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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「たかが神話」というなかれ(記紀点描⑰)

2021-09-22 16:56:30 | 記紀点描
日本の神話は古事記と日本書紀の「神代」に描かれており、とりわけ古事記の神話は微に入り細を穿つ神話で、その体系の完成度はおそらく世界でも例を見ないレベルである。

「別(こと)天津神」の「天御中主(アメノミナカヌシ)」以下の五代はどう見ても「宇宙生成」を表しているとしか思われないし、「神代七代」のイザナギ・イザナミ神話は地球の成り立ちを基にした神話だろう。

地球が成り立ってから「太陽ー月ー海原(地上)」という三分統治が始まったわけだが、これを日本神話では「アマテラスオオミカミーツキヨミノミコトースサノヲノミコト」と表している。

ここまでの書きぶりは「天文学」か「天体力学」の分野を知っていたかのようであるのは、まさに驚愕に値する。

スサノヲノミコトが統治する「海原(うなばら)」とは地上のことだが、地球の4分の3が海であることの表現だったのだろうか。また、地上の生物の起源はすべて海に求められるとは近代生物進化科学の教えるところだが、「海原」の「海」は「産み」に通じ、「原」は「腹」でもあることを思うと、まるで地球上の生物進化をあらかじめ知っていたかのような表現である。

和銅5年(712年)に古事記を編纂して時の元明天皇に上納したのは太安万侶であったが、「帝皇の日継(ひつぎ)」及び「先代の旧辞(ふること)」を読み習ったのは稗田阿礼であった。阿礼の読んだという「先代の旧辞」にそのようなことが書かれていたと考える他はない。

いったい誰がいつどこでその「旧辞(ふること)」を書き記しておいたのだろうか。実に興味の持たれるところだ。

さて古事記では天照大神と月読命とともに、イザナギ大神の禊によって生まれたスサノヲノミコトが「海原」を統治する前に、天照大神のいる高天原(たかまがはら=天上世界)に挨拶に行った際に乱暴狼藉を働いて高天原から追放され、いよいよ地上に降り立つ。

その降り立った先が出雲の国であった。

出雲神話はほぼ古事記の独壇場と言ってよい。日本書紀では出雲国内にスサノヲが降臨し、ヤマタノオロチの犠牲になりかけていたクシナダヒメを救い、出雲に定住したことまでは描かれているが、古事記には詳しく描かれている大国主(オオクニヌシ=オオナムチ)をめぐる説話、いわゆる「出雲神話」は除外されている。

この出雲神話こそ遠い昔から日本列島に暮らしてきた縄文人の姿を捉えているのだが、日本書紀は「国譲り」を何にもまして優先させている。

最近の研究で日本列島から発掘された縄文時代人、弥生時代人、古墳時代人の人骨から採取された遺伝子のゲノム解析によって、弥生時代人のルーツと古墳時代人のルーツは大陸及び朝鮮半島経由のものだろうと解明されつつある。

日本書紀の「国譲り説話」は、縄文人の世界であった日本列島すなわち「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の基層に、弥生人・古墳人が被さって来た状況をうまく説明できるようだ。これこそが日本書紀の優先事項なのである。

(※ただ弥生人・古墳時代人と言っても、完全に倭人という種族を離れた者たちではない。以前のブログ「縄文時代早期文化の崩壊と拡散」で述べているように、逃げ延びた、つまり「拡散」は、九州北部や海を越えて朝鮮半島にまで及んでいたに違いなく、そのような倭種族が半島やそれ以北に「拡散」した可能性も考慮する必要がある。特に言語の「主語+目的語+動詞」構造が共通なのはそれへの考察を促す。)

国譲りの後はニニギノミコトの天降り、いわゆる「天孫降臨」である。

神話学ではニニギノミコトが「天(高天原)」を離れて日向の阿多に来て、国つ神オオヤマツミの娘アタツヒメと結ばれて「地」を獲得し、その子供であるホホデミ(ホオリ)は竜宮に行って「海」を獲得し、さらに兄に当たるホスソリ(海幸)に勝つことによって「海」をも獲得して「王者」になった、とする。

つまり天孫降臨神話(日向神話)とは、その地上支配の構造(三重支配)を象徴したものである、と述べるわけだが、それは観念的に過ぎると思う。

古事記では天孫二代目のホオリ(ホホデミ)について、「580歳を高千穂宮に過ごして亡くなり、御陵は高千穂の西にある」と具体的に記している。580歳(年)を1代と考えればとんでもない誇張だが、しかしホオリの王朝が何代も続いていたと考えれば納得がいく。

要するに「ホオリ王朝」の存在が考えられるということである。580年だと1代が20年として29代、約30代続いていたのかもしれない。

ところが古事記ではこの第二代のホオリについてのみ具体的な統治期間が見えるだけで、他のニニギノミコトとウガヤフキアエズノミコトについては記載がない。

そこで日本書紀の同じ説話を見てみると、ニニギノミコトについては「久しくあって、ニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵に葬った」とあり、またホホデミノミコトについては「久しくあって、ホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」、そしてウガヤフキアエズノミコトについては「久しくあって、ウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」となっている。

どの皇孫も統治期間を「久しくあって」と同じ表現をしていることに気づかされる。これにより書かれていない統治期間を類推すると、ニニギノミコトもウガヤフキアエズノミコトも、ホオリの580年ほどの統治期間があったとしておかしくはない。

したがって天孫三代は、それぞれ500年とか、ことによると1000年という長期の王朝だったという考えを提示しても、さほど無理はないだろう。

「たかが神話」と全否定する必要はないと思われるのである。

武内宿祢②(記紀点描⑯)

2021-09-14 08:51:50 | 記紀点描
前回の「武内宿祢①」では、武内(タケシウチ)は南九州のクマソ王であり、ヤマトタケルはその分身ではないかと結論付けたが、今回は書紀の景行天皇紀以下に記載された武内の事績を辿りながら私見を補っていきたい。

まず書紀において武内の事績が見える紀年を天皇時代別に抽出してみる。

景行天皇時代・・・3年、25年、27年、51年
成務天皇時代・・・3年
仲哀天皇時代・・・9年
神功皇后時代・・・仲哀9年=神功元年、2年、13年、47年、51年
応神天皇時代・・・9年
仁徳天皇時代・・・元年、50年

以上の14回が武内宿祢の事績(誕生記事を含む)である。また、名前だけなら40回ほどにもなる。これは勿論同じ事績上、主語として出て来る回数であり、事績としてはカウントされない。


