遅ればせながら、あけましておめでとうございます。新年早々から暗い妄想で始めてみたいと思います。
伊藤園のお茶の缶などに一般公募による俳句が書かれているのを見たことがあるでしょう。『伊藤園 お~いお茶新俳句大賞』というコンテストの受賞作品とのことで、現在は第19回の作品を募集中らしい。
俳句にあまり興味のない俺は、それらを今までじっくり読むことはありませんでしたが、ある日買った1リットルサイズのペットボトルに書かれていた句が、あまりにも禍々しいもの揃いだったので、心中うめき声を発してしまいました。選者が何を思ってこれらを佳作としたのか、まったくもって理解に苦しむ。実物の写真は上に掲げたとおりですが、ピンとこない人のために、そのおぞましさを逐一説明していきます。
「すずなりだ 住む人のない家の 柿」
これは怖い。おそらくは普通の住宅街に、住む人のない家があるのだ。柿の木が植わっているような庭があるのだから、そこそこ大きい家である。それがなぜ無人になったのか。相続人がいなかったのか。家人が失踪したのか。
それどころではないだろう。そこにはもっと酷たらしい事情があるに違いない。言うまでもなく、それは殺人事件である。かつてその家では、何者かによって一家全員がみな殺しという流血の惨事があったのだ。それはちょうど柿が生る秋のこと。柿の赤色は流された血を暗示している。柿の木の下には死体が埋まっているのだ。
そして住む人がいなくなった後も、その家は処分されずに放置され続けている。周りの住人は、こどもでさえその家に寄りつくことはない。夜になると誰もいないはずのその家から、家族の団欒の声が聞こえるのだ。今年も生った柿の実を、いつになったら採ろうかと親子が楽しげに相談している声が。
「妹と おんぶバッタの関係だ」
驚異のド変態俳句である。
オンブバッタの生態と照らし合わせてみよう。オンブバッタのおんぶは、人間の親が歩き疲れたこどもを背負ってやっているのとは意味が違う。オンブバッタの場合は上に乗っかっているのがオス、乗っけているのがメスであり、離ればなれにならないようにして将来の交尾に備えているのである。つまり子孫を残すための戦略なのだ。
であるから「妹とおんぶバッタの関係」ということは、いつかは妹と性的関係を結ぶつもりだということを意味する。しかも、おんぶされているのは妹であるから、妹がオスの如く犯す側なのである。かてて加えて、この俳句の作者は女子であるから、姉が妹を背負いながら、いつか彼女に犯されることを妄想しているということになる。年端もいかぬ妹に対して己の倒錯した欲望を刷り込もうという、淫らで邪な情念のありようにおののかずにはいられない。
「鉄道の線路いろどるヒガンバナ」
これも恐ろしい句である。
ヒガンバナは漢字で「彼岸花」と書き、墓地に咲いているのがよく見られる花だ。一説には、有毒植物であるため「食べたら彼岸へ逝く」という意味でこの名が付いたという。つまり、この花には死のイメージが否応なくつきまとっている。
地域によっては、鉄道の線路の土手にヒガンバナが植えられているのかも知れないが、よくあるような光景ではなく、むしろ特異なものというべきであろう。線路脇に咲くヒガンバナという異様な情景が暗示するもの、無論それは電車による人の死だ。人身事故か、あるいは飛び込み自殺か。
そこで惨事が起こった次の年から、誰が植えたかヒガンバナが咲くようになったのだ。飛び散った血を思い起こさせずにはおかない、真っ赤なヒガンバナがあたり一面に咲く。非業の死を遂げた死者の怨念が、凄惨な光景を人々の記憶に蘇らせようとしてるかのように。
次の二つは無難なものなのでとばすとして、最後の句。これは最凶だ。
「墓参り 祖母の手をとり 暮れる秋」
一見して、心にしみいるような秋の情景が描かれているかのようである。祖母を気遣う孫娘(この句の作者は女子なので、ここは「孫娘」と解釈する方が絵が浮かびやすい)の姿は、失われかけている家族の絆の大切さを雄弁に訴えているとも思われる。
