事が書かれるのだが、この天皇に限ってはいきなりの崩御記事であり、しかも崩御の時の年齢が「年は若干」とあいまいな書きぶりである。首をかしげるところである。

古事記では<天皇の御年、78歳。>とあり、その直後の割注で「甲午の年の正月15日にかむあがりましき」としてあるので、西暦454年に78歳で崩御したことが分かる。

書紀の允恭紀がなぜ崩御の年を「若干」としか書かないのかは謎とする他ない。

(※古事記によれば、仁徳天皇の崩御年は427年、履中天皇は432年、反正天皇は437年、そして允恭天皇は454年であり、この西暦年はほぼ正確なのではないかと思われる。)

履中天皇~隼人の登場~(記紀点描㉕)

2021-10-14 10:29:50 | 記紀点描
【住吉仲(スミノエナカツ)皇子の反逆と近習の隼人】

夫の仁徳天皇の浮気に嫉妬したまま高津宮には帰らず、さりとて自分の実家である南葛城の高宮にも戻らず、山背の筒城に仮宮を建てて時を過ごし、ひっそりとこの世を去ったのは皇后のイワノヒメ(磐之媛)であったが、皇后は4人の皇子を産み、そのうち3人が相継いで天皇になった。

天皇の皇統譜を見ても、同母兄弟が3人も天皇になるというのは珍しいことで、イワノヒメの面目躍如だろう。しかし生前であればまさに大殊勲となったのだが、あいにく皇后の死後のことであったから哀惜の方が先に立つ。

イワノヒメが産んだのは、イザホワケ皇子(17代履中天皇)、スミノエナカツ皇子、ミズハワケ皇子(18代反正天皇)、オアサヅマワクゴスクネ皇子(19代允恭天皇)で、二番目のスミノエナカツ皇子以外はみな即位している。

スミノエナカツ(住吉仲)皇子が天皇になれなかったのは、長子のイザホワケに代わって天皇位に就こうと反逆を企てたからである。

履中天皇の即位前紀にはその経緯が詳しく載せられているのだが、この時にはじめて「隼人某」として具体的な隼人が登場する。

その名は古事記では「曽婆加里(そばかり)」、書紀では「刺領巾(さしひれ)」と書かれ、スミノエナカツ皇子の近習(側近)であった。

書紀ではクロヒメをめぐって「恋の鞘当て」が生じ、ともに殺意が生まれた挙句の「スミノエ皇子の反逆」とされているのだが、古事記ではその描写はなくただ早く天皇になりたいというスミノエ皇子の執心が原因だとしている。

その是非についてはここでは問題にせず、隼人がこの事件の解決に一役買いながら、結局は不忠だとして殺されてしまうというストーリーを取り上げたい。

事件の描写は、イザホワケ(履中)がスミノエ皇子の反逆を知って、三番目のミズハワケ(反正)にスミノエ皇子の殺害を依頼することから始まる。

ミズハワケはスミノエ皇子のいる難波に行き、皇子の側近のソバカリを「うまくいったら、お前を大臣に取り立てる」とそそのかし、主人のスミノエ皇子を殺害させるのに成功する。

そしてイザホワケのいる大和へ上る途中で一泊して宴を開き、「ソバカリ大臣就任」の祝宴の中で、大きな盃に注いだ酒をソバカリに仰ぐように飲ませたまさにその時に、ソバカリの首を切り落として殺害する。

ソバカリが天皇位を狙って反乱を起こしたスミノエ皇子を殺害したのは大いなる殊勲だが、スミノエ皇子は直前までソバカリの主人であった。それは主人殺しという不忠極まりない犯罪である。だから生かしておくわけにはいかない――というのだ。

結局、隼人はまんまと騙されたのである。

そのあとイザホワケ皇子は大和の磐余の稚桜(わかさくら)宮において即位する。不可解なのが、この磐余の稚桜宮である。この宮は実は神功皇后が建てた宮なのである。

神功皇后は稚(若)桜宮を宮殿とし、子の応神天皇は軽の明宮(かるのあきらのみや)を宮殿とし、子の仁徳天皇は難波の高津宮を宮殿としたのだが、代替わりごとに宮殿(皇居)を変えるのは当時の皇室の慣例であった。だがしかし、3代前の皇居を再び皇居とするのは前例がない。