 【景行天皇時代】(纏向の日代宮、のちに志賀の高穴穂宮)

さて、事績として最初に登場するのは景行天皇の3年である。これは武内宿祢の誕生記事であるが、天皇以外の一臣下の誕生が記されるのは極めてまれである。そのまれな記事を次に掲げる(若干の省略がある)。

〈三年の春二月、紀伊国に幸(みゆき)し、群神を祭祀するに、吉ならず。すなわち車駕(みゆき)止みぬ。屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲゴコロ)命を遣わして祭らしむ。ここに屋主忍男武雄心出でまして、阿備の柏原に居て、神祇を祭祀せり。よりて住むこと9年、すなわち紀直の遠祖ウヂヒコが娘カゲヒメを娶りて、武内宿祢を生ましむ。〉

景行天皇が紀の国へ行幸しようとして多くの神々を祭ったところ「吉」ではなかった。そこで屋主忍男武雄心という人物に行かせ、「阿備の柏原」という所で神々の祭りを行わせた。屋主忍男武雄心はその地に9年滞在し、その間に紀直の先祖であるウヂヒコの娘を娶り、そこで生まれたのが武内宿祢であった。

「阿備の柏原」が武内宿祢の生まれ在所だと言っているのであるが、これを紀の国のどこかと思うのが普通である。つまり父の武雄心は紀州に行ってそこで9年間祭祀を続け、その中で現地のカゲヒメを妻にして武内を生んだ、と。

しかし景行天皇が行幸したかった紀の国に行かせ、そこで武雄心が祭祀をしたら「吉」となったので天皇が行幸できた、というのなら話の筋が通るのだが、武雄心の9年間の祭祀とは結び付いていないのである。

つまり天皇の紀の国行幸の取りやめの記事と、後半の武内宿祢の誕生記事とは全く連結していないのだ。しかも紀の国には「阿備の柏原」という場所は存在しない。(※岩波本の脚注では、和歌山県海草郡安原村相坂・松原=現在の和歌山市内か、とし、未詳としている。)

私はこの「阿備の柏原」を鹿児島県肝属郡東串良町の柏原と考えている。「阿備」は「阿比」であり、大隅半島の肝属川流域、特に下流域の汽水地帯のことを指していると思うのである。そもそも「あび」とは「鴨」のことである。
(※大隅半島中央部の吾平は本来「阿比良(あひら)」(古事記)であり、「阿比」つまり鴨の多い土地(良)なのでそう呼ばれた。当時は肝属川下流の汽水域までを含む地名であったろう。)

大河の河口地帯はどこもおおむね汽水域を広く持っていた。そこは太古から水運上の港として一等地であり、また多くの鴨類の冬の渡りの地(越冬地)でもあった。

鴨が水面を走る姿は小舟に似ており、水運を司る航海民(水手=かこ)はそれになぞらえて「鴨族」と称された。その鴨族の蝟集する地こそが「鴨着く島」であった。のちに「水手(かこ)の島=鹿児島」と転訛する。

要するに、武内宿祢の生まれは南九州鹿児島の「鴨着く島」、大隅半島の肝属川下流域「阿比良(あひら)」の柏原だということである。

古事記では景行天皇時代に武内宿祢は一度も登場しないのだが、書紀の方では25年に「北陸・東国の巡見」に出かけ、27年2月に巡見から帰って景行天皇に復命している。

ところが不可解なのが、同じ27年の8月に「クマソが背いた」という理由でクマソ征伐の命令を下していることだ。しかもそれを今しがた巡見から戻った武内宿祢に下すのであればまだしも、ヤマトタケルに命じているのである。

ここは矛盾もいいところではないか。私はこのことからもヤマトタケルは武内宿祢に仮託した非実在の人物と考えるのである。

ヤマトタケルは3年ほどかけて東国の蝦夷等を征伐して戻ってくる途中、伊吹山で神罰を得て体を弱らせ、ついに死んでしまうのだが、古事記は言うもがな、書紀においてもこの間のヤマトタケルの物語は実にドラマチックである

。また所々の描写もリアルであり、主人公がヤマトタケルであることは疑わしいにせよ、ある程度の史実を下敷きにした説話には違いないと思う。

帰ってきた後、景行天皇は「わが子タケルの足跡を辿りたい」と東国巡幸を果たし、還幸後に都を纏向から志賀の高穴穂宮に移し(58年条)、そこで亡くなるのだが、なぜ都を大和から遠くの志賀(大津市)に移したのか、その理由は書かれていないのが不審といえば不審である。

 【成務天皇時代】(志賀の高穴穂宮)

前代の景行天皇が大和から移した志賀の高穴穂宮で即位している。その時点で大和の纏向の宮がどうなっていたのか、については記載がない。とにかく成務天皇の3年に、「武内宿祢を棟梁の臣とする。天皇と武内宿祢は誕生日が同じなので、格別に厚遇した」とあり、武内は大出世を遂げる。

古事記では景行天皇時代には一切事績がなく、この成務天皇のときにはじめて登場している。そして「武内宿祢を大臣として、大国・小国の国造を定め、また国々の境、また大県(あがた)・小県の県主を定めさせた」とある。

これはあたかも武内宿祢が天皇位にあったかのような書きぶりで、事実、武内宿祢と成務天皇の誕生日が同じということを勘案すると、二人は同一人物であった可能性は高いと見られる。

もしそうでなければ、景行天皇が亡くなる三年前に息子のワカタラシヒコと志賀の高穴穂宮に遷都したのは、武内宿祢による纏向宮占拠、いわゆるクーデターのごとき事件があった可能性も考えられよう。

いずれにしても、景行天皇が、崇神天皇時代から3代にわたって築いてきた「纏向の王宮(王権)」を遠く離れて志賀(大津市)に都を移した理由をよく考える必要がある。

 【仲哀天皇時代】(橿日宮)

仲哀天皇はヤマトタケルと垂仁天皇の娘フタジノイリヒメとの間の子でであり、后はかの有名な神功皇后である。成務天皇の直系ではないということなのか、宮殿について「高穴穂宮」の描写はなく、即位2年の2月に「角鹿(つぬか)」すなわち敦賀に行幸して「笥飯(けひ)の宮」を立てている。

そして3月には「南国巡幸」をして紀伊国に至り、「徳勒津宮」(とくろつのみや)を立てたところで、クマソが背いたという情報を得て、親征に出発し、穴門(長門)に至っている。