しかし、衰えた祖母の手をとる孫娘の胸中でどのような思いが渦巻いているか。
おそらく祖母は、手をとって助けねばならない肉体とともに、頭脳も弱っているであろう。早い話がぼけてきているのだ。家族にとって彼女の介護が重荷になりつつあり、早く死んで欲しいという願いが、皆の心の底に黒く沈殿し続けている。
「暮れる秋」は、祖母の人生の黄昏を示しており、それが近いうちに終わりを迎えることを示唆する。終わりに導くのは誰か。言うまでもなく彼女の手をとっている孫娘だ。
つまり、墓に祖母を連れて行くのは、彼女をそこに葬ろうという孫娘の意識の表れなのである。墓には祖母の夫、孫娘にとっては祖父が眠っているのだが、その祖父を手にかけたのもおそらくこの孫娘だ。
殺人鬼である孫娘。しかし、彼女を止めるものはいない。彼女の両親は、娘の祖父殺しによって介護の重荷からの解放と祖父の遺産相続という恩恵を受けており、結果としてそれを黙って受け容れてしまったことによって、家族のあいだで既に娘に主導権を握られてしまっている。娘が祖母を殺そうと計画していることを知りながら、それを止めるのではなく、逆に彼女に従おうとしている。それは何より、かれらも心の底では祖母の死を願っているからだ。
そして、殺される側である祖母は、靄の中に薄れつつある理性の奥で何を思っているか。あるいは、孫娘にもたらされるであろう死を従容として受け容れる覚悟を固めているのかも知れない。夕暮れの陽に染まりながら墓参りをする二人の姿には、あまりにも凄惨な人間模様が秘められている。
以上のとおり、パッケージに掲載された6作のうち4作が暗黒俳句というこの高打率ぶりには、何者かの悪意が潜んでいるとしか思えない。何気ない日常の中に恐怖はいつの間にか紛れ込んでいて、うかつにお茶を買ったりすると、ドス黒いクレバスが足下でバリバリ裂けていくのです。
伊藤園のお茶の缶などに一般公募による俳句が書かれているのを見たことがあるでしょう。『伊藤園 お~いお茶新俳句大賞』というコンテストの受賞作品とのことで、現在は第19回の作品を募集中らしい。
俳句にあまり興味のない俺は、それらを今までじっくり読むことはありませんでしたが、ある日買った1リットルサイズのペットボトルに書かれていた句が、あまりにも禍々しいもの揃いだったので、心中うめき声を発してしまいました。選者が何を思ってこれらを佳作としたのか、まったくもって理解に苦しむ。実物の写真は上に掲げたとおりですが、ピンとこない人のために、そのおぞましさを逐一説明していきます。
「すずなりだ 住む人のない家の 柿」
これは怖い。おそらくは普通の住宅街に、住む人のない家があるのだ。柿の木が植わっているような庭があるのだから、そこそこ大きい家である。それがなぜ無人になったのか。相続人がいなかったのか。家人が失踪したのか。
それどころではないだろう。そこにはもっと酷たらしい事情があるに違いない。言うまでもなく、それは殺人事件である。かつてその家では、何者かによって一家全員がみな殺しという流血の惨事があったのだ。それはちょうど柿が生る秋のこと。柿の赤色は流された血を暗示している。柿の木の下には死体が埋まっているのだ。
そして住む人がいなくなった後も、その家は処分されずに放置され続けている。周りの住人は、こどもでさえその家に寄りつくことはない。夜になると誰もいないはずのその家から、家族の団欒の声が聞こえるのだ。今年も生った柿の実を、いつになったら採ろうかと親子が楽しげに相談している声が。
「妹と おんぶバッタの関係だ」
驚異のド変態俳句である。
オンブバッタの生態と照らし合わせてみよう。オンブバッタのおんぶは、人間の親が歩き疲れたこどもを背負ってやっているのとは意味が違う。オンブバッタの場合は上に乗っかっているのがオス、乗っけているのがメスであり、離ればなれにならないようにして将来の交尾に備えているのである。つまり子孫を残すための戦略なのだ。