これの意味するところは先祖の宮殿に入ったということではなくして、仁徳王権とは別仕立てであった南九州を勢力の本拠地とした応神王権の大和における根拠地を言わば「差し押さえ」たのである。

つまり応神王権との決別を象徴しているのだ。

南九州に本拠地のある隼人の一族のひとりであるソバカリの処遇、すなわち仕えた主人を裏切って殺害し、そのことで逆に「主人殺しの不忠者」として断罪されたという説話も、南九州を本貫とする武内宿祢の後継である応神王権没落の象徴である。

このことで想起するのは景行天皇の「クマソ征伐」説話だ。

景行天皇は南九州に親征した時に、クマソの豪族である「厚鹿文(アツカヤ)・狭鹿文(サカヤ)」を征伐する手段としてアツカヤの娘を使って親を殺害させるのだが、「親を裏切った不忠者」として娘を殺してしまう。この説話とそっくりだということに気付かされるのだ。

上代はこのように内通者によって敵を征伐するのが常套手段だったのだろうか。斉明天皇の時代にも、有間皇子(ありまのみこ)が反旗を翻したとして誅殺されるという事件があったが、蘇我の赤兄(そがのあかえ)が有間皇子の反逆の意志を引き出した内通者(スパイ)だったという事例があった。

【近習隼人「曽婆加里」と「刺領巾」】

南九州が本拠地である隼人が、初めて大和の天皇家に仕えるというこの記事をどう捉えたらよいのだろうか?

残念ながら記紀にはその由来が記されておらず、いきなりスミノエ皇子の近習(側近)として登場する。

南九州人を隼人と書くのも初めてなら、天皇家の皇子の側近として描かれるのも初めてである。(※ニニギノミコトの3人の皇子のうちホデリノミコトが「隼人の祖」と割注されているが、これは天武朝以後の記紀編纂時点において時代をさかのぼらせた注釈である。)

私見ではこの隼人という名辞は、天武天皇時代に史実として描かれている「大隅隼人」「阿多隼人」の「隼人」を、履中天皇時代にさかのぼらせて使用したものと考えている。応神天皇の「大隅宮」の「大隅」も同じ援用であろう。

したがってこの「隼人」は、本来なら「(南九州の)曽人」と書くべきなのである。

隼人という名辞は、斉明天皇時代に行われた百済救援の半島出兵、つまり新羅・唐連合軍との戦い(白村江戦役)で完敗を喫したことによる九州の水軍の没落が反映している。

どういうことかと言えば、九州水軍の一大勢力であった南九州の水軍(鴨族)が戦敗によって著しく勢力を落とした上に、敗戦の「戦犯」扱いされることになった。要するに「賊軍」となったわけである。

その結果、勢力を温存した仁徳王権とそれを引き継いだ履中王権のもとで、南九州に本拠を持つ人間は「隷属」する他なかった。ソバカリ(サシヒレ)はそういった過去を持つ武人だったのであろう。

ただ、賊軍化したとはいえ南九州の曽人は、かつて神武王権(私見では投馬国王権)を開いたことのある由緒ある家柄でもある。しかも軍人として歴戦を経ており、胆力や霊力があると信じられていた。「隼」とは、四神思想上の南を守護する「朱雀(すざく)」に匹敵し、さらに「素早い」という属性を加味して名付けられた。したがって「隼人」は南九州の曽の武人にふさわしい名辞だったと言える。

ところで、同じスミノエ皇子に仕えた隼人の名が、古事記では「ソバカリ」と書かれ、書紀では「サシヒレ」と書かれたのはなぜだろうか?