このあと、不可解なのが、角鹿の「笥飯宮」に滞在していた皇后以下官僚たちに対して「角鹿の津から日本海を経由して穴門(長門)の私のところに来なさい」と伝言していることである。

皇后たちを日本海側の敦賀に残して、自分は大和よりまだ南の太平洋側の紀伊にまで行っていたというわけだが、それならせめて敦賀から紀伊までの途中にある大和に皇后を連れてきておけばよさそうなものだ。

大和からなら波穏やかで安全な瀬戸内海航路で皇后を穴門(長門)まで呼び寄せればよいだろうに。そう思うのが自然だろう。この点については、やはり大和はすでに別の王権、すなわち武内宿祢の南九州由来の勢力に占拠されていたのではないか、と考えて大過ないだろう。

(※この私見についてはまだ先に述べる機会があるので、ここまでにして、武内宿祢②の記述を急ぐ。)

さて、仲哀天皇時代になると都は完全に大和を離れ、九州北部の橿日(香椎)の宮が中心となる。天皇が九州入りして南のクマソを撃とうとしていると神功皇后が神がかりし「クマソなど打つより、海の向こうの新羅を撃て」と託宣があるも、天皇は神の言葉を信じないでクマソを撃って戦死(または神罰死)してしまう。

仲哀天皇の9年、武内宿祢は天皇の死の後に登場し、天皇の亡骸を橿日宮から穴門(長門)に移し、豊浦宮で殯(もが)りを執り行っている。武内宿祢のこの登場はいきなり感が強い。どこをどうやってやって来たかの記載はない。

 【神功皇后時代】(磐余の若桜宮)

仲哀9年(神功皇后摂政前紀)、神功皇后が新羅を攻めるにあたって、神託を聞く場面で、何と武内宿祢は琴を弾いている。皇后の神託受信の幇助である。また、中臣イカツノオミが審神者になっている。

この神託の結果だろうか、吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)にクマソを撃たせたら、さほど日を経ずしてクマソ自らが恭順してきた、とある。これには首をかしげるのだが、吉備はもともと古事記に「建日方別(たけひかたわけ)」とあるように、「建日」すなわちクマソ国の分国(方別)でもあるうえ、豪族の名が「鴨別」であるからしてクマソこと「鴨族」とは親縁関係にあったがゆえに、無駄な争いは避けられたのである。

武内宿祢は神功皇后の時代に14回の事績のうち半数の6回の事績を残しているほど神功皇后とは縁が深いのであるが、不思議なことに神功皇后の最大の事績である「新羅征伐」に武内宿祢はタッチしていないのだ。

これは一体どういうことだろうか?

「神功皇后の新羅征伐など造作もいいところで、これは後世の斉明女帝の百済救援の史実にかこつけたおとぎ話である」というのが史学者の見解だが、私見でもそれには従う。

だが、確かに神がかりのおとぎ話的な要素が強いが、新羅征伐のような大規模なものでなくても似たような征伐(戦争)事例は大小あったはずで、そのような時に卑弥呼的なレベルの巫女に神託を聞くのは通例としてあったと考えてよく、神功皇后の神託の描写は参考に値する。

武内宿祢は対半島政策としては、クマソが新羅にかかわっていたとされるように、そのクマソ本人でもあるのだから、この新羅征伐が造作であるにしても、それにかかわることはできないのである。

逆に言うならば、武内宿祢の素性がクマソであることが、いよいよ以て確かであることを表明しているのだ。

さて神功皇后が新羅を征伐して凱旋した年の12月、皇后は皇子を産む。応神天皇である。

いよいよ都へ凱旋するという時、瀬戸内海航路では仲哀天皇の前妃の子である忍熊王が待ち構えていて危ないということで、生まれたばかりの応神を武内宿祢に頼んで「皇子(ホムタワケ)を抱きて、横しまに南海より出でて、紀伊の水門」に至らしめた、という。

(※五月人形で武内宿祢が幼児のホムタワケを抱いている人形があるが、あれはこの時の様子を再現したものだろう。)

ここで不思議なのが「南海より出でて」という箇所で、北部九州から南海というと南九州を経由するわけである。しかしここはクマソの本拠地であった。先に「吉備臣の祖・鴨別に撃たせたら、クマソは自ら恭順して来た」のだから、もうクマソは安全だというのだろうか。しかし敵対勢力であるクマソのこと、皇子が船で南九州を通過するとなったら、ただでは済まないはずだ。

そこで皇子を先導した武内宿祢こそ南九州のクマソの出身であるとすれば、この杞憂は氷解する。ホムタワケを乗せた武内の船は、わが故郷、鴨着く島「大隅」の肝属川河口の港に立ち寄り、休息と食料を得てから黒潮ルートで紀伊に至ったと推量する。

神功皇后時代のハイライトは、何と言ってもホムタワケ皇子を連れての笥飯宮参拝と、帰京してからの神功皇后との歌の応答だろう。神功皇后の13年条がそれである。

武内宿祢はホムタワケを連れて角鹿(敦賀)の「笥飯(けひ)大神」(気比神宮)を参拝したのだが、古事記ではここの描写が非常に詳しく書かれており、書紀のとは際立って違いがある。

古事記では武内(タケシウチ)がホムタワケに禊(みそぎ)をさせるべく、近江から若狭を経て敦賀の笥飯(けひ)大神を参拝させる。古事記には「禊をさせる」という理由があって敦賀にやって来たのであった。そして滞在中に夢にイザサワケ大神が現れ「わが名と皇子の名を換えよう」と言われ、結果として皇子はホムタワケになった、という。

つまりホムタワケは最初からホムタワケではではなく、「イザサワケ」だった可能性があるということである。
(※もっとも書紀の応神天皇紀の即位前紀の割注にこのことは取り上げられており、敦賀のイザサワケ大神の元の名は「ホムタワケ神」で、応神の元の幼名は「イザサワケ」だったのではないか、いまだ詳らかではないーーとしている。)

しかし私が問題にしたいのは、ホムタワケなのかイザサワケなのかのではなく、なぜ「角鹿」(敦賀)に禊に行ったかの方である。

角鹿(つぬか)というと思い出されるのが、記紀の記録上最初の渡来人の名が任那の「ソナカシッチ」、別名「ツヌカアラシト」であり、この人物は大加羅国から越国の笥飯(けひ)の浦に着船し、そこが「角鹿」と名付けられたーーという記事である。