であるから「妹とおんぶバッタの関係」ということは、いつかは妹と性的関係を結ぶつもりだということを意味する。しかも、おんぶされているのは妹であるから、妹がオスの如く犯す側なのである。かてて加えて、この俳句の作者は女子であるから、姉が妹を背負いながら、いつか彼女に犯されることを妄想しているということになる。年端もいかぬ妹に対して己の倒錯した欲望を刷り込もうという、淫らで邪な情念のありようにおののかずにはいられない。
「鉄道の線路いろどるヒガンバナ」
これも恐ろしい句である。
ヒガンバナは漢字で「彼岸花」と書き、墓地に咲いているのがよく見られる花だ。一説には、有毒植物であるため「食べたら彼岸へ逝く」という意味でこの名が付いたという。つまり、この花には死のイメージが否応なくつきまとっている。
地域によっては、鉄道の線路の土手にヒガンバナが植えられているのかも知れないが、よくあるような光景ではなく、むしろ特異なものというべきであろう。線路脇に咲くヒガンバナという異様な情景が暗示するもの、無論それは電車による人の死だ。人身事故か、あるいは飛び込み自殺か。
そこで惨事が起こった次の年から、誰が植えたかヒガンバナが咲くようになったのだ。飛び散った血を思い起こさせずにはおかない、真っ赤なヒガンバナがあたり一面に咲く。非業の死を遂げた死者の怨念が、凄惨な光景を人々の記憶に蘇らせようとしてるかのように。
次の二つは無難なものなのでとばすとして、最後の句。これは最凶だ。
「墓参り 祖母の手をとり 暮れる秋」
一見して、心にしみいるような秋の情景が描かれているかのようである。祖母を気遣う孫娘(この句の作者は女子なので、ここは「孫娘」と解釈する方が絵が浮かびやすい)の姿は、失われかけている家族の絆の大切さを雄弁に訴えているとも思われる。
しかし、衰えた祖母の手をとる孫娘の胸中でどのような思いが渦巻いているか。
おそらく祖母は、手をとって助けねばならない肉体とともに、頭脳も弱っているであろう。早い話がぼけてきているのだ。家族にとって彼女の介護が重荷になりつつあり、早く死んで欲しいという願いが、皆の心の底に黒く沈殿し続けている。
「暮れる秋」は、祖母の人生の黄昏を示しており、それが近いうちに終わりを迎えることを示唆する。終わりに導くのは誰か。言うまでもなく彼女の手をとっている孫娘だ。
つまり、墓に祖母を連れて行くのは、彼女をそこに葬ろうという孫娘の意識の表れなのである。墓には祖母の夫、孫娘にとっては祖父が眠っているのだが、その祖父を手にかけたのもおそらくこの孫娘だ。
殺人鬼である孫娘。しかし、彼女を止めるものはいない。彼女の両親は、娘の祖父殺しによって介護の重荷からの解放と祖父の遺産相続という恩恵を受けており、結果としてそれを黙って受け容れてしまったことによって、家族のあいだで既に娘に主導権を握られてしまっている。娘が祖母を殺そうと計画していることを知りながら、それを止めるのではなく、逆に彼女に従おうとしている。それは何より、かれらも心の底では祖母の死を願っているからだ。
そして、殺される側である祖母は、靄の中に薄れつつある理性の奥で何を思っているか。あるいは、孫娘にもたらされるであろう死を従容として受け容れる覚悟を固めているのかも知れない。夕暮れの陽に染まりながら墓参りをする二人の姿には、あまりにも凄惨な人間模様が秘められている。
以上のとおり、パッケージに掲載された6作のうち4作が暗黒俳句というこの高打率ぶりには、何者かの悪意が潜んでいるとしか思えない。何気ない日常の中に恐怖はいつの間にか紛れ込んでいて、うかつにお茶を買ったりすると、ドス黒いクレバスが足下でバリバリ裂けていくのです。
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