実はこの2種の名は同じことを表しているのである。

まず古事記の「ソバカリ」だが、これは「ソバ」と「カリ」に分けられる。「カリ」の方から言うと、話は天孫降臨神話の中の「葦原中国の平定」の場面から始める必要がある。

高天原から皇孫を降下させる前に、先遣隊として「天菩比神」と「天若日子(アメノワカヒコ)」とを下して交渉させようとしたのだが、大国主の娘下照姫を妻にしたアメノワカヒコは8年たっても高天原に帰って来なかったので、天佐具売(アメノサグメ)という雉を遣わして帰りを慫慂しようとしたのだが、逆に雉は殺されてしまい、そのためワカヒコ自身も「返し矢」に当たって死ぬ。

そのアメノワカヒコの葬儀にやって来たのがオオクニヌシの子のアジシキタカヒコネで、この人はワカヒコにそっくりだったので皆が「ワカヒコが生き返った」と大騒ぎになった。だが、タカヒコネは「冗談じゃない、死人と間違うなんて!」と怒り、下げていた刀で喪屋を切り倒してしまう。

この時に使った太刀を古事記では「大量(オオハカリ)」と言った。この漢字ではよく分からないが、書紀ではこれを「大葉刈」と書いているので、「カリ」とは「刈る物」すなわち刀剣のことだと判明する。

そこで後回しになった「ソバ」だが、これは「側(そば)」の意であろう。そこで「ソバカリ」とは「カリ(刀剣)を側(そば)に持つ者」と解釈できる。

では書紀の「サシヒレ」はどう解釈できるだろうか。

これは「サシ」と「ヒレ」とに分けられる。「サシ」は「刺」と漢字が当てられており、これは「差す」と同義で、「武士が刀を差す」という時の「差す」に違いない。

「ヒレ」は漢字では「領巾」と当てられているので、何か「頭から肩にかけて被るもの(布)」というイメージだが、それでは「刺す」という感じとマッチしない。

ところで古事記の応神天皇記には、アメノヒボコ(天之日矛)の説話が載っている。書紀では垂仁天皇時代のことになっているのだが、今ここでは詮索せず、そのアメノヒボコが半島から招来したという「八種の神宝」が紹介されているのだが、それは、

<珠(たま)二貫(ふたつら)。また、浪振る領巾、浪切る領巾、風振る領巾、風切る領巾。また、奥津鏡、辺津鏡、併せて八種なり。>

というものであった。玉が2種、領巾が4種、そして鏡が2種である。

この中で「領巾(ヒレ)」の4種が注目される。浪(波)と風を振ったり、切ったりする神宝なのだが、振るは確かに「布を振る」というイメージだが、「切る」方はどうだろうか。

参照すべきは日本書紀のアメノヒボコの渡来伝説で、書紀ではヒボコが招来した神宝は七種であり、内訳は玉が3種、刀1種、矛1種、そして鏡1種、神具1種であった。(垂仁天皇3年3月条)

これを見ると布製の領巾は無い。玉と刀(矛)と鏡、および神具である。上の古事記の「八種の神宝」には、ここにはある「刀・矛」という太刀・剣の類が無いことに気付かされる。

そうなると領巾(ヒレ)は布製の被り物ではなく、太刀・剣のことではないかと思わざるを得ない。「(波や風を)切る」という表現は、確かに刀剣の類に似合う。

以上から「サシヒレ」とは「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」というイメージになる。

さて、先の「ソバカリ」は「カリ(刀)を側に持つ者」であり、後の「サシヒレ」は「ヒレ(刀剣)をサシ(差し)ている者」と解釈でき、同義であることが判明する。つまりは同一人物なのだが、古事記と日本書紀で見た目(聞いた音)でなぜこのような違いが生じたのかは今のところ、原史料上で違っていたのだとする他ない。

【結語】としては次のようである。

隼人という名辞が特定の人物として登場したのは履中天皇時代だが、これは天武天皇以降の記紀の編纂時代にできた「南九州の曽人=隼人」を過去に(履中時代にまで)さかのぼらせた使用であり、正確には「南九州曽人」とすべきである。

また古事記では「ソバカリ」、書紀では「サシヒレ」と書くスミノエ皇子の近習は、「刀剣を身に帯びて仕える者」という意味である。(※後世の「帯刀(たてわき・たちはき)」がこれに近い身分上の名称である。また横綱の土俵入りの時に近侍する「太刀持ち」も同じ概念だろう。)