このことを考えると、ホムタワケ(のちの応神天皇)は大加羅国、すなわち任那からやって来た母(神功皇后)の所生ではないかということに思い至る。要するに父・仲哀天皇も母の神功皇后も、ともに任那(加羅=伽耶)から渡来したのではないかーーということだが、そんなことがあり得るだろうか。

私は「あり得る」と考えるのだが、この点については仲哀天皇の事績を考察する必要があるので、今は留めておく。

 【応神天皇時代】(軽島明宮、一説に大隅宮)

ホムタワケこと応神天皇が北部九州の「蚊田(かだ)」に生まれた後、母の神功皇后は大和へ向かうのだが、瀬戸内海の向こうに忍熊王の叛乱軍が待ち受けているということで、武内宿祢は生まれたばかりのホムタワケを抱いて、南九州経由で紀伊半島に到った(神功皇后紀元年)。

忍熊王の叛乱平定後に神功皇后は磐余の若櫻宮を立てて統治し始め、その一方で武内宿祢は神功皇后の47年、千熊長彦を新羅に使者として送り、51年には同じ千熊長彦を今度は百済に派遣している。半島の新羅・百済両方に使者を送って和平の道を探っている。このことを考えると武内宿祢は任那に大きな勢力を保持しており、隣国の新羅と百済との間の和平交渉に力を注いでいたことになる。

このことを踏まえると、応神天皇の9年の次の記事が現実味を帯びてくる。

その記事とは、この年に武内宿祢は筑紫(九州)に派遣されて筑紫の現状を査察しているのだが、この巡見に危惧を抱いた武内宿祢の腹違いの弟「甘美内宿祢(ウマシウチノスクネ)」が「武内は筑紫と三韓(馬韓・弁韓・辰韓)とを支配下に置こうとしている」という讒言を応神天皇に訴えたというものだ。

応神天皇はそれを真に受け、武内宿祢を亡き者にしようと使者を送った。だが、武内宿祢に瓜二つの「壱岐の直の祖、真根子」が身代わりとなって武内を救い、南海経由で都に帰った武内は「探湯(くがたち)」によって事の真偽を確かめた。するとウマシウチノスクネの讒言と判明した。

この時にもまた、昔、ホムタワケをそうしたように、武内が「南海より巡りて」紀の水門に帰っていることに注目しなければならない。

これも武内宿祢が南九州出身であることの証左になるだろう。「危険極まりないクマソ勢力」が卓越している南九州をわざわざ経由して紀伊に到ることの不審は、武内宿祢本人は南九州のクマソの出身だということで氷解されるのである。

またウマシウチノスクネが讒言したという内容、すなわち「武内宿祢は筑紫(九州)はおろか半島南部の三韓を巻き込んで新たな勢力を作ろうとしている」ということには現実味がある。それほど武内宿祢の九州における勢力が強かったということだろう。

 【仁徳天皇時代】(難波の高津宮)

応神天皇の次代の仁徳天皇の時代になるとさすがの武内宿祢も高齢になったのだろう、出番はほぼなくなる。

それでも仁徳元年の記事は武内宿祢と仁徳天皇の関係に、なにがしか問題点を投げかけている。

というのはこの記事によると、仁徳天皇ことオオサザキ(大雀)と武内宿祢の子の一人ヅクノ(木菟の)宿禰とが同じ日に生まれたそうで、しかも両者は名を交換しているのである。

仁徳天皇が生まれたとき産屋にミミズクが飛び込み、武内の子が生まれたとき産屋にスズメが飛び込んだというので瑞祥と考え、名を換えることにしたという。

名を換えるのは応神天皇の時に、敦賀のイザサワケ大神と応神天皇の幼名ホムタワケとの交換があるが、この交換は人と人との間の交換である。

この場合、父の応神天皇がかつてイザサワケ大神と名を換えたのとは次元が違う。それを許したということは武内宿祢が単なる臣下ではなかったということをしめしている。言うならば武内宿祢は神に等しいというということである。

それほどの地位にあった武内が最後に登場するのが、仁徳50年であった。

それは次の通り(現代文にしてある)。

〈河内の人、奏して曰く、「茨田(まむた)の堤に雁(かり)が産卵した」と。仁徳天皇は歌にして武内宿祢に問うた。「たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 世の長人(ながひと) 秋津島 倭の国に 雁産むと 汝は聞かずや」。これに武内が応じ、「やすみしし わが大君 宜(うべ)な 宜(うべ)な 我を問はすな 秋津島 倭の国に 雁産むと われは聞かず」と返した。

要するに「日本列島ではシベリア方面から冬にやって来る雁(鴨)は産卵はせず、夏にシベリア方面で繁殖するのである」と武内は進言している。南九州肝属川河口域出身の武内は幼少のころから冬に北から飛んで来て、春になると帰って行く雁(鴨)の生態については熟知していたということに他なるまい。

こういうところからも、武内宿祢が南九州の「鴨着く島」出身であることに、疑いをいれる必要はないのである。

【武内宿祢の寿命】

仁徳天皇から「世の長人」(稀にみる長寿者)と歌われた武内宿祢の寿命は実際いくつだったのか。

(1)書紀の景行天皇紀の3年に誕生記事が書かれており、最期の記事はないものの仁徳天皇の50年に「雁が日本で卵を産むことはあるのか」という諮問を受け、「それはありません」と応じた記事はあるので、仮にその仁徳50年を死亡の年と考えてみると、単純な足し算で次のようになる。

景行時代は60年、成務時代は60年、仲哀時代は9年、神功皇后時代は69年、応神天皇時代は41年、そして仁徳50年までを加算すると、289年。景行天皇の3年に生まれているので3年、各天皇の継ぎ目は年がダブっているので5年、合計8年を減じると281年。

おおむね280年の齢を数えるということになるが、これがあり得ないことは明らかで、この超長寿によって武内宿祢の実在性はゼロと結論されるのが普通である。

しかし各天皇の治世の期間は水増しされている。紀年のない年はなかったものと仮定すると、景行時代は22年、成務時代は6年、仲哀時代は4年、神功皇后時代は19年、応神天皇時代は23年、そして仁徳天皇時代は29年である。これを合計すると103年。最後の仁徳時代は書紀の記事では87年もあり、武内はそのうちの50年目に登場しているから、実質29年に87分の50を積算すると約17年が配当される。

したがって武内宿祢の寿命は103年ー29年+17年=91年と算出される。91歳は今日でも長寿だが、当時としては間違いなく超長寿である。だが、皆無ということはないだろう。なぜなら魏志倭人伝の記述に「倭人は寿考(長寿)であり、あるいは80、あるいは90」と見えており、倭人は80歳、90歳と長生きであることを特筆しているのである。

90歳になって天皇に呼び出され、諮問に答えるというのは確かに稀なことに違いないが、史実としてはあり得ないと捨て去る必要はないだろう。

(2)もう一つ武内宿祢の寿命に迫る方法がある。それは古事記の記載されている天皇の崩御年から類推する方法である。

古事記には仁徳天皇までの各天皇の崩御年の干支が記されている。残念ながら武内宿祢に関係する天皇のうち、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、そして仁徳天皇の4天皇だけで、景行天皇と神功皇后の崩御年はない。次にその崩御年を挙げる。

成務天皇ー乙卯の年(西暦355年)
仲哀天皇ー壬戌の年(同 362年)
応神天皇ー甲午の年(同 412年)
仁徳天皇-丁卯の年(同 427年)

景行天皇の即位した年が分かれば、武内宿祢は景行3年に誕生記事があるので、ほぼ特定は可能だと思われる。幸い景行天皇の二代前の崇神天皇の崩御年は分かっている。

崇神天皇-戊寅の年(西暦318年)・・・これは垂仁天皇の即位年でもある。

この与件から推量してみよう。

成務天皇は355年に崩御し、治世期間は5年(数えでは6年)なので、即位年は350年。崇神天皇の崩御年は318年でその差の32年に垂仁天皇と景行天皇の2代があったことになるから、一代平均は16年である。そうすると景行天皇の即位年は350年ー16年で334年ということになる。

そうすると武内宿祢の生まれたという景行3年は336年となる。

武内宿祢の最後の登場は仁徳50年で、仁徳紀ではこの後の紀年は最後の87年までの間に8回の記事しかないので、武内宿祢は仁徳天皇の崩御年の少なくとも8年前までは生きていたことになる。

そうすると427年ー8年+1年=420年で、武内宿祢は少なくとも420年までは生きていた。これから生まれた年の336年を引くと84年。武内宿祢は少なくとも84歳は生きていて、天皇の諮問にも応じられたほど元気だったという結論を得る。

(1)の結論にしろ、(2)の結論にしろ、武内宿祢は長寿であったが、280歳などというとんでもない超長寿ではなく、80歳台から90歳台というあり得る年齢だったことになった。武内宿祢の実在性について、より確実になったと言えよう。














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武内宿祢①(記紀点描⑮)

2021-09-13 15:04:00 | 記紀点描
景行天皇の時代には大きな存在として「英雄時代の寵児」とも言うべきヤマトタケルが西に東に大活躍した。

ヤマトタケルが征伐したのは西は「クマソ(熊曽)」、東は「エミシ(蝦夷)」で、4世紀に入って日本列島という大きな舞台が認識されつつあった時代を反映している。

しかし西の「クマソ征伐」については「記紀点描⑭ヤマトタケル」で述べたように、極めて抽象的な(おとぎ話的な)描写が多く、実際に征伐しに行ったのか疑問の起こるところである。

それに対して東国のエミシ征伐では、日本書紀によれば(景行天皇紀25年及び27年条)、北陸と東国へ武内宿祢が巡見(下見)に行っているのである。帰京した武内宿祢は景行天皇に「東に日高見国があり、そこに住むのは勇猛な蝦夷と言います。撃つべきでしょう」と進言している(27年2月条)。

ならばすぐにでも蝦夷を撃つかと思えば、その8月に「クマソが背き、辺境を侵略している」という理由だけでヤマトタケルをクマソ征討に向かわせている。

つまり武内宿祢は東国の蝦夷を撃つべきだと言っているのに、クマソを先に撃っているのだ。なぜ武内宿祢を東国ではなく、それより前に南九州巡見に派遣しなかったのであろうか。

景行天皇の28年にはヤマトタケルがクマソ征伐から帰還し、復命するが、その後の40年条の記述で初めて「東の夷(ひな=蝦夷)、 多く叛き、辺境に騒動が起きている」と記し、ヤマトタケルを征伐に派遣する段取りとなる。

(※この時の「征討の大義」が 長々と500字にもわたって述べられている――とは「記紀点描⑭ヤマトタケル」において指摘した。それに比べると南九州のクマソ征伐については「朝貢しない。背いた」だけの「大義」しかなく、クマソ征伐は造作だろうとも指摘した。)

ところで、ヤマトタケルの東国(エミシ)征伐を進言した武内宿祢とはどんな人物なのだろうか。

武内宿祢は本来「タケシウチノスクネ」と「シ」が入るのだが、一般には「タケウチノスクネ」と呼んで怪しまない。「タケウチ」というと熟語「武内」とひと固まりなので見過ごしてしまうのだが、「タケシウチ」だと「武の内」となり、「武=南九州」の「内=ウツ」の出身であることを示している。

つまり武内宿祢とは「南九州(武)のウツ」の出身であるということである。「ウツ」は南九州では「宇都」と書き、「ウト」と呼んでいるのだが、本来は「ウツ」である。古語で「ウツ」は「全剥ぎ」という時の「全」に相当し、「全部、全き」の意味で、「何事も揃っている、完結している」を意味する。

要するに「生活に必要なものがすべて揃っている状態(の地)」だということである。そのような土地の候補地として、南九州では川内平野(薩摩川内市)、肝属平野(鹿屋市から肝付町)、宮崎平野などが挙げられる。いずれも大河の流域であり、海にも近く、「海幸・山幸」に恵まれたところである。

武内宿祢の出自が南九州であれば、「南九州のクマソを巡見した結果、背いているから撃つべし」と武内自身がそう言うことは文脈上不可能であろう。

景行28年のヤマトタケルのクマソ征伐の前年に、「エミシの国を撃つべし」と武内が進言しながら、実際にはヤマトタケルがクマソを撃ちに行っているという記述は、武内自身が南九州を征伐するよう命ぜられることを回避するためのものであろう。

早い話が、武内宿祢こそが南九州クマソ出身だったのである。

武内宿祢は古事記の景行天皇紀には全く姿を見せないのだが、書紀では景行天皇の3年条に誕生記事が載せられ、その後は上述の25年と27年に「北緯および東国巡見をして、蝦夷を征伐すべき」との進言をしたという事績がある。