「南九州の曽人」が仁徳王権(仁徳・履中・反正・允恭・・・)時代に皇族の近習として仕えたのは、南九州を本拠地として九州一円を支配し、三韓(半島南部の馬韓・弁韓・辰韓)まで勢力圏とした武内宿祢の後継である応神王権が、半島出兵の負荷によって疲弊し劣勢になったため、仁徳王権の配下に入ったからと考えられよう。





仁徳天皇の浮気癖?(記紀点描㉔)

2021-10-10 22:50:28 | 記紀点描
【仁徳と3人の女性】

仁徳天皇の皇后になったのは葛城ソツヒコ(襲津彦)の娘の磐之媛(いわのひめ)である。

この大和葛城地方の豪族の娘は「嫉妬深い」ことで有名であった。

仁徳天皇が「吉備海人直の娘クロヒメ」を召し入れようとしたが、クロヒメは「皇后が嫉妬深いのでそれはできません」と断ったそうだ。

また仁徳は、ウジノワキイラツコの妹で矢田(やた=八田)皇女をどうにかして召し入れようとした。そこで皇后の磐之媛が紀伊方面に出かけて「御綱柏」を摘んでいる留守の間に、まんまとよろしき仲になった。

それを知った磐之媛は怒り心頭、せっかく摘んできた御綱柏(みつながしわ)をすべて海に投げ捨て、仁徳天皇の宮殿である難波の「高津宮」を素通りして淀川をさかのぼり、山背の宇治の木津川まで行ってしまった。

仁徳天皇は何とかして皇后に帰ってもらおうと、歌を届けるのだが、皇后は頑として受け入れず、やがて木津川沿いに建てた「筒城(つつき)宮」において逝去する。

その翌年、仁徳は八田皇女を皇后として迎え入れた。

八田皇女はウジノワキイラツコの妹で、この兄弟の父は応神天皇だが、母は和珥氏の祖である武振熊(たけふるくま)の娘で「ミヤヌシヤカヒメ」と言った。ウジノワキイラツコの妹はもう一人いて「女鳥王(めどりのおおきみ)」と言った。

仁徳はその女鳥王(めどりのおおきみ)も召し入れようとしたが、腹違いの隼別(はやぶさわけ)皇子と良い仲になっており、それは叶わなかった。結局、仁徳の思惑を拒否した隼別皇子と女鳥王は、伊勢まで逃れたのちに見つかって誅殺される。

(※残酷な話だが、それだけ当時の女性の巫女的な霊能力は大きく、そのアドヴァイスの下で、男王は主観に左右されない統治を執行したわけである。)

実は八田皇女も女鳥王もウジノワキイラツコの妹であった。つまり三人とも和珥氏の直系であり、仁徳は和珥氏の持つ勢力をわが勢力に加えたかったというのが、八田皇女と女鳥王の二人を召し入れようとした理由だろう。

皇后の磐之媛は葛城ソツヒコの娘であるから、当然、葛城勢力の後ろ盾は得ていた。しかも葛城ソツヒコの父は武内宿祢で、南九州の古日向とは親縁関係にあった。

したがって仁徳は大和にいる限りは安泰であったが、難波の淀川河口に近い微高地に「高津宮」を建てた。すると、淀川流域でも山背(宇治)を本拠地とする和珥氏にしてみれば、淀川河口の難波高津宮を攻略するのは極めて容易であった。

仁徳はまだ即位する前に、同母弟のオオヤマモリと腹違いの弟ウジノワキイラツコとを戦わせてオオヤマモリを滅亡させ、そのあとに3年の確執を経てウジノワキイラツコの自死を誘発している。これでまずは安全を確保した。