奇妙なのは「東国(蝦夷)征伐」を進言した武内宿祢と、それを受けて実際に派遣されたヤマトタケルとの交流が全く無いことである。同時代に同じ天皇に仕え、あるいは皇子として天皇の傍にいたはずの両者に何の交渉も交流もないのである。

仮に両者とも造作であるにしても、「ヤマトタケルが出陣する時に武内宿祢が前途の無事を祈った」などという文脈上の設定を施せば、造作なりに相応の効果はあっただろうに、それらは一切見えないのだ。

ここは首を傾げざるを得ないところである。

ここで整合性を得るには、ヤマトタケルとは武内宿祢の分身ではなかったという視点が必要かもしれない。

景行天皇の時代、同時代的にに極めて大きな働きをした二人の人物が「互いに素」(クロスしない)の関係にある、ということはつまるところ同一人物であった可能性が高い。

そう考えると、ヤマトタケルのクマソ征伐のおとぎ話的要素、すなわちクマソタケルから「タケル」名を賜名されたという下位の者からの有り得ないプレゼントも了解される。

(※武内宿祢の出自については古事記の「(第8代)孝元天皇記」に詳しい。それによると孝元天皇の皇子の一人「比古布都押之信(ヒコフツオシマコト)」が紀ノ国造の先祖である「宇豆比古(うずひこ)」の妹・山下影ヒメを娶って生まれたのが武内宿祢だとしている。武内宿祢は第8代孝元天皇の男系の孫であった。また、子孫についても子が9人あり、その一人一人を紹介しているのは皇孫の一員であるとしても異例である。)


ヤマトタケル(記紀点描⑭)

2021-09-10 15:38:27 | 記紀点描
今回取り上げるのは、上代史における英雄譚で知られるヤマトタケルノミコトである。

ヤマトタケルは記紀ともに景行天皇時代に載せられた説話の主人公で、父は景行天皇、母は播磨のイナビノオオイラツメとある。

日本書紀の景行紀では2年条から4年条まで景行天皇の皇子皇女が数えられないほど記されており、全部で80人にもなったとしてある。その中でも、このヤマトタケルノミコトと次代の成務天皇になるワカタラシヒコ、及び五百城入彦(イホキイリヒコ)の三名だけを手元に置き、そのほかは他の国々(地方)に封じている。

ヤマトタケルは幼名を小碓命と言い、兄に双子の大碓命がいたが、父天皇の「東国の蝦夷らを征伐せよ」との命令に怖気づいてしまい、弟の小碓命が出陣することになった。(※古事記では大碓命は小碓に殺されてしまう。)

いま注(※)に書いたように、日本書紀と古事記ではヤマトタケルに関する記述に大きな違いがある。

まず何よりも古事記だが、古事記の景行天皇記はまるで「ヤマトタケル物語」なのである。古事記の景行天皇記の構成を次に記すと、

1、景行天皇の皇子皇女(この中には勿論タケルが入っている)
2、大碓命
3、小碓命の征西(九州のクマソタケル征伐と出雲タケルの征伐)
4、ヤマトタケルの東征(クマソタケルからヤマトタケルという名を得ている)
5、ヤマトタケルの死
6、ヤマトタケルの子孫

となるが、1は父である景行天皇の皇子皇女の紹介であり、2は大碓命の子孫の紹介である。

3からがほぼヤマトタケルの物語で、西へクマソタケルを討ちに行き、征伐した際にタケルという称号を得たという話である。ところが書紀ではクマソ征伐は2回あり、最初は天皇自らの「親征」でアツカヤ・サカヤというクマソを征伐しており、ヤマトタケルは2回目のトリシカヤというクマソを征伐したことになっている。

日本書紀のクマソ征伐は、古事記ではただ一回ヤマトタケルが行っただけなのを、二度に分け、最初のを景行天皇自身の親征説話に仕立て上げているわけで、先のブログ「景行天皇のクマソ親征」において「景行天皇は実際には親征していない」と結論付けたとおりである。

古事記のヤマトタケルによるクマソ征伐説話の方が基であり、書紀の景行天皇の親征は潤色ということになる。

その古事記のヤマトタケルへの思い入れにはすさまじいものがある。逆に見れば景行天皇の影が薄過ぎるのだ。編集者の太安万侶が景行天皇を蔑ろにしなければならなかった理由は何だったのだろうか。

太安万侶の出自を考えれば、そのことは納得できる。太安万侶は初代神武天皇(私見では南九州の投馬国王タギシミミ)の長男カムヤイミミの後裔であった。したがって北部九州「大倭」が出自であり、橿原王朝を崩壊させた崇神王権の三代目の景行天皇が、潤色ではあるにせよ南九州のクマソ(投馬国)を親征したなどとは書けないのである。

そこはきちんと筋を通している。書紀では景行天皇が日向で詠んだという「大和は国のまほらま たたなづく青垣山隠れる 大和しうるわし」という流麗な歌を詠んだのはヤマトタケルだとして、5のヤマトタケルの死をめぐる説話に取り入れ、結果として景行天皇のクマソ親征を否定している。

(※ただし、書紀の景行天皇のクマソ親征は史実ではないのだが、親征に仮託して当時(西暦320~330年頃)の九州情勢を描いており、大変貴重な史料というべきだろう。)

さて、ヤマトタケルのクマソ征伐は、書紀の景行天皇親征に描かれたクマソ「アツカヤ・サカヤ」、そしてヤマトタケルによる征伐の対象である「トリシカヤ」に関する説話を合体させた風に見えるが、その実、こちらの方が説話の基になっている。

古事記・書紀共通の説話では、ヤマトタケルは幼名がヤマトオグナ(倭男具那=日本童男)で、クマソタケルを討ったがゆえにクマソタケルから「タケル」名を貰ったと言っている。この「名を貰う」ということについては先例があり、垂仁天皇がサホヒコの反乱を鎮定した将軍八綱田に「倭日向武日向彦八綱田」(大和に向かい、クマソに向かい、手柄を立てし彦・八綱田)という名を賜ったという。

しかしよく考えると後者の賜名は、上位者である天皇が下位者である将軍に新たに名を与えるという名誉なのだが、前者の賜名は征伐の対象である言わば「逆賊クマソ」によるもので、その賜名を堂々と書いて載せることには首を傾げざるを得ない。

うがった見方をすれば、逆賊クマソタケルに完勝することによってタケル名の消滅が起きたわけだし、幼名ヤマトオグナの「オグナ」から「タケル」(強い人間)を名乗って何の不思議もない、むしろ名誉ではないか、となろうか。