ウジノワキイラツコは半島から渡来した王仁博士から漢籍を習っており、優秀な頭脳の持ち主であったようだが、仁徳(オオサザキ)の智謀には及ばなかったのだろう。

応神天皇が九州に張り付いて半島出兵を繰り返していたのと比べれば、何と優雅な立ち位置にあったことだろうか。

葛城氏の後ろ盾の要だった皇后イワノヒメの死は痛手ではあったが、葛城氏側も追及はしなかった。おそらく育った葛城の「高宮」でも、イワノヒメの「嫉妬深さ」には手を焼いていたのかもしれない。

というのは父の葛城ソツヒコ(襲津彦)である。この人は書紀引用の「百済記」によると、神功皇后の時代に半島に派遣された武将だが、新羅の策略で美女をあてがわれ、すっかりその気になってそそのかされ、味方すべき任那を撃ってしまったという失態を演じていた。

こんな好色な父親を目の当たりにして育ったら、大抵の子女は男を信用できず、ために「嫉妬深く」なるに違いない。

イワノヒメが自分の留守のうちに八田皇女を入内させてしまった仁徳を、徹底的に嫌って避けた描写は劇的ですらあるが、最後まで自分の育った葛城の高宮には帰れず、山背の「筒城(つつき)宮」でひっそりと亡くなったのは哀れでもある。

【天下泰平の20年と百舌鳥野陵】

仁徳紀の67年条にはその最後のところに「天下、大いに平かなり。20年余、事無し」とあり、前代の応神王朝が終焉した後の仁徳王朝の「単立」を示唆しているのだが、同じ67年の10月条には「陵地を定め給う」という記事がある。

河内の石津原に陵地を卜して、いよいよ「寿陵」(生前墓)の築造工事に取り掛かろうという日に、次のような珍しいことが起きたのであった。

<この日、鹿ありて、たちまちに野の中より起こりて、走りて役民の中に入りて、倒れ死ぬ。時にそのたちまちに死ぬることを怪しみて、その痍(きず)を探す。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに、咋(く)い割(さ)き剥(は)げり。故に、その所を号して「百舌鳥耳原」と云うは、それ、この縁なり。>(仁徳紀67年10月条)

この話は石津原が「百舌鳥耳原(もずみみはら)」と呼ばれるようになった由来譚である。百舌鳥耳原にある「百舌鳥古墳群」の中で最大の「大仙陵古墳」が仁徳天皇陵として間違いないと思わせる話でもある。

しかし、鹿の耳の中を百舌鳥が「悉くに咋い割き剥げ」(荒らしまわって食いちぎった)ために、鹿が死んだという事実があり得ないことは明白だろう。鹿の耳は人間のよりは大きいにしても、スズメの2倍ほどもある百舌鳥が耳の中に入り込む余地はない。

私はこの話は次の史実の寓意だろうと考えるのだ。

すなわち、鹿は南九州のことを表し、百舌鳥耳原の「耳原」は「ミミの勢力範囲」であると。

「ミミ」とは南九州投馬国の王の称号であったことは、魏志倭人伝上の倭国内の国々のうち戸数五万戸の大国「投馬(つま)国」の官名が、大官を「ミミ」と言い、副官を「ミミナリ」と言ったということから判明している。もちろん九州倭国内の国々の位置比定からも言えることである。

さてそう考えると、「鹿の耳」とは南九州投馬国そのものを意味していることになり、それが食い荒らされたということは、南九州投馬国の衰退を示唆しているのだ。

南九州のうち特に諸県(もろかた)地域には諸県君がおり、応神王朝の母体というべき勢力であった。したがって半島出兵に際しては兵力の一大供給源地であり、その分、軍事的な消耗が激しかった。

特に高句麗との戦いでは、初めて遭遇する「騎馬戦」には大いに手古摺ったはずである。

得たものは騎馬戦術用の馬具や鎧くらいで、失ったものの方がはるかに多く、南九州投馬国は斜陽にさらされるほかなかった。

そのような時代状況を示唆したのが「鹿の耳が食い破られて鹿が死んだ」という説話なのだと考えるのである。

(※崇神天皇の時代に、この百舌鳥耳原からそう遠くない茅渟(ちぬ)県の陶邑(すえむら)に居た「太田田根子」に大物主神を祭らせたという記事がある(7年2月条)が、太田田根子の母はイクタマヨリヒメといい、陶津耳(スエツミミ)の娘であった。「ミミ」名を持つ豪族がここにいたのである。おそらく出自は南九州投馬国で、土器生産のエキスパートだったのだろう。)