だがやはり逆賊の名を負うことには抵抗があるはずだ。このことから私はクマソタケル(川上タケルとも言う)は本来逆賊でも何でもなく、南九州というかつて神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)を生んだ地域の優位性と、敵対関係にあった神武(橿原)王権と崇神(纏向)王権との抗争の一場面が南九州でもあったことの証左としたいのである。

要するに「タケハニヤスの反乱」と「サホヒコ・サホヒメの反乱」の南九州版と言えるものだった。これがヤマトタケルによるクマソ征伐の真相であろう。

さてヤマトタケルは南九州のクマソタケルの「タケル」名を貰って大和に帰るが、今度は東国に勢力を振るう「エミシ(蝦夷)」を征伐に行く。

この経緯は記紀ともに同じであるが、古事記ではヤマトタケルが「西にクマソを討ってまだ間もないのに、今度は東を討てと父は言うが、これではまるで自分に死んで来いというようなものではないか」と嘆く場面がある。古事記のこのあたりの描写からその死まで(上の4と5)は、まさにヤマトタケル物語の白眉だ。

ところで書紀ではこの東国征伐に当たって、景行天皇が長々と「征伐の大義」を述べているのだが、この点はクマソ征伐と大きく違う点である。クマソ征伐ではただ「朝貢がないから、背いている。討つべし」というシンプル極まりない理由しか挙げられていない。

それに比べて東国征伐は景行天皇がヤマトタケルに斧鉞(おのとまさかり=征討将軍に与える徴の武器)を授けてから「われ聞く。東の夷は暴び強し。村に長なく、おのおの境を犯して止まない。・・・(以下略)・・・武を振るって姦鬼を掃え」(景行天皇40年条)と、実に500字ほども費やして「討伐の大義」を述べたという。

以上を比較した場合、東国征伐が大義に基づいた征伐で史実なら、大義のかけらもないクマソ征伐は本当にあったのかという疑問に逢着する。

そうなると、南九州に征伐に来たヤマトタケル自体の存在感が揺らぐことになる。

結局のところ、南九州が出自の神武による王権(橿原王朝)と、北部九州(大倭)が出自の崇神王権の対立抗争を描きたいがための「ヤマトタケルのクマソ征伐譚」という潤色なのだろうか。

ヤマトタケルが征討軍の将軍として出動した南九州(クマソ)と東国(蝦夷ほか)の描写では、前者が女装をして敵を討つというどう見てもおとぎ話的過ぎるのに対して、後者はの描写はかなりリアルなのである。

この点については、古事記の景行天皇記には全く登場しない武内宿祢が、書紀の景行天皇紀には登場していること。そしてさらに東国については武内宿祢が征伐の「下見」をしているのに、クマソ征伐に関しては全く関与していないことの不可解を考察した時に再び取り上げたいと考えている。



景行天皇のクマソ親征(2)(記紀点描⑬)

2021-09-06 08:48:34 | 記紀点描
【八女邪馬台国女王トヨの逃避】

「記紀点描⑫」では景行天皇のクマソ親征(九州巡狩)の描写から、福岡県大牟田市の界隈に「御木国」があり、そこに970丈(2900m)もあったという歴木(くぬぎ)が倒れており、その「970」は「狗奴国」を意味し、狗奴国の城(クヌギ)が存在した時代があったことを導き出した。

また八女邪馬台国の二代目女王トヨは、西暦266年までの在位は確認される(『晋書・武帝紀』)のだが、その後はどうなったかについては記録がない。

しかしこの歴木の倒れていた大牟田から北上して、八女市域と思われる場所に差し掛かった景行天皇が次のように訪ねているが、それがヒントになろう。

〈丁酉、八女県(あがた)に到る。すなわち藤山を越えて、南の粟岬を望み給う。詔して曰く「其の山の峰、岫重畳(くきかさなり)て、且つ、美麗なること甚だし。若しや神、其の山に有りや」。時に水沼県主(あがたぬし)猿大海、奏して、「女神まします。名を八女津媛と曰す。常に山の中に居ります」とまうす。八女国の名は、これに由りて起これり。〉

(意訳)大牟田から山門郡を通過して八女の領域に入った時に遠望すると、多くの山々が重なって神々しく麗しく見えたので景行天皇が伴の者に訊ねたところ、大川市域から天皇一行に挨拶に来ていたのだろうか、水沼の県主・猿大海という豪族が、「そこには女神がおりまして、名を八女津媛といいます。常に山中に(潜んで)おるのでございます。」と言った。それでこの麗しい土地は「八女国」と名付けられた。

八女地域では女神が登場するだけ、しかも山中深くに籠っているという。だが、この女神が籠っている山々の美しいことが強調されている。

景行天皇のこの九州親征では、瀬戸内海西端に近い周防に「神夏磯媛(かむなつそひめ)」がおり、榊に鏡・玉・剣を取り付けて天皇一行を迎えて恭順の意を示したり、また大分(豊後)では「速津媛(はやつひめ)」が恭順を示している。また南九州では厚カヤ・狭カヤという最大のクマソを討ち取った後、大淀川上流の石瀬河で「諸県君泉媛(もろかたのきみ・いずみひめ)」が宴を開いて天皇をもてなそうとしたりしている。

いずれも女首長なのが共通なのだが、「八女津媛」ももちろん女性としては共通だが、こちらは神として格上げし、天皇一行に挨拶も恭順もしないのが他の女首長とは違っている。このことは、八女津媛はすでに「八女国」の首長ではなく、死んで神になったのか、あるいはもう八女国にはいない、ということを意味しているのだろう。

具体的に言えば、西暦266年には確かに八女邪馬台国の女王であったトヨだが、景行天皇の時代(330年前後)には八女にはいなかった、つまり南の狗奴国によって併呑されてしまったと考えられる。しかし同じその景行天皇の時代に、狗奴国は再び大牟田の南、おそらく元の狗奴国の領域である菊池川以南の熊本県域に縮小させられたのだろう。

では八女津姫だけが山中にいるという八女市域に存在した邪馬台国はその時どうなっていたのだろうか。

西暦266年からそう遠くない時期に狗奴国によって併呑された女王国は、むろん狗奴国からの統治者(都督のような存在)がやって来て八女全体を治めたに違いない。北部九州の「大倭」(崇神王権)はすでにその時代は大和への東征を果たしており、筑後までの支配の手は断絶せざるを得なかったので、八女女王国をみすみす明け渡したのだろう。

一方、トヨは「大倭」の援軍頼むに足らずと、亡命したと見ている。そのルートは筑後風土記(逸文)に伝承として描かれている「筑紫君磐井」が辿った筑後山系の山越えルートだったに違いない。その先には豊前があった。豊前の一宮「宇佐神宮」が祭る三神のうち正体不明の「比売之神」を私はトヨ女王と見ている。おそらく彼の地に「トヨ亡命府」が設けられ、死後に「比売之神」として祭られたのだ。

また、女王トヨから「豊国」(豊前・豊後)という名が生まれたとも考えている。

さらに、崇神天皇の娘として登場し、崇神6年にアマテラス大神を「同床共殿」から外し、大和の笠縫村にヒモロギを立てて祭ることになった「豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)」こそ、邪馬台国女王トヨだと思っている。崇神天皇がアマテラス大神祭祀の最適任者として、豊前のトヨ亡命府に滞在していた女王トヨを招聘したものであろう。

豊鍬入姫とは「豊の城(き)に入りし姫」であり、まさに八女から山を越えて豊前へ亡命した女王トヨの属性を表した名である。崇神天皇の娘として記されているのは潤色に他なるまい。

トヨ女王ことトヨスキイリヒメはこののち、次代の垂仁天皇25年3月に〈アマテラス大神をトヨスキイリヒメより離しまつりて、倭姫(ヤマトヒメ)に託したまう。〉とあるように、30年以上の長きにわたったアマテラス大神の祭祀を無事に終えている。女王卑弥呼の霊力を継いだ類まれな巫女も寄る年波には勝てず、引退することになった。
(※卑弥呼の死が247年の頃で、13歳で後を継いだのであるから今や70歳に近い。)


【南九州のクマソ=厚鹿文・迮鹿文】

景行天皇親政の最大の相手は、南九州に「盤踞」するクマソであった。その名を厚鹿文(アツカヤ)、迮鹿文(サカヤ)といった。

「鹿文」は「カ・アヤ」だが、「カヤ」と呼びならわしている。「厚」は「大」、「迮」は「狭」と同じ意味であるから、大小多くのクマソの部族がいたことを表している。またこれらをひっくるめて「八十梟帥(ヤソタケル)」とも言っている。

これらクマソの名に共通するのが「カヤ」なのはどうしてか。

大隅半島部に鹿屋市という街があり、「鹿屋」は普通に「カノヤ」と呼んでいるのだが、実は「カヤ」が歴史的には正しい。『倭名類聚抄』の「諸国郡郷一覧」を見ると、鹿屋郷は「姶羅郡」に属するのだが、他の郷名ではその漢字の読み方を万葉仮名風に表記してあるのに、「鹿屋」については万葉仮名表記がない。つまり「加乃夜」(かのや)というような発音を指定する表記が無いのである。

したがって「鹿屋」は「カヤ」と読む他ないのであって、南九州のクマソの名に「カヤ」があるのは、これらクマソの本拠地がまさに現在の鹿屋市域だったことを意味していると考えて差し支えない。

ではなぜ「カヤ」か? 私見では古代以前に朝鮮半島南部にあった「伽耶」の地名遷移と考えるのだが、ここでそれを論じると長くなり過ぎる。

あえて一文を以て表現すれば「南九州の海上交易民である鴨族(鹿児島の語源)は九州西岸経由で半島を往来し、向こうにコロニー(弁韓)を築いて鉄の取引を中心に活躍していたが、魏王朝が帯方郡を掌握して半島南部を圧迫すると、コロニーを築いていた豪族の中には南九州に引き上げる者がいた。それで半島南部の要衝の地・伽耶(狗邪韓国)を持ち越して来た」からである。

南九州のクマソは景行天皇の王権からは敵視されるのだが、景行天皇の祖父崇神天皇はそもそも朝鮮半島南部の辰韓(のちの新羅)からの渡来者であり、アツカヤ・サカヤの祖父たちの代に、もしかすると半島南部で交易相手だったかもしれないのだ。

しかし西暦170年代に南九州(投馬国)からの「東征」(移住的東遷)の結果、橿原王朝が生まれたあと、約100年して今度は北部九州の「大倭」こと「崇神王権」が大和入りを果たすと、南九州(投馬国)王権とは相容れず、橿原王朝は崇神の「纏向王朝」に取って代わられてしまう。その軋轢を物語るのが「タケハニヤスの反乱」説話であり、「サホヒコ・サホヒメの反乱」説話であった。

景行王権でも、前王朝を設立した南九州はいつ反抗して来るか分からない恐ろしい存在であった。そこで天皇の「クマソ親征」が発せられたわけだが、どうもこのクマソ親征は次の理由から史実ではないと思われるのだ。

まず「大義」が言われていない。親政の理由はただ「背いて朝貢に来ない」というだけである。「近隣の諸国がクマソの侵略にあえいでいる」等なら征伐の理由になろうが、朝貢に来ないというだけでわざわざ天皇自らが出動することはあり得ない。

もう一つ重要なのが、もし天皇自ら軍士を率いて南九州にやって来るのならば、建前上、景行天皇は南九州から大和入りした初代神武天皇から数えて12代目なのだから、「我が祖先の神武天皇のお生まれになった日向(古日向)という神聖な土地を占拠している暗愚なクマソどもを征伐する」というような征伐の「大義」が書かれていてよさそうなのに、書いていないことである。

古日向からの東征などおとぎ話だから、そんなことも書く必要がなかったのだ――と、神武東征造作(でっち上げ)説の人たちは言うだろうが、しかし造作であればこそ首尾一貫しなければなるまい。上のような一行か二行の「大義」を挿入する手間などいくらもかかるまい。

そうしなかったのは、景行天皇が古日向に出向いてはいないことと、同時に、南九州から「東征」した神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の橿原王統とは別系統の天皇であることをも示している。

つまり、この景行天皇のクマソ親征説話の本質は、祖父崇神天皇が樹立した纏向王朝と、前王朝である南九州由来の橿原王朝との抗争の一環であったと考えれば筋が通るのである。

なお、この物語では、南九州クマソの娘イチフカヤが景行天皇に篭絡されて父の殺害に加担し、首尾よく行ったあかつきにイチフカヤも「親不孝である」という理由で殺害されるのだが、親不孝だからという道徳観云々よりも、親族女性の持つ「祭祀権」を奪うことが相手の勢力を削ぐ大きなポイントだということを示したものだろう。