応神天皇の時代③(記紀点描㉓)

2021-10-09 21:31:41 | 記紀点描
【応神朝と仁徳朝の並立年代】
「応神天皇の時代②」では、応神王朝と仁徳王朝は別の王朝で並立していた時代があった――という結論を得たが、その並立年代はいつの頃だろうか。

まず、応神王朝が西暦390年に始まったことはすでに述べた。また応神王朝の終焉は②において推論したように、414年前後であり、仁徳王朝の終焉は427年であった。

あとは仁徳王朝の始まりが分かれば、おのずから並立年代は判明する。しかしこれが難しい。なぜなら仁徳天皇紀には、応神天皇紀にはある百済記引用の百済王の即位や死亡年の記事がないからである。

そこで全く別の視点から仁徳天皇の即位年を特定してみたい。

それは日向の諸県君の娘である「髪長媛(かみながひめ)」のオオサザキへの入内記事である。

諸県(もろかた)とは南九州(古日向)のうち、今日の宮崎県南部と南西部一帯の地域で、広域の都城市から西へ小林市・えびの市まで、また最南部は鹿児島県志布志市と大崎町の臨海地帯までの広大な地域を指している。

この地域は南九州の一大穀倉地帯で、古日向の中心と言ってよかった。ここの統治者が諸県君であり、応神王権側の一大勢力である。

娘の「髪長媛」の「髪」は「神」に通じ、「神長媛」とは諸県の祭司長と言える存在だった。

そのことを裏付ける歌を、髪長媛を貰い受けたオオサザキ(仁徳天皇)が次のように詠んでいる。

<道の後(しり) こはだおとめを 神の如(ごと) 聞こえしかど 相い枕まく>

歌の意は「はるか遠い所の乙女は 神のように素晴らしいと 聞いていたが いまこうして 共寝しているのだ」だが、この時の「神の如」という表現に、髪長媛の存在感の大きさが表されている。

要するに髪長媛は南九州の諸県地方にとっては、邪馬台国女王のヒミコのような存在だったのである。

つまり髪長媛は諸県において祭祀を司る最重要な女性であったわけで、その女性がはるか中央の仁徳に輿入れするということは諸県のみならず南九州(古日向)の仁徳王権への恭順に等しかった。

この仁徳への輿入れの記事は応神13年のことであった。応神元年から13年までに記事を載せているのは10年分であるから、元年の西暦390年プラス9年で、西暦399年のことと判明する。

したがって仁徳天皇の即位は399年頃として大過ない。

そうすると応神天皇の治世は390年から414年で、仁徳天皇の治世は399年から427年であるから、並立の期間は399年から414年の15年ということになる。

ただ応神天皇の後に即位したのはウジノワキイラツコという和珥(わに)氏の血筋の皇子であったが、仁徳天皇とは3年にわたり後継争いをしており、414年からの3年間は「宇治天皇」(播磨風土記)の時代があったと考えるので、414年から416年まではウジノワキイラツコが天皇位にあったとみる。

そうなると仁徳王朝は「応神・宇治王朝」とは17年間の並立期間があり、その後、427年の仁徳の死までの12年間は単立の王権であったとなる。

応神王権は九州に張り付いて半島の勢力圏にあった弁韓(任那)を足掛かりに、高句麗によって浸食されつつある百済を救援すべく出兵をしていた(高句麗「広開土王碑」)のだが、仁徳王権は難波にあって半島との関りは最小限度で済んでいた。

そのことが仁徳紀に半島に関する記事が著しく少ない理由だろう。

さて、上代の王権は天皇の統治能力もさることながら、妃に迎えるヒメの祭司能力に負うところが大きかった。次代の仁徳天皇が腐心したのもその祭祀にかかわる女性の入内であった。この後は記紀点描「仁徳天皇」に続く。